第35話 もう怖くないー01(イザーク・メイアン視点)

 先週の月曜、伯爵邸から帰ろうとしていると「ちょっといいか?」と副団長に呼ばれた。

 内心、ぎくりとした。リリアーナ・ロンサールが、この前のことをチクったのかもしれない――そう思ったのだ。

 しかし、書斎で二人きりになった副団長に、特に責めるような空気はなかった。


『メイアン、最近どうだ?』


 副団長はどこか疲れた微笑を浮かべて、俺に訊いた。俺は少し心配になる。


『は、はい! 早く一人前になれるよう、頑張ります!』


 ――そうして、副団長を助けられるような騎士になりたいです、と内心で続ける。

 副団長は、ああ、と頷いた。


『……メイアンは最近、伯爵邸にいることが多いだろう? 何か、異常ないか?』


 いいえ――と俺は首を振る。


 そうか……と言って、副団長はひとつ息を吐いた。


『俺は伯爵邸に付きっきりってわけにはいかない。まあそれで、頼みがある。令嬢、……レディ・リリアーナが出掛ける時は、必ずお前が付き添うようにしてくれ』


 まったく不可解なことだが、リリアーナ・ロンサールは俺を気に入らないだとか、護衛から外せだとか、近づけるなとかいう類いのことを言っていないらしい。

 わかりました、と応えると、副団長は少しほっとした様子を見せてから、言いよどむように続けた。


『まあそれで……何か異常があった時はもちろん、行き先や、誰と会ったかも、逐一報告してくれないか』

 

 その声が心配に沈んでいる気がして、俺は少し感動した。

 副団長って本当に、誰にでも優しくできる人なんだ。あんな、リリアーナ・ロンサールみたいな女にまで――。

 もちろん、俺は快く了承した。



 そして、今日も今日とて、図書館に来ている――

 リリアーナの周辺に、異常なんかあるわけない。つまらない図書館と屋敷を往復するだけの、退屈で、くだらない毎日。

 俺には、王宮騎士になるっていう崇高な目標があるっていうのに。付き合わされて、時間を無駄にさせられて――伯爵令嬢ってのは、まったくいいご身分だ。



 ――そういえばここのところ、副団長はロンサール邸に間を置かずにやってくる。

 昨日も一昨日も、その前の日も――

 リリアーナは、俺がはっきり言ってやってからと言うもの、副団長が来ても前みたいに大喜びして見せなくなった。

『わたくしのことはお気遣いなく、お仕事、優先してくださいね』

 申し訳なさそうに、そう言ってる声が聞こえたこともある。

 ようやく、身の程をわきまえたんだろう。まだ婚約破棄には至ってないけど……それだってそのうち、何とか考えて―――


「重いでしょう? メイアンさん。もう少しお待ちくださいね」


 いつも通り、リリアーナとアナベルは時間をかけて本を選んでいた。選んだ本を俺に手渡しながら、リリアーナは前と変わらない口振りで言う。――別に重くもないんだけど――はあ、と俺は不満を顔に出して頷く。

 図書館なんて、まったく何が面白いんだか。

 アナベルはまたちらっと冷たい視線を投げてきたが、リリアーナはふふっと笑った。


「折角ですから、メイアンさんも何か借りられてはいかがです?」


「結構です。仕事中ですから」


 素っ気なく応えると、あらそうですか……と残念そうに、フードの下の口許はわかりやすく落胆する。


「メイアンさんは普段、どんなご本を読まれるんです? 冒険活劇とか……歴史物なんかでしょうか?」


「――そんなことより、早く帰りましょう。日が暮れますよ」


 目一杯、苛立った風に言うと、あら、とまた残念そうに首を傾げてから、ではそういたしましょうか、とリリアーナは朗らかにあっさり頷いた。

 このニワトリ並みの頭しかなさそうな女は、俺に嫌われていることをちゃんと理解できているのだろうか、と少し心配になった。


 図書館の大きなドアの外に足を踏み出した途端、思わず首を竦めるほど冷たい風に首筋を撫でられる。ずいぶん冷えるようになった。 

 念のため、辺りに気を配りながら、馬車に戻る途中――それは目に入った。


 ――ぎくりと足を止める。


 視界の隅に、男がいた。


 金ボタンが光る、よれた黒いジャケットに黒いシルクハット。傍らに立てかけられた、長いブラシ。――あの格好は、典型的な煙突掃除夫だ。

 冷えるせいか、いつもより人出のない広場の噴水の縁に所在なげに腰掛けている。


 リリアーナは肌寒そうに黒い外套の襟を掻き合わせ、お仕着せ姿のアナベルと中睦まじそうに、本の話題で笑いあっている。二人は何も気付いていない様子で、のんびりした足取りを馬車止めに進めていた。



 ――男がふいに顏を上げた。

 右手に握られている酒瓶が目に入って、心臓が破裂したんじゃないかと思うほど激しく鳴る。

 立ち止まって、俺は慌てて顔を背ける。



 ――あいつだ。



 なんで? こんなとこに? あいつの家は王都のはずれだし、シマだってこの辺りじゃなかった。

 顏を背けたまま眼球だけ動かして見ると、男がよろっと立ち上がるのが見えた。まだ陽のあるうちだっていうのに、しこたま酔っているようだった。ひどくふらつく足を一歩、こちらに向かって踏み出す。


 じとり、と冷たい汗が全身の毛穴から吹き出した。


 前を歩くリリアーナ・ロンサールは、中身はどうだろうと間違いなく、伯爵令嬢様だ。そんな人間と俺は今、一緒にいる。


 ――ずいぶん、遠いところに来てしまった。


 いいご身分だ。伯爵令嬢様も、伯爵家なんぞで働ける侍女様も、高潔な王宮騎士様も、みんなみんな、眩い高み。

 そして今、俺も、そこに立っている。


 だけど、あいつに声を掛けられたら――バレる。

 本当のことが、騎士になるためについた嘘が、たくさんの偽りが――リリアーナとアナベルに、知られてしまう。


 バレるバレるバレるバレる……バレたら、どうなる? 


 第二騎士団の従騎士、頸になるだろう――イヤだ。

 だけどこれは『経歴詐称』ってことになるだろうから――ダメだ、絶対にバレるわけにはいかない。


 ――どうしようどうしようどうしよう。


 顔を逸らしたまま、俯く。


 ――いや、あれからもう、二年も経った。背も高くなって、従騎士の制服も着てる。きっと気付かれない。

 気付かれたって、なんだっていうんだ? 今じゃ俺の方が身体が大きい。力だって強い。何か言う前に黙らせてやればいい。


 あんな奴、もう怖くない。

 俺はもう、やられるばかりだった頃とは違う。身体を鍛えて、厳しい訓練も頑張って、憧れに近付いて、従騎士になれた。正義の味方に、なったんだから。


 それなのに、わかっているのに、もう怖くないのに。

 口の中がカラカラになった。膝の震えを止めようと歯を食いしばると、額から顎に伝った冷たい水滴がぽとりぽとりと落ちて、足元の石畳に染みを作る。


 ――なんで……っ!?




 ――ほんの少し前まで、俺は空気だった。


 けれど六つまでは、まだ人間だったんだ。小さな村で小さな畑を耕し、家族と細々と暮らしていた。

 厳しい冬が来る前、北都から査察にやってきた役人の一人が、寒さで体調を崩したとかで村長の家でしばらく寝付いた。

 そこからは本当、あっと言う間だった。うちの場合は、父さん、祖母ちゃん、二つになったばかりの妹、母さん、姉ちゃんの順番。――流行り病だった。

 北都から来た役人は助かって、元気に戻ってったっていうのに。


 あの村にちゃんとした医者はいなかったし、小作人は日々の栄養も足りていなかったから。まあしょうがない。まったく、あっけないものだった。北の国境付近の、冬は雪に閉ざされる貧しい村の、珍しくもない話。


 貧しく、しかも疫病が猛威をふるったばかりの村に、他人の子を育てる余裕のある家は、一つもなかった。

 王都に遠縁の叔父がいるはずだと言うと、親切な村の司祭様は、わざわざ王都まで連れて来てくれた。

 初めて見る、堅牢で荘厳な建物群。どの店先にも並ぶ、溢れんばかりの食べ物。道行く人々は大人も子どもも皆、ふっくらして血色良く、健康そうだった。司祭様と立ち寄った王都のこぢんまりしたレストランで、生まれて初めてパンを腹一杯になるまで食べた。この世にこんなに沢山の食べ物があるなんて、信じられなかった。しかも、そのパンときたら、今まで食べたどんなパンよりもふわふわして甘かった。


 初めて会った遠縁の叔父は、目の下がびっくりするほど黒ずんで、骸骨みたいに痩せていて、何よりすごく酒臭かった。両親の名を言うと、迷う素振りもなくあっさりと俺を引き取ると言った。

 司祭様は「良かった。元気でやるんだよ」と肩の荷が降りたように微笑んで、俺の頭を優しく撫でて、帰って行った。

 軽く手を振る司祭様に頭を下げながら、俺は、ただ出稼ぎに来たんだと思えばいい、と思った。あの村では、今もまだ家族が変わらず元気に暮らしているんだ。俺のこと、王都で元気でやってるかな、とか心配しながら、小さな畑を耕してるんだ。どうせ会えないし戻れないなら、そう思った方が、ずっといいじゃないか。


 王都は素晴らしいところだった。だけどここでは、俺は空気と同じだった。

 煙突掃除人だった叔父が、子ども嫌いだったのは間違いないと思う。でも、俺はよく役に立った。


 王都にある家はだいたいどこも立派で、金や銀の細工物や写真や絵が飾られた、美しいマントルピースがあった。冬がはじまると、そこに薪と火を入れる。人々は照らされ、暖を取る。

 そうするうちに、煙道には煤とタールがこびりついてゆく。年に一度は掃除しないと詰まってしまう。

 だけど、煙突の中は細く狭い。金や銀で彩られた美しい暖炉の奥、上へ上へと長く伸びる穴。

 その中には、子どもの身体でなければとても入れない。歴史ある『クライミング・ボーイ』ってやつに、俺はなったわけだ。

 芋虫みたいに背中と膝を折り曲げて登りながら、両手をうまく使ってブラシを使って煤を落とし、こびりついたタールを引き剥がしていく。


 頭から煤をかぶった。目にも口にも、どばどば入ってくる。たまにだけど、火を消したばかりの煙突に入らされる時があって、あれは本当どうしようもなくて、今思い出しても最悪だ。肘と膝と背中の火傷の跡は、一生消えないだろう。



 ロンサール伯爵邸とノワゼット公爵邸では、驚いたことにクライミング・ボーイでなく、外から長いブラシを差し込んで掃除しているらしい。ハウスメイドにそれとなく尋ねると、「なんでそんなこと訊くの?」って顔しながら、そう教えてくれた。

 ノワゼット公爵とロンサール伯爵は、高貴な上に恐ろしいほど頭がいいらしい。頭の出来のいい人の考えることは、俺には分からない。クライミング・ボーイの方がよく汚れが落ちるし、それが当たり前のことなんだから、そうすればいいのに。


 二人とも、会うと「ご苦労様」って声をかけてくれるけど、賢い人の前では、俺は萎縮してしまう。猿並みの学の無さを、見抜かれているんじゃないかと。図書館に並ぶような本なんて読んだこともなくて、今まで何とか誤魔化してきたけど、読み書きさえままならないことを見抜かれているんじゃないかと、いたたまれなくなるんだ。

 


 掃除に行った先の広大なお屋敷には、最初のうち、息を呑むほど感動したもんだった。

 壮麗に煌めくお屋敷の、きちんとした使用人様は、叔父にチップを渡しながら決まって俺にこう言った。「その汚い顔と身体、決してご主人様にお見せしないように」


 いつだったか、落とした煤を当時の俺の身体よりずっと大きな麻袋に詰めている最中、慈善家で知られる貴族様が部屋に入ってきてばったり鉢合わせしてしまったことがある。

 慌てて手を止め、麻袋に隠れるように縮こまって詫びる俺に、貴族様は鼻の頭にぎゅっと皺を寄せ、一瞥だけ投げかけると無言で立ち去った。

 ああほらやっぱり、と思った。どうやら俺は、人間じゃなくて空気になったんだな、やっぱり。


 俊敏さだけには自信があって、どんなに高く、どんなに垂直な煙道でも登れた。他の奴らみたいに、膝の進め方を間違えて中で詰まってしまったり、煤をかぶって窒息したり、三階や四階部分から落ちるなんてポカしなかったから、六歳から始めて、十二になってもまだ生きていた。


 煤を浴びるせいで、いつも目は血走って真っ赤だった。咳ばっかり出てた。こうやって、人は死んでいくのだろう、そうしたら、あの村に帰れるだろうかと思っていた。辛いとか悲しいとかじゃなく、ただぼんやりと息をしていた。


 あの日、あいつは珍しく、見てきていいぞ――と言った。あのロクでもない叔父ですら、終戦には浮かれたんだろう。


 寝床にしてる煤袋の間から這い出して、外に出た。

 眩しい日だった。空が、びっくりするくらい高くて――


 紙吹雪と花弁と、歓声が舞っていた。


 騎馬に跨がる、凛々しい騎士たちを見た瞬間、胸が震えるのがわかった。


 中でも――


 鋭く光る赤い瞳。神々しい白銀の髪。最強の騎士。


 ずっと昔、母さんが寝る前に話してくれた物語を思い出した。水竜の背に跨る、伝説の銀の騎士――。


 ――あれが、王宮騎士……カッコいいなぁ……。


 パレードの横を、追いかけて走った。ずっとずっと、走って追いかけた。煤を吸い込み過ぎた肺が、ゼエゼエヒューヒュー音をたてた。

 王宮の門に隊列が吸い込まれて、姿が見えなくなった後も、じっと門を見ていた。 

 陽が落ちて、辺りをオレンジ色に染めても、動けなかった。


 ――帰らなきゃ。格好良かったな。あの煤まみれの寝床に。もし、自分もあんな風に――帰らなきゃ、煤の中の、俺の寝床に。もし、強い騎士になれたなら――



 もう、あの暗い穴に、登らないですむだろうか――――



 兵団に入団できる十五歳になるまで、あと三年もあった。

 だけどもう、一秒だって我慢できないと思った。

 このまま空気でいたら、十五にはきっとなれない――。


 帰るのはやめた。

 年齢と身元を偽って、兵団の受付の扉を叩いた。身体は同年代と比べてもずいぶん小さかったのに、「北部の落ちぶれた家の出です。食うに困って、兵団に憧れて王都に来ました」って言ったら、すんなり信じてもらえた。


 いや――気付いてたけど……、ガリガリで傷だらけの俺の身体を見て、何か考えるような、難しい顔をしてた。

 何か察してくれたのかもしれない。係りの人は、父さんとちょっと似た感じの人だった。



 それから毎日、少しでも時間を見つけたら、寝る間も惜しんで剣を振った。

 兵団の食事は美味くて、好きなだけ食べさせてもらえた。身体は急激に大きくなって、いつの間にか肺は変な音を立てなくなった。


 半年ほど前、陽炎を操れるようになった。二ヶ月前、試験を受けて、憧れの第二騎士団の従騎士になれた。

 筋が良くて見込みがあるって、正騎士に声をかけられた時は、嬉しくて泣きそうだった。


 ここまで、登ってきた。片時も休まずに登り続けて、俺は空気じゃなくなった。王宮騎士や、伯爵令嬢様までが、俺の名前を呼ぶ――それなのに、



 ここまでなんだ――


 今から、落ちるんだ、俺は。

 煙道の途中で足を滑らせてしまった、他のクライミングボーイのように――





 

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