第37話 空っぽの馬車ー01(アルフレッド・キャリエール視点)

 長い仕事を終えたばかりのアルフレッド・キャリエールは、ロンサール邸へと続く道を馬に乗って進んでいた。



 明日は、ようやく手にした休日である。

 ロンサール邸護衛の手伝い、及び従騎士イザーク・メイアンの指導、という名目で伯爵邸に入り浸ってやるつもりだった。

 なんならレディ・リリアーナの護衛、メイアンと代わってやろう。

 すっかり寛ぎ、伸び伸びとだらけた気分であった。まったく休みの前の日ってのは、途方もなく心が浮き立つ。


 ルイーズ・オデイエと並んで伯爵邸への道を往きながら、ブナ林に目をやる。


 美しい紅葉を散らして吹き抜ける秋風に頬を撫でられて、思う。



 ――人生は、そう悪くない。





 日常ってのは、いつだって唐突にひっくり返る。

 第六感とか虫の知らせとか、残念なことに、俺にはあった試しがない。


 俺には、十歳違いのピアノを弾くのが上手い兄貴がいた。

 正直なとこ、四つの時に亡くなった母のことはほとんど覚えていない。時に厳しく時に優しい、叱ってくれて褒めてもくれる、出来た母親だったらしい。

 父親のキャリエール男爵はというと、母が亡くなってから次第に酷くなったらしい。酒と博打に溺れ、周りの人間に暴力を振るう、典型的なダメ人間。


 母親が死んだ時、十代半ばだった兄貴は、いかにも貴族の息子然としていた。

 気が弱くて大人しくて、剣よりも芸術を愛する。俺とは正反対のタイプ。


 ピアノの音色が満ちる、古い小さな屋敷。兄貴が大事にしてたのは、母さんが結婚する時に実家から持ってきたっていう、年代物の大きなグランドピアノ。

 俺には音楽の才はさっぱりなかったが、兄貴の横に座って、でたらめに歌うのは好きだった。


 父親はダメ貴族だったけど、兄貴が気を配って、衣食住は苦労しない程度に整えられていた。夜は兄貴が眠りに落ちるまで枕元で絵本を読んで頭を撫でてくれる。騎士を雇う余裕なんてなかったが、使用人が二人に通いの家庭教師が一人。

 ちゃんばら好きの俺のために、剣の稽古も兄貴が細い腕でつけてくれてた。今にして思えば、ままごとの領域だが。


 落ちぶれても、貴族の端くれ。

 上を見たら、キリがないから。

 良くもないけど、悪くもない暮らし。


「――アルは天才だなぁ。特に、剣の才能あるよ。強いなぁ。きっと、将来は王宮騎士になれる。キャリエール男爵家から王宮騎士が出る。天国の母さんが喜ぶなあ」


 へらへらへらへら。

 いつも笑っていた兄。俺の頭を撫でながら、兄貴の紅茶色の垂れ目はもっと垂れ目になって、目尻にくしゃっと皺が寄るんだ。



 それはほんと、唐突だった。


 真夏のよく晴れた日にピクニック行って呑気に弁当広げてたら、雪崩に巻き込まれました、みたいな。


 俺が八つの時。

 いつものようにピアノを弾く兄貴の隣でめちゃくちゃに歌っていると、屋敷に治安隊の兵士が文字通り雪崩れ込んで来て、家中をひっくり返し始めた。


 呆然と立ち竦む兄貴と俺に、険しい顔をした兵士の一人が言った。


 酒に呑まれた親父が、街の往来のド真ん中で女性に乱暴しようとして、それを止めようとした女性の夫もろとも二人を撃ち殺し、止めに入った善意の通行人三人に重傷を負わせた――


「は? なに言ってんの?」


 って言ったのは、俺だったか兄貴だったか。その後のことも、うろ覚えだ。


 兄貴は治安隊の馬車に乗っていく前、俺の頭をぽんぽんっと撫でた。

 すぐ帰ってくるから、とか、良い子にしてろ、とか言ってた。

 いってらっしゃい、って、軽い感じで見送った。


 翌日、キャリエール男爵家は領地没収の上、取り潰しとなった。

 当然ながら、親父はすぐさま絞首刑になった。

 成人していた当時十八の兄貴は、気の触れた親父を病院にも入れず、凶行を止められなかったとして国外追放の刑を受けて、それっきり。


 風の便りによると、兄貴は二年後に亡くなったらしい。詳細は知る術もない。


 兄貴は、あれが最後になるってわかってたかな? わかってなかったか。ピアノの腕は良かったけど、抜けてるとこあったからな。わかってたら、もうちょっと何か言うだろ。

 屋敷も兄貴のピアノも全部――少ない財産は差し押さえられ、被害者と遺族に渡した。

 


 まだ子どもだった俺だけは、何の罪にも問われなかった。母方の親戚の家で、世話になる日々の始まり。


 けれど、『狂った殺人鬼の息子』という肩書きは、どこで何をしていても、俺の顔に貼ってあった。

 俺を見るあらゆる人間の顔に、嫌悪と怯えが入り交じった表情が浮かぶ。


 親戚の屋敷の片隅にある離れで、一人で暮らしてた。誰とも話さず、誰にも話し掛けられず。その家の使用人は食事の差し入れをよく忘れた。


 いつも遠巻きな年上の親戚の子ども達は、ほんの時折、話しかけてくる。


『お前も、人を殺したくなったりするの?』

『もう殺したことあるの?』


 そんなことない、本当だよ、と緊張しながら精一杯気持ちを込めて答える俺の声は、相手の耳には決して届かない。こっけいに上滑りして、ごみみたいに地べたに落ちる。

 従兄たちは気味悪そうに目を細めて、肩を竦めて離れて行く。

 信じないって決めているなら、なぜ質問するんだろう? 不思議だった。



『気味の悪い子! いつまでここに置いとくのよ!』

『あの狂人の息子を野放しにする訳にも行かんだろう!? 世間の目ってもんもある。さっさと成長して出てってくれるのを願うしかない!』



 ――『アルは天才だなぁ。特に、剣の才能あるよ。強いなぁ。きっと、将来は王宮騎士にだってなれる。キャリエール男爵家から、王宮騎士が出る。天国の母さんが喜ぶなあ』


 へらへらへらへら。笑うと若いのに目尻に皺が寄ってた。でたらめな俺の歌に合わせて、笑いながら即興で弾いてくれたピアノ。

 あれがもう一度聴けるなら、他には何もいらないと思っていた。


 自分の境遇や、全てが一変したあの日を呪う資格が俺にないことは分かっていた。

 その資格があるのは、あの日、親父に傷つけられ、奪われた人たちだ。

 突然、容赦のない暴力に晒された人たちの方だから。


 ――でも、だけど、もし、もしも、


 あの時――兄ちゃんを連れてかないで、って泣き喚いていれば。

 翌日、裁量が決まってしまう前に、一緒に居させてほしいとお願いしに行っていれば。

 そうしたら、一緒に行けただろうか?

 あの時、虫の知らせがあれば、第六感でもあれば、兄貴を見捨てずに済んだだろうか?


 王宮騎士になんか、もうなれる筈ないってわかってたけど、一人きりでも剣の稽古だけは欠かさなかった。なんでかなぁ? 自分でもわからん。



 十五で、親戚の家を出た。

 他に犯罪者の子を雇ってくれるとこがなかったから、傭兵になった。人から好いてもらえるように、少しでも良い人間に見えるように、へらへらへらへら笑って過ごした。

 善い人間になれるように努力した。そしたら、向こうから話し掛けてくれることもある。

 だけど、名乗った途端、誰も彼も気味悪そうに離れていく。

 破落戸とそう変わらぬ傭兵の中にあっても、親父の事件は常軌を逸して映るらしい。


 いや、しょうがない。わかっている。だって、俺は殺人鬼の息子だから。狂人の血が流れている。悪いのは全部、親父だ。そんな親父の子に生まれた俺と兄貴が悪い。



『――もうすぐハイドランジアと戦争になるってんで、第二騎士団が増員するらしい。来週、入団試験やるんだってよ』


 離れた席で食事を摂る傭兵仲間たちが交わす雑談が耳に届いたのは、味のしないスープを口に運んでいた時だった。

 俺と一緒に食事したがる奴はいない。

 毒でも盛られたら、困るから。


 

 ――入団試験?


 いや、受かる筈ない。



 ――だけど。


 ……試すだけなら。


 国王陛下を守護し、人々の尊敬を受け、子ども達の憧れの的、高潔な王宮騎士。

 手が届くはずないって知ってる。だから、ただの腕試し。受けてみるくらい、……許してもらえるかな?




『いいじゃないか! 君、才能ある。ねえ、公爵!』

『うんうん、OK! 採用!』


 見るからに屈強なロイ・カント副団長が興奮気味に叫ぶと、後ろにいた騎士らしさの片鱗もない貴公子然とした騎士団長、アラン・ノワゼット公爵も上機嫌に頷いた。


 ――あー……しまったなあ。これ、自分で言わなきゃいけないパターンか。


『いや……あの、俺の名前、アルフレッド、……キャリエールで、父親は、あの絞首刑になった……』


『あーはいはい、知ってる知ってる。うん、大丈夫! 僕、基本的に細かいこと気にしないから』


 アラン・ノワゼット公爵があっけらかんと笑って胸を叩くと、肩を竦めたロイ・カント副団長は呆れた声を出す。


『そこ、もうちょっと細やかに生きていただきたいところではありますが……。まあ、君の件は気にしなくていい。第二騎士団は人気ないけど、本当にいいのか? 君の実力だったら、白獅子や青竜も――』


『ロイくん? 余計なこと言わなくていいからね。さあ、君! 四の五の考えず、この入団契約書にサインするんだ! 大丈夫大丈夫、福利厚生整ってるし、給料もさいこう。さ、悪いようにはしないからね』


 ペンを差し出しながら、公爵の鳶色の瞳は三日月形に弧を描いた。ロイ・カント副団長は苦笑いしながら呆れた溜め息を落とす。


 逸る気持ちでサインしながら、なんでか、兄貴のピアノの音色が風に乗ってきて、聴こえた気がした。


 ――『アルは天才だなぁ。特に、剣の才能あるよ。強いなぁ。きっと、将来は王宮騎士にだってなれる。キャリエール男爵家から、王宮騎士が出る。天国の母さんが喜ぶなあ』


 ――俺の頭を撫でながらへらへら笑うと、兄貴の垂れ目はもっと垂れ目になったんだ。



 入団契約書は滲んでよく見えなかった。急いで瞬きを繰り返し、目を乾かしながら、思った。


 ――この二人に受けた恩は、生涯、忘れない。


 一生かけて、恩を返す。命令されたら、何でもする。どんな汚い事でも。命だって掛けてやる。



 ――真っ暗な海から、抜け出した瞬間だった。



『あんたねえ、筋はいいけど、修行が足りん。もっとしっかり食べて、鍛えな!』


 鍛錬場で俺を完膚なきまでに打ち負かした赤髪の女騎士は、食堂で俺の向かいにドカッと座り、朝っぱらから血の滴るステーキを勧めてくる。


 シュロー・ラッドと名乗った年上の寡黙な騎士は、基礎がめちゃくちゃだった俺に、打ち合いしながら剣技の基本を教えてくれた。


 レクター・ウェインという騎士は、俺のことも公爵のことも他の誰のことも等しく置き物にしか見えていない様子だった。この変わり者の銀髪の騎士、戦場では鬼神だった。文字通り、命の恩人になった。


 ある日の仕事明け。トマス・カマユー、セスター・アイル、エドワード・エルガーと名乗る、出来のいい顔した金髪の三人が、俺を取り囲んだ。神妙な顔つきで俺の肩に手を置く。


『お前の入った班は最強だが、精神的には辛いだろう? 相談くらいには乗ってやるから、いつでも言え』

『お前には才能がある。めげるなよ』

『これから飲みにでも行くか?』


 入ったばかりの頃、第二騎士団の騎士達は、誰も彼も、俺より強かった。


 誰も、俺を『殺人鬼の息子』扱いしない。何でだろう? ……そうか。強い人間は、俺を恐れる必要がないからだ。


 俺を忌避した人達は、悪い人間だったわけじゃない。ただ、恐れていた。殺人者の血、理解の範疇を越えた暴力、いつか、それに自分が巻き込まれるかもしれないという不安。



 ――ようやく見つけた、俺の居場所。


 第二騎士団だけを大事にして、生きていく。他の場所に、弱い人々の中に、俺の居場所はないから。



 ――『リリアーナ・ロンサールを始末しといてくれ』


 羽虫でも追っ払うみたいな公爵の命令を聞いた時、何の感慨も抱かずに了承した。

 第二騎士団を害しようとする奴がいたら、俺が消す。ロイ・カント副団長は守れなかったけど、その分まで、残った仲間を大事にする。それが俺の役目だから。


 ――ところが、


『キャリエール卿のお父様がなさったことは、キャリエール卿とは関係ない』


 ずっとずっと渇望していた言葉をくれたのは、華奢で誰よりも弱々しい、俺が殺そうとした令嬢だった。




 恩を返す相手が、増えてゆく――――。



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