第33話 カメレオンの娘ー01

「……お従兄さま……今、何て?」


 朝食の席、わたしは耳を疑った。


『海底』と呼んでいる青を基調とした食堂は、今朝も柔らかな光が差し込んでいた。

 大きく開いた窓の外では、紅色に染まったジューンベリーの葉がさらさらとそよぐ。


 シャツにベストをつけ、タイを締めて出勤の準備を整えたランブラーは、最近嵌まっているというエッグベネディクトにナイフを入れながら柔らかく微笑む。


「リリアーナが元気になって、本当に良かった――って言ったんだよ」


 洗練された仕草でフォークを口に運ぶと、吹き込んだ秋風が美しい従兄の金の前髪をさらりと揺らした。

 

「はいありがとうございます、ご心配をおかけしました。――で、その前! なんと仰いました?」


 聞き間違いかもしれない。いや、きっとそうだ。こんなに次々と問題が起こるわけがない。

 期待をこめて、恐る恐る問う。

 隣に座っているブランシュは、大人っぽいラベンダーピンクのスリーブドレス姿で、まるで秋の果実の精のようだ。姉はわたしを愛おしそうに見つめて、どこか晴れやかな顔をして、従兄の代わりに明るく答えた。


「マージョリー・ダーバーヴィルズ、来週、修道院に入るらしいわよ」


 ――聞き間違いでは、なかった。


 取り落としそうになったフォークとナイフをかろうじて握り直し、ひとまず、皿に置く。


「……修道院……? それはまた突然なことで、この前は、全然そんな風じゃなかったのに、一体、どうしたんでしょう?」


 気持ちを落ち着かせながら問うと、ランブラーとブランシュは、きょとんと顔を見合わせた。


「なぜって……」

「あなたを運河に突き落としたからじゃない?」


 ええっ! とすっとんきょうな声が飛び出した。


「そんな……ま、まさか……! う、嘘ですよね?」


 二人は困惑気味に眉尻を下げた。


「リリアーナが気に病むことじゃないわ。あの女が勝手に自滅したのよ」


「場所は王宮。政務官たちが見守る中、冷たい運河に人を突き落とした。

 アナベルがいなかったら君は、今ここにいなかったかも。娘に甘いことで有名なシオドア・ダーバーヴィルズでも、さすがに庇うのは無理と踏んだんだろ。どうせもう、社交界に彼女の居場所はない」


 ランブラーとブランシュは、それはそれは美しい笑みを深めて言い切った。表情と台詞に温度差ありすぎである。


「……でも、でも……あれは突き落としたというより、事故のようなもので……それは、あまりにも――」


 声が震えると、二人は天使のように暖かい眼差しをみせる。


「最低女は、ほっとけ」

「最低女は、ほっときましょ」


 しかし、天使の口から飛び出した言葉は、悪魔のそれであった。

 強い風が掃き出し窓から吹き込む。膝に置いたナプキンが飛ばされそうになって、慌てて手で押さえた。


 ――あ、埃が、目に入った。


「……わたし……修道院に行ってしまう前に、レディ・マージョリーに会ってみたいわ……」


「いやあ、リリアーナ、優しいのはいいことだけどさ、今回は――」


「そうそう、さすがに度を越して――」


 言いかけたランブラーとブランシュは、わたしの顔を見るなり瞠目した。

 口を拭こうとしたランブラーが、はらりとナプキンを取り落とす。


「わ、わかった! リリアーナ、ごめん! 女性に対して最低は言い過ぎた! ダーバーヴィルズ侯爵家にちゃんと使い送っとくから!」


「わ、わかったわ! 一緒に会いに行きましょ!」


 ――あ、良かった。


 ぱちぱちと瞬くと、目に入った異物は無事洗い流された。いや本当、涙が眼球保護に果たす役割は大きい。人の身体はよく出来ている。


「ありがとうございます。お従兄さま、ブランシュ」


 涙を拭いながら、優しい二人に笑いかける。


 従兄と姉はどうしてか心からほっとしたように、何度もこくこくと頷いて見せた。



 §



「……わたくしを笑いに来たの?」


 ブランシュと訪れたダーバーヴィルズ侯爵邸。

 豪勢な応接室の長椅子に気怠そうに凭れたマージョリーは、息を吐くみたいにそう言った。


 あの日、一分の隙も無く整えられていたプラチナブロンドの髪は、今日は結われもせず腰まで垂らされている。

 肩にかけたストールの下の締め付けのないライラック色のエンパイアドレスは、室内着だろう。

 アーモンド形の瑠璃の瞳は覇気に薄れ、目の下はくすんで、唇は乾いている。


「急な訪問にも関わらず応じてくださって、ありがとうございます。侯爵令嬢」


 ここに着くなり、ブランシュはむっつりと黙りこんでしまった。

 ダーバーヴィルズ侯爵邸に赴くため、着替えたブランシュの装いはいつにも増してパーフェクトだ。

 先週仕立て上がったばかりのドレス。後頭部で高く結い上げた髪。王都で最も有名なデザイナーが手掛けた靴は一点もので、華奢なヒールは恐ろしいことに10センチもある。

 下地にたっぷり時間をかけた肌と唇は、うるうるのつやっつや。――つまり、ブランシュ流の戦闘服だ。

 ところが、打ちひしがれているマージョリーに気勢を削がれ、戦意喪失しかけているのを、背筋を伸ばして必死に保とうとしているらしい。


 マージョリーは視線を下げたまま、ふっと口元を歪めた。


「別に……? 被害者が加害者に会いに来てるのに、追い返すわけにはいかないでしょう? なにしろ、わたくしは今、王都でもっともホットな殺人未遂犯なんだから……もっと悪い噂が……まあ、もう、今更どうでもいいんだけど……」


 力なく言いながら、マージョリーは疲れた様子で大きく息を吐き、視線を床に落とす。


「あのっ、お見舞いの花を贈ってくださって、ありがとうございました。とても綺麗な赤い薔薇で、素敵な香りがいたしました」


 俯いたマージョリーの気の強そうな整った顔が、苦しげに歪んだ。


「あんなの、父が勝手に送ったのよ。ブルソール国務卿の米つきバッタだけど、ノワゼット公爵に嫌われるのも怖いんでしょ。相手に気に入られるように、ころころ色を変えるカメレオン。さんざん馬鹿にされてるの、知ってるでしょう?」


 涙を堪えるようにして、わたしとブランシュをきっと睨む。


「だけど、もう終わりよ。二度とあんた達とは会わない。王都からうんと離れた場所にある修道院に行くわ。いい気味でしょ? わたくしだってせいせいするわよ。あんた達姉妹、二人とも、大っ嫌いだった!」


 マージョリーの恨みの籠もった瑠璃色の瞳に射貫かれて、ブランシュがお上品な口調で「けっ」と言う。


 ――ああ、やっぱり。


 この人がブランシュとわたしを憎む理由――

 あの時、運河から引き上げられた後、わたしは見た。マージョリーの狼狽えた視線の先にいたのは――


 マージョリーのかさついた唇が、力なく動く。


「で、何の用? 本当に笑いに来たの?」


 慌てて首を横にふる。


「いいえ、まさか。わたくし、申し上げに参りました――」


 真剣に見つめ返すと、マージョリーは訝し気に眉を寄せる。

 だって、しょうがない。あの運河の水はすごく冷たかったけど、例えばこれから先、わたしがすごく幸福になれたとして「ああ、人生は満ち足りて、足りないものは一つもない――」そう思えたとして、その時きっと、わたしは修道院に行った彼女のことを思い出す。

 自身の幸福の影で、泣いた女性がいたことを――それって、本当のハッピーエンドと言えるのかしら?


「――わたくしたち、決して、ランブラーの邪魔なんかいたしませんわ。まあそれで……唐突ではありますけれど、なにぶん時間もありませんし、率直に申しますと――わたくしたち、お互い大事に想う相手が一緒なんですから、意外とわかり合えるんじゃないかと思うんですの。レディ・マージョリー」


「「は……?」」


 マージョリーとブランシュの声が重なった。


 しばらく考える素振りをみせたマージョリーの瑠璃色の瞳が、驚愕に開かれてゆく。

 揺らぎ、青ざめ、次にその顔はみるみる紅潮した。両拳の血の気が失せるほど固くドレスの裾を握り締め、長椅子から勢いよく立ち上がる。


「そ、そ、そ、な、な、な、何の話!? 違うわよ!」


 当たったらしい。

 マージョリーは、見ていて気の毒になるほど動転した。

 黙っているわたしたちに向かって、次々に言い募る。


「違うわよ! 何言ってるの! わたくしはただ、応援しているだけなんだから! この気持ちは神に誓って、私利私欲とは無縁なの! ロンサール伯爵様とウィリアム・ロブ様の醸し出す、耽美でいて気高き世界を敬愛し、あくまでも利他の精神で貴んでいるだけ! それなのに、あなた方と来たら! ただ、従妹というだけで、お二人の間に割って入り、邪魔をするものだから……!」


 は? 何言っちゃってんの?――と瞠目したブランシュが言う。


 そんなブランシュの顔を見たマージョリーは、こぼれ落ちんばかりに目を見開いた。恐る恐るといった体で、ブランシュに問いかける。


「あなた……ロンサール伯爵様が、……好き、なんでしょ?」


 事の次第を察し始めたブランシュが、ゆるゆると頷く。


「そりゃ、まあ……、従兄だから? お従兄さま、話わかるし?」


 マージョリーが言いにくそうに、しかし意を決したように口を開く。


「じゃあほら、あれは?……その、いつだったか、ゴシップ紙にあったじゃない? ノワゼット公爵様と婚約中である一方で、後見人であるランブラー様とも歪な三角関係を築き、その……ふしだらな、ごにょごにょっていう……、あれはどう説明するの!?」


 ブランシュが、眉を寄せる。


「ああ、あの、記者が悪のりして面白おかしく書き立てたキモい記事なら、アランが抗議して翌日に訂正記事出たはずだけど……? そもそもあの頃、従兄は屋敷に寄り付きもしなかったんだから、三角関係も何もないわよ」


 そうそう、とわたしも横で同意して頷く。


「じゃ、じゃあ! リリアーナ・ロンサール! あんたはどうなの!? 怪しい魔術で伯爵様をゆうわ……」


 言いかけて、わたしの顔をじっと見て、マージョリーは「……ガセだわ……」と呟いた。なんでか自己完結したらしい。長椅子に崩れ落ちるように座る。


「まさか……わたくしの……誤解……?」


 マージョリーの瑠璃色の瞳に、みるみる涙の膜が張る。

 ブランシュは瞬きもせず、ただそれを見つめていた。


「……この人…………まさか……?」


 わたしは立ち上がり、マージョリーにそっと近付いた。

 傍らにかがみ、親愛の情をこめて言う。


「ええ、侯爵令嬢、わたくしたちもまた、ランブラーの幸福を心から祈っております」


 苦しげに胸を押さえたマージョリーは、唇を震わせた。


「っ……そんな……!」


 長椅子に突っ伏したマージョリーに視線を釘付けにされたまま、ブランシュが掠れた声を出した。



「……まさか……ただの腐――」




 

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