第36話 もう怖くないー02(イザーク・メイアン視点)

 今から、落ちるんだ、俺は。

 煙道の途中で足を滑らせてしまった、他のクライミングボーイのように――


 

 はっはっと短く荒い息を繰り返す。

 だってここは、暗く、狭く、息苦しく、皮膚が爛れるほど熱い――


「――メイアンさん? どうかされました?」


 リリアーナのおっとりした声が聞こえて、はっとして少し顔を上げる。立ち止まったまま進もうとしない俺を振り返って、リリアーナは不思議そうに首を傾げている。隣のアナベルも訝し気だ。


 そうしているうちにも、あいつはどんどん近づいて来る。あいつの視線の先にいるのは、俺じゃなかった。――アナベルだ。

 距離があって、あいつはまだ、俺に気づいていない。

 ――そうだ、若くてきれいな娘に目がない奴だった。自分から近づいて行って、わざと強くぶつかって、よろめいたところに下卑た言葉を浴びせて、怖がらせて反応を楽しむんだ。


 アナベルのこと、守らないと。令嬢のこと守らないと。俺は、そのためにいるんだ。


 なのに、動けない。頭がグラグラする。ここの酸素が足りないせいで――


 アナベルがあいつに気づいて、氷の一瞥をあいつのいる方向に送った。


「メイアン様――」


 酔っぱらいが接近してる、令嬢をちゃんと守れ――と海色の瞳が俺に向く。

 俺は目を逸らした。視界が滲む。


 ――わかってるけど、無理なんだよ!


 フードを被った首を少し傾けて、リリアーナがこっちにゆっくり戻って来る。


「……メイアンさん? 体調が優れませんか?」


 心配そうな声。


 ――どうしようどうしようどうしよう。


 憧れの従騎士、辞めたくない、辞めたくないのに。

 ここであいつを追い払ったら、あいつはきっと俺に気づく。突然消えた俺のこと、すごく怒っているだろう。俺がいないと稼ぎが減って、酒を買えなくなったろうから――怒り狂ってぶちまけるに違いない、俺の正体を。リリアーナとアナベルはそれを聞いて、帰ってすぐにみんなに言い触らす。


 逃げ出したい。走って逃げようか。あいつはまだ、俺に気づいていないんだから。

 だけどそうしたら、アナベルはきっと俺を許さない。伯爵邸に戻ったその足で、カマユー卿に告げ口しに行くだろう。


 ――どっちにしても、おしまいだ……!



 ばさりと音がした。視界がますます暗くなった。そして、……花と菓子が淡く混ざったような香りがする――


「……は?」


 顔を上げると、黒い布が俺の頭にかけられていた。それで、目の前に――


 ものすごい美少女がいた。


 吸い込まれそうな大きな瞳に、心配そうに覗き込まれている。

 茹で卵の白身みたいな肌の上で、長い睫毛がゆっくり瞬く。


 ――……え?……誰?


「メイアンさん、大丈夫ですか? ほら、ゆっくり息をしてください……。歩けます? 馬車の中で休みましょう」


 目の前の天使が、あいつから隠すように自分の着ていた外套を、俺に掛けてくれていた。


 ――この声……? まさか……?


「……れ、レディ? ……リリアーナ?」


 天使は、それはそれは優しい笑みを浮かべた。


「はい。もう大丈夫ですよ、メイアンさん。何も心配いりませんからね」


 リリアーナの後ろで、アナベルが軽く息を吐く。


「メイアン様、ここはもういいですから。令嬢を連れて、早く馬車にお戻りください」


 怒っている風でもなく、まったくしょうがないわね、って姉ちゃんみたいな感じで言いながら、アナベルはリリアーナと俺を背に庇うようにして、叔父のいる方を向いた。ほっそいくせに臆する素振りもなく、一歩踏み出す。


「さ、メイアンさん、行きましょう? 歩けます?」


 のほほんとした声は、間違いなくリリアーナのものだった。その手が、俺の背に添えられて、ぽんぽんっと叩く。どこか懐かしい触れ方だった。まるで村にいる母さんが「おかえり、もう大丈夫だよ」ってしてくれたみたいだった――まさか、とふと思う。


 リリアーナは、もしかしたら、知ってるのか? 俺の本当の歳を。ずっと年下だってことを。――いや、そんなはずない。でも、だけど。


 目の前にある夜空みたいな瞳は、何もかも見透かしてるみたいだった。


 頭に被された外套越しに恐る恐る見ると、ぽかんと呆けた叔父の顔が目に入った。

 アナベルとリリアーナを交互に眺めるように見て、――にやーっと嬉しそうに笑みを深める。

 よく知っている、その嗤い方。自分より弱い者をいたぶる時、こんな風に嗤うやつだった。

 わざとらしいほどふらつきながら、アナベルに向かって来る。


 ――だめだ。


 だけど、動けない。あいつには、逆らえない。

 だって、悪いのは俺だから。いつだって、俺が悪かった。

 背中の水ぶくれが痛くて登れないなんて言ったから。熱があって苦しいから、働きたくないなんて言ったから。酒じゃなくて、食べ物を買って欲しいなんてせがんだから。世話になったくせに、野垂れ死ぬ運命から助けてもらったくせに、逃げ出したりしたから。俺がぜんぶ、悪いから――――。


 ――甘ったれるな! 火かき棒を振るう、骨張った腕。血走った目。嗤う唇――ごめんなさい、痛い、ごめんなさい、床が、赤い、暗い、ごめんなさい、怖い――――怖い。


「行きましょう、メイアンさん」


 リリアーナの声がおっとりとそう言って、背中がまた叩かれた。だけど、膝の震えが止められない。

 俺はただ突っ立って、滲む視界でそれを見ていた。

 アナベルよりもずっと大きなあいつの身体が、近づいて、ぶつかる――


「あっ」


 勢いよく横倒しにひっくり返ったのは、アナベルじゃなくてあいつの方だった。石畳とあいつの左半身がぶつかり、ごつんと大きな音が響く。


「……え?」


 瞬きする間のことで、何があったかよく分からなかった。けど、段差に躓いたんだろう。アナベルが足を引っかけたようにも見えたけど……そんなはずないし。


「な……なにしやがる……」


 自分でひっくり返った癖に、あいつは憎々しげにアナベルを見上げた。アナベルの方は平然と無表情で、黙ってあいつを見下ろしている。

 弾みで帽子が脱げ、ぺたりと髪の毛が張り付いた頭を振りながら立ち上がろうとして、あいつは俺のいる方を見た。目が合った気がして、ぎくりと身が竦む。


 途端、あいつはぎょっとしたように目を剥いた。ひっ、と引き攣ったような声を上げると、そのまま這うように後ずさり、立ち上がって踵を返す。


 ――え? 


 あいつは足を縺れされながら、狐に追われる野ウサギのように走り去った。


 ――え? な、なんで?


 転んだ時に落としたシルクハットは石畳の上に転がっているし、噴水に立てかけたブラシもそのまま。だけどあいつは、行ってしまった。

 アナベルが、すうっとリリアーナの横に戻ってくる。


 首を傾げた瞬間、馬の蹄の音が背後から響いた。

 振り返る前に、騎馬の一群が図書館の前にいる俺たちを追い抜いてゆく。馬上には、深緑の制服を着た騎士たちがいた。


 なるほど……と内心でほっとする。あいつは、この騎士の群れに恐れをなしたらしい。助かった。偶然通りかかった騎士たちに、助けられた。


 ところが予想に反して、彼らはそのまま通り過ぎなかった。俺達の進路を塞ぐように馬を止めると、ひらり、ひらりと馬から降りて、俺達を囲む。


「……え?」


 鋭い顔つきと鍛えられた体つき。一見するだけで、手練れの精鋭。一、二、三……六人もいる。


 ぽかんとしていると、今度はがらがらと車輪の音が後ろから響いて、馬車が現れた。俺達の前で、ゆっくりと停まる。馬車の後ろにも、馬に跨がったままの騎士が六人もいる。


 それは、でっかい四頭立ての馬車だった。つやつやした深緑のキャリッジの扉には、紋章が描かれている。植物で巻かれた盾の上に、冠。


 ――……冠つきの、紋章……?


 紋章のルーツなんて知るわけないけど、冠を頂く紋章だけは知っていた。この前、教えてもらったばかり。ノワゼット公爵家の紋章にも、鷹と冠が入っているから。――冠は、王族とそれに近い公爵にだけ許された紋章。


 馬車の窓が、音もなくすうーっと開いた。窓の位置が高く、中の様子は伺えない。

 だけど、そこにいるのはこの国有数の偉い人であるのは間違いない。


 リリアーナが、馬車に向かって頭を低く下げた。落ち付いた声で言う。


「公爵さま、ご機嫌麗しゅう」


 横に立つアナベルも低頭するのを見て、俺は慌ててリリアーナに被せられた外套を頭から外して抱え、胸に右手を当てる。短く、馬車の窓から低い声が響く。


「――乗れ」


 唐突で、居丈高な物言いだった。


「はい……?」


 さすがに、いつものんびりしているリリアーナの声と顔にも、躊躇いの色が浮かぶ。

 不遜にならない程度に、アナベルの眉も寄っている。

 馬車の中から、低い声が命じる。


「レディ・リリアーナ・ロンサール、用がある。早く乗れ。ぐずぐずすると通行の邪魔になる」


 平坦で感情の読めない声は、貴族様特有のものだ。どんな口調で言ったって、結果は同じ。だから、感じ良くする必要なんてないんだ。逆らえる人間なんて、この世にいるわけないんだから。

 一度ゆっくり瞬いてから、リリアーナは、こくりと頷いた。


「承知しました。公爵様」


 頬に傷痕のある人相の悪い騎士が、手早くキャリッジの扉を開ける。どうぞ、と険しい声で言って、リリアーナに手を差し出した。


「ありがとうございます。騎士さま」


 リリアーナが深緑の騎士の方を見て微笑を浮かべて、小さな手を伸ばす。

 ひらりと妖精が舞ったみたいだった。リリアーナの動きに合わせて、空気がきらきら光る。

 途端、厳めしい騎士は、何度か瞬いて顔を赤くする。


「メイアン様」


 名を呼ばれ、ぎくっとする。振り向くと、アナベルが何か言いたそうな顔でこちらを見ていて、はっと気づく。


「あっ! あの! ちょっと、待ってください!」


 そうだ。俺、護衛だった。どうする? リリアーナ、行かせていいの? いや、駄目な気がする。どうする?


 深緑の騎士達の険しい視線が、声を出した俺に一斉に向けられる。突き刺さる迫力。

 公爵付きの精鋭が六人。俺一人に、相手できるはずもない。


 じとり、と全身に汗が滲む。

 頭がぐちゃぐちゃに混乱した。


「黒鷹の従騎士は、ここに残れ」


 馬車の中から響く、命令し慣れた声。誰も逆らうわけない、逆らえるわけないって信じ切っている声。


「……は?」


「用が済んだら、うちの騎士に伯爵邸に送らせる。レディ・リリアーナ・ロンサールとそこの侍女だけだ。早く乗れ」


「え? いや……で、でも!」


 駄目だろう? 駄目だと思う。どうしよう? どうすればいい?


「メイアンさん」


 リリアーナ・ロンサールは俺を見て、微笑んで頷いた。

 その顔ときたら、どう控えめに言っても、やっぱりものすごい美少女だった。『絵にも描けない美しさ』ってどんなんだよ、と思ってたけど、きっとこんな顔だったんだろうと今ならわかる。


「わたくしのことは心配いりませんからね。先に屋敷に戻って、休んでいらしてください。お顔の色が良くありませんもの」


「……は? い、いや、だけど!」


「本当に、何も心配いりませんからね」


 動転してる俺を落ち着かせようとするように、リリアーナはにっこり頷いて見せた。

 それは、どう控えめに言っても、ものすごく優しそうで、ものすごく善人顔だった。


 ――あれ?


 陰湿、傲慢、残忍?

 不気味な魔女?

 さっき、自分の外套脱いで掛けて、俺のこと守ろうとしたの?


 アナベルまでが、心配そうに俺を見ている。


「メイアン様、体調が優れないようですから、屋敷に戻ってお休みになってください。リリアーナ様のことはご心配なく。後はわたしにお任せください」


「……え?」


 軽く口角を上げて、アナベルが頷く。かっこよく背を伸ばし、お仕着せの裾をひらっと翻すと、リリアーナにぴたりとくっつき、馬車に向かう。


「お手を、――どっ、どうぞ、伯爵令嬢」


「おっ、お足元、おっ気をつけください! 伯爵令嬢」


 リリアーナが柔らかく頷いて礼を言うと、どぎまぎした様子で手を差し出していた深緑の騎士達は、顔を赤くして噛みまくった。

 リリアーナは馬車に乗り込み、アナベルもそれに続く。


 立ち竦む俺の目の前で、キャリッジの扉がガチリと容赦なく、騎士の手で閉じられる。


 ひらりひらりと、深緑の騎士たちは次々と馬に跨がる。

 そうして、深緑の馬車とその回りを取り囲む騎馬の群れは、瞬く間に走り去った。


 ――リリアーナと、アナベルを乗せて。


 ――…………。


 

 遠ざかる馬車を見送りながら、急速に俺の頭は冷えてゆく。

 このたった五分の間に、いろんなことが起こり過ぎたようだ。


 順番に、整理しよう。


 ええっと……。


 叔父がいた。俺に気づかずに行ってしまった。


 次に、誰かは知らないけど、公爵らしい男が現れた。


 それから――

 リリアーナ・ロンサールは、魔女じゃなかったらしい。あれはどうやら、天使だな。まったく噂なんてのはこれだから。うん。


 ――うん?

 

 ――……あれ? 


 これ、どういうこと?


 カマユー卿に言われた言葉が過る。


 ――『令嬢にもしものことがあったら、シャレにならん』


 俺が色々吹き込んでから、副団長が来ても大喜びしなくなったリリアーナ。

 最近、元気がなかった副団長は、思い詰めたように俺に訊いた。


『本当に、何も変わったことないか?』


 カマユー卿とアイル卿は言っていた。


『しょうがねえよ、察してやれ』

『ウェイン卿も大変なんだよ』


 すごく格好良くて立派な人だけど、爵位はない副団長。

 実は絶世の美女だった、伯爵令嬢。


『あんたには、あんたに相応しい相手がいるでしょう?』


 レディ・ブランシュの婚約者は、ノワゼットで……?

 今、レディ・リリアーナを連れてったのも、……?


 あれ?


 ――『副団長、王宮に本命の相手がいるからですよ! ニーナ・ナディンさんです!』


 あれ? 副団長の、本命の相手って――



 ――……誰?




  

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