第34話 カメレオンの娘ー02

 シャビーな白い本棚の上に、年季の入った水色うさぎのぬいぐるみがちょこんと座っていた。並んだ背表紙の中に好きな作者の名前を見つけて、わたしはおっ! と思う。

 もっと華美なものを想像していたけれど、マージョリーの部屋は白を基調としたインテリアにアンティークローズ柄のファブリックを差した、乙女心をくすぐる部屋だった。

 


「あらあらあら、へーえ、ふうーん、なるほどねー……ほー……こういう世界でございますか……」


 小花柄の分厚いノートを開き、視線を忙しく動かしながらブランシュが唸っている。


 本日のブランシュの護衛担当、ラッド卿とエルガー卿には、ドアの開いた部屋の外で待機してもらった。先ほどの一幕を見ても、瞬きの回数を増やしただけで顔色を変えぬあたり、まったくもって護衛の鑑。


「あの……わたくしの……つまらない夢と空想を書いただけなんだけど……」


 どこかそわそわした様子で、マージョリーの細い指がティーコージーの上のポットを持ち上げる。

 応接室でランブラーについて話すうち、彼女は頬を色付かせながら、ぽつりと口にした。

『憧れでしたの……。モデルにしたお話を空想して書くくらい――』

 


 アンティークローズ模様のティーカップに注がれた紅茶から、優しい薔薇の香りが漂う。

 マージョリーが書いたという小説にかぶりつくブランシュの瞳は、潤んで煌めきだした。


「……へー、そう……金髪碧眼のランスロットと黒曜石の瞳のウィルヘルムがこのタイミングで……まさかのこの展開に雪崩れ込むと……ちょ、ちょっと! 続き、続きは!?」


 マージョリーの手でそっと差し出されたノートを恭しく両手で受け取り、ブランシュはまた食い入るように文字を追う。


「こちらのノートは――世界最強を目指して強い敵と戦っては仲間を増やしながら旅してゆく物語。でもってこちらは、荒廃した世界を救うため辛い戦いに身を置きながら、いつか会えると信じて互いを探すバージョン――会えそうで会えない、すれ違いっぷりがミソですの。でもって、これは天才型のランスロットと努力型のウィルヘルムが、互いをライバルと認めつつ演劇の道を極め、世界へ羽ばたいてゆく物語ですのよ」


「まあ……レディ・マージョリーは、文才がおありですのね……」


 二人が敵同士となり、宇宙を舞台に壮大な戦いを繰り広げるバージョンを読ませてもらいながら、わたしはほうっと溜め息をつく。

 ええっっ! と仰天したような声を上げて、マージョリーはみるみる真っ赤になった。


「な、な、な、な、何!? ほ、ほ、ほ、誉めても、何もでないんだから! リリアーナ・ロンサール! だいたいあなた! 噂と違い過ぎるんじゃなくって!? お人好し顔の美少女ですって……――どうしてくれるのよ! わたくし、可愛いものに目が無いの! 抱きしめて頬擦りしたくなっちゃうじゃない!」


「……しかも、そういう性質でもあったわけね……?」


 ブランシュが目を細め、呆れた声で呟く。


 マージョリーはこほん、と咳払いを落とすと、自身の胸をそっと押さえた。懐かしむような、どこか遠い眼差しを山積みのノートに向ける。


「……わたくしが、初めてランブラー様とウィリアム様にお目にかかったのは、忘れもいたしません。春の陽気に浮かされた、王宮ガーデンパーティーの席でしたわ……」


「ふんふん」

「なるほど」


 ブランシュとわたしはページをめくる手を一旦止めて、マージョリーの話に耳を傾けつつ、ティーカップに手を伸ばす。


「わたくし、当時まだ十三歳。父からも兄からも、初めての王宮なのだから、きちんと振る舞うように、と注意されていたんですけれど、なかなかお転婆が抜けなくって――」


 淑女らしからず、ケーキの皿を持ったまま芝生の上を走って、見事に滑って転んだ。

 白いレースのドレスの胸元にべっとりとついた、潰れた苺とケーキ。

 周囲から沸き上がる忍び笑い。やだ、あの子見て。わあさいあく。かわいそー。泣いちゃうんじゃない?――――


 恥ずかしくて、顔を上げることもできず、逃げ去りたくてたまらないのに、動くこともできなかった。

 ぺたりと座り込み、芝生の上に飛び散ったケーキの残骸を見ていた。泣くなんてはしたないのに、瞬きひとつで、きっともう決壊してしまう。唇を噛み締めて必死で耐えていると、誰かの手が目の前に差し伸べられた。


 ――『ウィリアム、今日は来て正解だったね。こんなに愛らしい苺の精と会えた』


 ――『本当ですね、ランブラー。可憐な苺の妖精さん、後でわたしと一曲踊っていただけますか?』


「――そこには、天界の王子様がお二人、佇んでおられましたの。吹き抜ける風までもが、虹色の光を弾いて煌めいて……。その場にいた誰もが一瞬でお二人に魅了されて、目がハートになっておりましたわ。……わたくしを笑う人は、もう一人もおりませんでした」


 ああ……、とブランシュとわたしは同時に息を吐き出した。


「――言いそうね、あの二人」

「ええ、いかにも、言いそうです」

 

 一目惚れでしたわ……とマージョリーは瑠璃色の瞳を潤ませる。


「その日から、わたくしは陰ながらお二人を応援することを生き甲斐としておりました」


 ブランシュの碧い瞳が、すうっと眇められる。


「……十三歳の無垢な少女を腐落ち……お従兄さまとロブ卿も罪作りね」

「はい、まったくです」


「ですが――」


 ランブラーがロンサール伯爵位を継ぐ段になって、初めてランブラーに従妹が二人いることを知った。

 父とランブラーは疎遠であったし、二人とも周りに知らせないばかりか、顔を合わせる機会があっても完全に他人のように振る舞っていたらしい。


「――許せなかった……! お二人は、何人たりとも侵してはならない天界の柱……! それを……ただ血の繋がりがあるというだけで、何の努力もなしに一つ屋根の下に暮らす権利を得るですって……! そんな不条理なことが許されてたまるものですか! しかも、そんな美味しい状況下に置かれた女が、あのランブラー様に恋に落ちないはずありません! おぞましい独占欲に駆られ、嫉妬に狂い、崇高なる愛の邪魔をするに決まっているのです!!」


 ブランシュの瞳はますます薄く、糸のようになる。


「……思い込みが、はげしいのね」

「そうでなければ、これほど素晴らしい作品は産み出せないのかも……」


 マージョリーの肩が、がくりと力なく落ちた。


「……だけど、全部、わたくしの勘違いでしたのね。……なんて、今さらよね……レディ・リリアーナ、お加減はどう? あの時は悪かったわ……。これ、今日の最初に言うべき台詞よね……」


 力なく瞬いて、マージョリーは自嘲するように続ける。その顔色はやっぱりまだ、優れないままだった。この一週間寝込んでいて、わたしは少し痩せたけれど、彼女もまた、それ以上に痩せて見えた。


「わたくしって、昔っからいっつもこうなの。あの時こうすれば良かった、ああ言えば良かった――それで気づいた時には、もう全部手遅れなのよ……それでも何とか挽回しようと悪あがきして、ますます泥沼に嵌まっちゃうの……それの繰り返しの人生」


 ブランシュが、これ見よがしな大きな溜め息を一度落とした。ノートを広げながら言う。


「何はさておき、まずはこの、恐竜のいる無人島に取り残されたランスロットとウィルヘルムが壮絶なアクションを繰り広げつつ、極限の状況で愛を育んでゆく物語の結末を見届けさせてちょうだい」


 ノートに視線を這わせながら、姉は淡々と言う。


「――それが終わったら、今夜開かれるバルビエ侯爵邸の夜会に、一緒に行くわよ」





 そして、その五時間ほど後。


 バルビエ侯爵邸の夜会で、ブランシュとその友人たちは、同じ話を二十五回繰り返したらしい。


「――ええ、そうなんです。マージョリーはよろめいた妹を助けようと、手を差し伸べてくれたんですわ。それなのに、どうしてか間違った噂が独り歩きして……妹ったら、マージョリーが大好きですの、今日も一緒にお茶を楽しんだくらい」 


「ええ、間違いありませんわ。わたくし達、その場にいて一部始終を見ておりましたもの。ねえ、ビアンカ」


「ええ、デリア。マージョリーはわたくし達のお友達ですもの。突き落とすなんて、そんなこと、するはずがございません。あれはただ、流行の帽子のことですこしばかり意見が食い違って……はしゃいでいただけですわ」


「――ほらこれ、友情の証に、今日はお揃いの髪飾りをつけておりますの。ね、マージョリー?」


 ブランシュが黄金の髪に飾られた蝶を象った銀細工の髪飾りを見せるため、優美に首を傾けると、人々はほうっと感嘆の溜め息を漏らした。


 そして誰もが、それはどこで買えるのか、と訊いたらしい。



 ランブラーに頼まれた人格者揃いの王宮政務官の皆様は、あの日、目にした真実を生涯胸に仕舞うと誓ってくれた。



 マージョリー・ダーバーヴィルズが今までごめんなさい、と言って、ブランシュ・ロンサール、デリア・ビシャール、ビアンカ・フォーティナイナー、コンスタンス・バルビエという社交界に君臨する四令嬢が、わたくし達も言い過ぎたわ、と応えた。



 それは、澄み渡る秋の空に満月が浮かぶ夜に起きた、些細な仲直りの一幕。




 その噂はその夜のうちに王都を駆け巡り、この国の中枢にいる二人の人物の心を少しだけ揺らすことになる。



 シオドア・ダーバーヴィルズ侯爵。

 ブルソール国務卿の側近であり、国王に意見を述べる資格を持つ枢密顧問官の一人。

 カメレオン侯爵と呼ばれる彼は、その渾名を心から気に入っていた。

 損得で人を選び色を変える――当然だ。

 彼は、己より身分の低い者に親切にする人を見ると、気の毒でたまらなくなった。人生の貴重な時間を無駄にしているよ、と教えてやりたくなる。もちろん、相手が王族や公爵ならともかく、それ以外なら関わり合うのは時間の無駄であるから、そんなことは言ってやらないけれど。


 しかし彼には、命よりも大事にしているものがあった。

 妻亡き後、男手ひとつで育て上げた一人娘である。


 カメレオン侯爵はこの日、「修道院に行くのはやめるわ」とその日にあったことをはしゃいで話す娘を見た後、眠りに着く前にぽつりと呟いた。


「……だが、まあ……」


 ――もしこの先、万が一、我が家より格下のロンサール家の娘達が困った羽目に陥るようなことがあったら……ほんの少しくらいなら、損得に関わらず色を変えてやっても良いかもしれないな――。




 そして、もう一人。


 マージョリー・ダーバーヴィルズとロンサール姉妹が和解したとの報告を受け、彼はその夜、そっと微笑んだ。



 それはまた――新たな嵐を巻き起こす。





 

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