第30話 仮面の下(トマス・カマユー視点)
俺は怒ってない。
そういった類の感情は、超越していると言っていい。
なにしろあの時、アナベルはこう言ったのだ。
『ロンサール伯爵様と間違えました。なかったことにしてください』
…………。
…………いやいやいやいや。
そんなことあり得る!?
あれで俺のこと好きじゃないとか、驚愕を通り越して、怖い。
はっきり言って、そこいらの心霊現象なんかそよ風に感じるほど怖い。女という生き物の残酷さを思い知った。メンタル弱かったら、とっくに出家してるレベル。
――……第一印象、優しそうだったのになあ……、と懐かしく思い出す。
ふっ、と苦く笑う。
――冗っ談じゃない。こっちから願い下げだ。優しく思い遣りあるいい子が、この世には五万といるはず。
アナベルが羨ましがって臍をかんで、逃がした魚は大きかったと地団駄踏んでギャフンと言うくらい、幸せになってやる。
もう知らんわ……!
――…………のだけれども。
「……具合、悪いのか?」
銀の睫毛に縁取られた海色の瞳は、一度だけ瞬いた。
「急いでますので」
冷たい声で応えながら、視線は逸らされる。
相も変わらず、俺はあからさまに避けられていた。
レディ・リリアーナの部屋から下げたトレーを両手に、アナベルは背を向けて伯爵邸の廊下を突き進んで行く。
いつも通りの反応に、俺はなるほどね、と内心で大きく頷く。
「――令嬢、目が覚めて良かったね。俺も安心した。あ、皿、空いてるじゃん。食事も摂れるようになったんだ? ウェイン卿も良かった、ほっとすると思う。ほらあの人、ここんところ自分の方が死にそうな顔してるから」
ちょうど一週間前、公開演習の日に、大事な令嬢は王宮で運河に突き落とされた。
溺れかけたレディ・リリアーナを助けたのは、アナベルだったらしい。
私がついていながら申し訳ありません――セイレーンのように濡れそぼったまま、ロンサール伯爵に頭を下げていたらしい。
言動がイケメン過ぎる美人侍女がいたと、王宮で噂になっている。
思い返せば、あの日は本当、大変な一日だった。
レディ・リリアーナは落水のショックと低体温で気を失い、王宮の医務室で治療を受けて馬車で戻った。蒼白なウェイン卿に抱えられる姿は眠り姫のようで、屋敷にいた俺たちもずいぶん動揺した。
そこから二日間も眠ったまま。意識は戻ったものの、熱が下がらず今もまだ寝ついている。
「運河の底に沈んだ令嬢を飛び込んで引き上げたって? 勇気あるな。水、冷たかったろ?」
アナベルはすっと伸ばした背を向けたまま、すたすた進んで行く。
――はい、無視ですね。なるほど。
ふっ、と再び苦笑を漏らす。
しかし! 今日の俺はめげない。
何しろこの一週間、ずっと機会を伺っていたのだ。
それとなく近づくと、気配なんか読めないはずのアナベルは、読めるみたいに遠ざかる。追いかけても、どういうわけか見失う。
早朝から令嬢の部屋の前で気配を消し待ち伏せし、ようやく捕まえた。
「あの運河はさ、アルディ山脈から引いてる。雪が溶け出して、夏と秋もかなり冷たいんだ。寒かったろ?」
アナベルはすっと立ち止まり、氷の視線をこっちに流した。
「話し掛けないでオーラ、出しているつもりなんですが。お気付きになりません?」
へらり、と笑って見せる。
「そっかそっか、ごめんね。ほら、俺、打たれ強いから?」
もちろん嘘である。青春を修行に費やした騎士の純情をなめるな、もう粉々である。
アナベルはすうっと瞳を眇め、前を向く。
しかし――
人として、これだけは訊かねばならない。有耶無耶にはできない。
どれほど邪険にされようとも、今日という今日は訊く。
「前に言ってたじゃん? 力仕事で役に立つって、本気だったんだなー」
無視されようとも、今日の俺はめげない。
両手が塞がっている彼女のためにドアをさっと開け、歩調を合わせて、明るい声で話し続ける。
「――ウェイン卿はもちろんだけどさ、公爵やオデイエ卿たちもアナベルに感謝してたよ」
海色の瞳は不機嫌そうで、俺を見もしない。
「それはそうと、アナベル? あのさ――」
一週間前、ちょうど運河に落ちた日くらいから、アナベルの顔色は明らかに悪い。
ほんのり色付いていた頬は血の気が失せて、白を越して透き通っている。
令嬢を心配しているから? 風邪でも引いたのか……? もしくは――
「もしかして……」
努めて明るく、何でもないことのように口を開く。今、周囲に人の気配はない――チャンスだ。
上擦ってはならない。早口などもっての他である。――慎重に、
爽やかに言う。
「……妊娠、してたりする?」
するり、と細い手の隙間を滑り落ちた銀のトレーに手を伸ばす。
「おっ、と」
受け止めて顔を上げると、海色の瞳は愕然と見開かれていた――ようやく目が合った。しかも、氷の仮面が剥がれている。
「はああっ!? してません!!」
「あー、違うのかー……」
あからさまな落胆が、この声に滲む。
もしそうだったら、何がどうであろうとも、頷いてもらえるまで土下座してでも求婚するつもりだったのに――。
はあっ、と大きな嘆息が落ちた。
§
トレーをキッチンに返した後、場所変えて話したいと促すと、アナベルは不承不承頷いた。
まあ、話題が話題だし。
「――それで? いったいなんなんです?」
鮮やかに色づきはじめた欅の大木に背を預け、アナベルの瞳は冷気を放つ。
嘆息交じりに、正直に答える。
「いやー、最近、顔色悪い上に痩せてるじゃん? 結婚してる姉貴が、そんな感じだったからさー、もしかしたらと思って……」
アナベルは瞳を眇め、呆れたように頷いた。前から小さかった身体は、この一週間でもっと細くなっている。
「……違います。安全日でしたから」
「……へー、なるほど」
「はい」
さっき一瞬、剥がれた仮面はもう元に戻っていた。――氷の無表情。
「じゃあ何で? 運河に落ちたせいで体調崩した?」
「いいえ、何も。健康です。いつも通り」
「そうか?」
「そうです」
「そうかなあ?」
「そうです」
「ふーん」
「別に」
「……」
「……」
「……じゃ、いいけど」
「はい」
最初に会った時は、優しい雪の妖精にしか見えなかったのにな……とまた感傷に浸る。
咳払いしてから、口を開く。
「ええと、それでは、ウザがられるとわかっていて、今から余計なことを言いますが――」
氷の仮面が、訝し気にこっちを睨む。
「は?」
「令嬢を助けたのは大変立派で素晴らしいことですが、これからは、むやみに飛び込んではいけません」
は? ともう一度言って、アナベルの細い眉がぎゅっと寄る。
くっそう、こっちは一緒に落ちたって聞いて、生きた心地もしなかったんだぞ。
「あの運河の水は冷たくて、流れも意外と早い。いくら泳ぎに自信があっても、アナベルも溺れてたかもしれない。今後、ああいう危険な場面に遭遇したら、自分でなんとかしようとしないで、大声上げて助けを呼ぶように」
あえて軽い調子で言いきると、仮面はまた剥がれていた。
ぽかん、としてこっちを見ている。
そして、ふふっ、と吹き出した。
海色の瞳を細めて、頬を緩めて、鈴を鳴らすみたいな可愛い声で、笑った。
動転して、一歩後退る。
あっぶねえ、あやうく抱き締めるところだった。
「カマユー卿は――」
「は?」
笑い終わったアナベルは、笑いすぎたのか涙が滲んだ目尻を緩ませて、優しい顔で呟く。
「――カマユー卿は、きっと幸せになれる。優しくて素敵な女性と出会って、一生、穏やかに暮らすんです」
「はあ? なんだ、それ?」
邪険な態度を見せながら、時々こういうことを言う。まさに妖婦が妖婦たる所以だ。こっちの胸を掻き乱す。
あれが良くなかったのかも、いや、あれが気分を害したのかも――とあの夜の切ない息遣いや体温を思い出しては眠れない夜を過ごし続けている身としては――……嫌われてはないのかな? と希望を抱くわけである。
「いやー、あのー、もし、良ければ」
仕切り直して食事でも行かない?――と振り絞りかけた言葉は、神妙な声で遮られた。
「カマユー卿」
「はいっ?」
お仕着せのポケットに小さな手を入れる。
「……令嬢からは、誰にも言わないで欲しいと言われたんですけど」
紅葉を映す海の色の虹彩が、迷うように揺らぐ。
「――アリスタがごみ箱の中に見つけて、血相を変えて持ってきました」
「?」
「……どう思います?」
出された手に握られていたのは、白いリネンのハンカチだった。
RとWのモノグラム――レクター・ウェインの頭文字だろう――に、剣と蔦と百合の模様が絡み合った繊細な刺繍。
一目で、その刺繍を刺すのに長い時間を費やしたとわかるそれは――
――真っ二つに引き裂かれていた。
「……なんだこれ? 屋敷の中で?」
誰かの『悪意』がこびりついて見えるそれを受け取りながら問うと、アナベルの瞳がすうっと眇められる。
「レディ・リリアーナは、驚いた様子で言葉を失っておられましたが、しばらくして、『これ、失敗作だったから。驚かせてごめんなさい。もういらないから、捨てておいて』って。でも、そんなはずありません。やっと満足の行くものができたからって、差し上げる準備をされていました。その後は、ずっと寝込んでおられて……」
「へえ……」
今のこの屋敷に、レディ・リリアーナに悪意を持ちそうな人間がいるだろうか?
心を読んだように、アナベルが俺を見上げて言う。
「……この屋敷の使用人は――違うような気がします。令嬢が眠っている間、打ち沈んでいるように見えましたし」
ああ……と俺は曖昧に首を傾げる。
どうだろう? 人は見た目通りじゃない。
アナベルが雇われるずっと前、ここの使用人たちはレディ・リリアーナを貶めていた。『魔女』という噂を流していたのも、おそらく使用人の誰かだ。
胸の内側に、きっと誰もが暗い淵を持っている。深い底に沈んだ恨みや嫉みの感情を覗き込もうとして、落ちてしまう人間のいかに多いことだろう。
「……まあ、でも、屋敷の人間は俺も違うと思うかな……」
少なくとも、レディ・リリアーナはそれを覗きこもうともしなかった。使用人たちは令嬢に感謝している。そう見える。
他に出入りしているのは……第二騎士団の騎士……?
――それはない。性格真っ黒な奴は数えきれないが、こんな子どもの悪戯みたいな真似は、きっとしない。
「令嬢は……相手に心当たりあるのかな?」
ぽつりと言うと、おそらく――とアナベルがどこか不満を滲ませた顔で応える。
アナベルに打ち明けないのなら、令嬢は自身の胸に留めておこうと思っているらしい。
「俺が訊いても、教えてもらえないよね?」
「でしょうね」
「ウェイン卿から、聞いてもらうか……?」
ええ、とアナベルがほっとしたように頷くので、俺も頷いた。
「わかった、預かるよ」
――食事に誘う勇気は、結果を報告する時までに用意しておくことにした。
§
黒い制服の背中に、赤い葉が触れて落ちた。
遠ざかる彼に、心の中で話しかける。
――ねえ、カマユー卿。
令嬢と一緒に行った王宮で、セシリア・カントって人に会ったの。
優しそうな人だった。
小さな子を、三人も連れてた。
その瞳には、きっと一生消えない陰りが見えた。
愛する人に、取り残されたから。
『ローゼンダール王国王宮第二騎士団副団長、ロイ・カントと申す――』
あの日、謁見の間に響き渡った声を、私は聞いた。
王族と近衛騎士が籠城する場所に、降伏を勧めに来た騎士たち。
最後の機会を永遠に失った、あの日あの場所で。
――私達が、殺したの。
ねえ? カマユー卿?
これを話したら、貴方は何て言う?
その青空みたいな瞳は、憎しみを込めて私を見る?
その木漏れ陽みたいに暖かい声で、私を罵る?
私に優しく触れた手で、
――私を殺す?
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