第29話 悪い子だあれ?
鼻の奥がツンとして、耳の奥がぼわんと鳴る。
水に包まれる感覚は、泣くことと似ている。
――こんな風に、溺れるみたいに泣いたこと、あったなぁ。
――いつだっけ?
――『ドブネズミは始末しておきます』
あ、あれだわ。あれは泣いた。
だけどあれから、わたしのこと、好きになったんだって。変ね……どこが良かったんだろ?
さて――
意図せず落水してしまった際に最も重要なことは、慌てず騒がす、「自分の意思で飛び込んだ」と思いこむことだ――と以前、何かで読んだ。
だから、落ち着かなきゃ。
――よし、早く水面に……ん? どっちが上?
足、まずは足をつこう。底をたしかめたくて、足掻く。
――あれ? 底がない。
白く光る泡。現れては、消えてゆく。
苦しい――大きく息をする……まずい、もっと苦しい。
はたっと、重要なことに気付く。
――どっちにしろ泳げないなら、慌てていようと冷静だろうと、結果は同じでは?
……………あれ? 色々まずいな。
青い世界が、暗く陰ってゆく。
――……これ、いよいよだめなやつかも。
ほら、姑息な真似なんかするから、ろくなことなかった。
――ああ。もう、隠しようがない。
このこと知ったら、ウェイン卿からどう思われるかしら?
いよいよ、呆れ果てられて、嫌われる……? ごめんなさ――――
右腕が強く掴まれた。
水の抵抗が痛いくらいに強く引っ張られて――――――
「令嬢っ!!」
「……っ……!!」
気付いたら、水面に顔を出していた。背中をどんっと叩かれて、咳が出る。びっくりするほどたくさんの水も。
「令嬢!!」
――……座っててって言ったのに……助けてくれたの? 具合は? 大丈夫?
言いたかった言葉は、ぜんぶ咳に掻き消された。
細い腕に、背中から抱き締められていた。
咳き込むうち、身体が空気で満たされる。
「……っアナベル……っ……」
荒い息交じりに呼ぶと、わたしを抱えるアナベルの濡れた顔が、ほっとしたように緩む。
「令嬢……もう大丈夫ですからね」
深く冷たい水の中、彼女はわたしを後ろから抱きかかえていた。
「リリアーナ!!」
ランブラーの声が聞こえて、顔を上げる。
折れた柵が、ずいぶん上の方に頼りなげにぶら下がっている。あそこから落ちたらしい。
淵の上に立つ従兄の蒼白な顔を見て、申し訳なさが先に立つ。
大丈夫、ごめんなさい――そう言おうとしたのに、どうしてか唇が動かせない。
「堀が高すぎて上がれません! ロープを降ろしてください! 水温が低い! 急いで!」
アナベルが上に向かって叫ぶのを聞きながら、わたしの顔はひとりでに沈みかける。
アナベルの手が、慌てたみたいにわたしの顎を持ち上げた。
濡れた銀の髪が水面に広がって、きりっとした横顔。彼女はやっぱり綺麗だ。
「令嬢! しっかり!」
(……アナベル……あなたって、人魚みたいね……)
声に出したつもりなのに、音にはならなかった。
至近距離に、大きな水しぶきが上がった。
「こっちに!」
白い制服の腕が伸びてくる。
――騎士様?
……公開演習は? まさか、わたし、邪魔しちゃったんじゃ……。
「しっかり! お一人づつ上げますから」
「令嬢から! お願いします」
アナベルがわたしの身体を白い騎士の一人に渡すと、彼は力強く頷いた。
人というのは、こうやって泳ぎながら他の人間を支えられるものなんだろうか。
わたしは自分の身体を浮かせることもできないのに。ひどく重たくて、自分の身体じゃないみたい。
はらり、と目の前に降りてきたロープを、白い騎士様が掴む。わたしの身体を片腕に抱いて、器用に足を運河の縁にかけながら上がる。
水から出た途端、身体はもっと重くなった。
脱いだ上着を広げて待ち構えていたランブラーが、わたしの身体を包んで抱きとめる。
「リリアーナ! 大丈夫か!?」
体重をそのまま預け、はい大丈夫です――と応えたいのに、声はやっぱり出なかった。まったくもう、世界がとんでもなくぐらぐら揺れているせいだわ。
ばさりばさりと、肩に掛けられる乾いた感触が温かくて心地よかった。上着や、白いマント。
「――リリアーナ!」
「ああ、どうしよう、リリアーナ、ごめんなさい」
泣いているデリアとビアンカ駆け寄ってきて、濡れるのも厭わずにわたしの額や頬を撫でる。
ランブラーの肩越しに、マージョリー・ダーバーヴィルズの姿が見えた。深紅のドレスに包まれた肩が震えてる。見開いた瑠璃色の瞳を揺らし、こっちを見てる。
「……あの子のせいなの……わたくしは、悪くない……悪くないの……」
マージョリーの見開かれた眼差しは、ひどく怯えて――……
……ああ、はい、なるほど。
そうそう、たいていのことは、そういうものよ。問題は……
――アナベル……。
わたしの後から、水から上がった彼女と目が合う。銀の髪が、青ざめた頬に張り付いている。ひどく思い詰めた眼差しで……
ああ、なんか……色々と、少しわかった。そういうこと……。アナベル……なんとかしなくちゃ……だけど……
――……うまく纏まらない。まだ、水の中にいるみたいで……後で、ゆっくり、ちゃんと、整理して考えよ……
ふつり、と場面が切り替わった。
その場所に目が慣れるまで、少し時間が必要だった。瞳孔の暗順応ってやつね。
ぱちぱち。瞬きを繰り返す。
うっすらと映り始める、鬱蒼と繁る巨木――ここは……?
――夜の森?
暗くて、深い。
――だけど不思議ね。少しも怖くない。
森なのに、何も聞こえないから? 現実感ってものがない。
風の音。木々の囁き。夜鳴き鳥の歌。昆虫たちの息づかい。獣たちの遠吠え――森には当たり前にあるはずの音が、なんにもなかった。
おとなしの森。
ああ、そうか、これ……
――夢なんだわ……。
身体が羽根になったみたいに軽い。寒くも暑くもない。浅く息をしてみて、胸がゆるく上下することにほっとする。
「まったく、お嬢さんはよく水に落ちる子だね」
どこか呆れたような口ぶり――目の前に、ずっと以前、白昼夢で会ったおじいさんがいた。
驚いたりしない。だって、これは夢だもの。
それに、この森の持つ独特の雰囲気ときたら。
どの木の幹も、信じられないくらい太い。それぞれの木が、森の守り神のよう。
どれほど長い時を生きたら、こんなに大きく育つんだろう。幾百……幾千年……? 見上げると、その高さは雲を突き抜けていた。枝の先が夜空に溶ける。
蔦がぐるぐると幹や枝に絡まって垂れ下がっている。ハート型の葉は、わたしの顔よりもずっと大きい。
おじいさんは巨木の根っこに腰かけて、のんびりと寛いだ様子で釣りをしている。
不思議なことに、そこに水はない。深緑の苔に覆われた地中に向かって、糸は垂れ下がっている。
こんにちは、と頭を下げる。
それにしたって、あんまりな物言いである。前に水に落ちたのは、おじいさんに突き飛ばされたせいだ――と内心で少しだけ口を尖らせる。
「――おや、そうだったかね?」
おじいさんの頬が緩んだ。
はっとして、口許を指先で押さえる。
――声に出したつもりなかったのに。
「だがまあ、ちょうど良かった。お嬢さんに用があったんだ。呼び出す手間が省けたよ」
しわがれた声が、辺りにくっきりと響く。この静か過ぎる森には、この人、独りしかいないのかしら……?
ふいに、かつての自身の孤独を思い出して、鼻の奥がツンとした。それはやっぱり、水に顔を浸ける感触と似ていた。
「いいや、ひとりじゃない。お陰さまでね」
しわがれ声がそう言った途端、バサリと羽音が響いた。
夜の森に溶けていた鴉が一羽、ふわりとおじいさんの傍らの枝に止まる。
――ああ、なるほど……。
頬を緩めると、夜と同じ色の鴉は愛らしく首を傾げた。
「ここに来てもらったのは、他でもない――」
老人の皺だらけの手が、くるくると器用に釣り竿の糸を巻く。竿をゆっくり引き上げると、地中に垂れた糸がすうっと上がった。
糸の先には、小さな硝子玉がたくさんぶら下がっていた。
暗闇の落ちた森で、それは目映い光を発して辺りを照らす。
照らされた足元に、大きなキノコがたくさん生えていた。つやつや光る、鮮やかな朱色のキノコ。
「――これを、返してあげようと思ってね。お嬢さんに」
いくつもの光の玉が灯る釣糸を、枯れ枝と見紛うような手が手繰り寄せる。硝子玉をふたつ外し、こちらに差し出す。
相変わらず、ぎょっとするほど爪が長かった。指と同じくらい長い。これじゃ、逆に不便なんじゃないかしら。
そうでもないよ、――とおじいさんがこともなげに言う。
目を凝らして、皺だらけの掌に載ったそれを見る。
淡く虹色に色づきながら光る、不思議な硝子玉――ちがう、これはきっと宝玉だ。
魅せられたようにそれに惹き付けられ、目が離せなくなる。
「――美しいものだろう?」
はい、と正直に答える。
自分はそう欲深い人間ではないと思い込んでいたけれど、この煌めきときたら――――。
これほど蠱惑的に輝くものを、わたしは他に知らない。
欲しい、欲しい、手に入れたいわ――胸がざわめく。
「さあ、返してあげよう」
おじいさんが平坦な声で言いながら、その手を突き出した。
ぼんやりと腕を伸ばして、指先が触れる寸前、ふと、こんな童話があったことを思い出す。
泉の女神は優しく笑んで、木こりに言うのだ――「あなたが落としたのは、この金の斧でしょう?」
目を閉じて、瞼の裏に焼き付くその煌めきを振り払った。急いで手を引いて、胸元で握りしめる。
「残念ながら、わたしのものではありません……」
毅然と断ったつもりが、この声はひどく物欲しそうに響いた。
恥ずかしくなって俯く。わたしったら、いつの間にこんなに欲張りになったんだろう。
おじいさんは、嬉しそうにそっと笑った。
「お嬢さんは、いいこだね」
そうでもない、と思って顔を上げると、おじいさんは鷹のような目を細める。
そうすると、怖い魔法使いのような印象が少し和らぐ。薄く乾いた唇が、ゆっくりと、一語ずつ区切るように声を紡ぐ。
「いいや、いいこだよ。これは、天上の神々すら惑わせるもの――取引できるのさ、彼らもこれを欲しがるから。まあ……それで集めていたんだが……」
へえ、とわからないまま首を傾げると、おじいさんは掌の上で二つの硝子玉を無造作にころりと転がして、これはね――と口を開く。
「――昔、願いを叶えてやった対価だ。未来であり、生命であり、世界そのもの。誰かにとっての全て」
――……ますます、わからない。
わからなくていいさ、と言っておじいさんは目を細める。
「この二つは、お嬢さんの役に立つ。一つは大事な友人に……もう一つは、お嬢さんの助けになるだろう。返しておやり――元の持ち主に。儂にはもう、いらないものだ」
いらないものだ、と言ったときのおじいさんは、何かを懐かしむような顔をしていた。
――取り引きの必要は、もうなくなったの? 何か、取り引きして手に入れたいものがあったんじゃないの?
おじいさんは黙ったまま、何か愛おしむように目を細める。
「……返すって、でも、どうすればいいんです?」
首を傾げると、おじいさんは静かに首を振る。
「何も――人々が道を違えさえしなければ、流れにそってあるべき場所に転がり戻る。お嬢さんはこれまで通り、正しいと信じることをすればいい」
正しいことだけをするのは実はけっこう難しいと、わたしはこの度、思い知ったばかりである。
このおじいさんは、ずいぶん優しい人なのね……。
実のところはそうでもないんだがね、とおじいさんは微かに目を細めた。
「ま、ちょっと気が変わったのさ」
差し出された二つの煌めきに、そっと手を伸ばす。
指先が、光に触れて――――
ぱちり、と目覚めると、見慣れた屋敷の、自分の部屋のベッドの天蓋があった。
あら…………。
心からほっとする。
――なーんだ、これ、夢オチだわ。
――…………どこから、夢を見ていたんだっけ?
鉛みたいに重たい頭を巡らせて見ると、窓の外は真っ暗だった。時間の感覚が変だ。
――いつの間に、日が暮れたんだろう?
ベッドサイドのテーブルに、ランプの淡い明かりが揺らぐ。その脇の肘掛け椅子の上で、アリスタが膝を抱えて丸くなって眠っている。
――こんなところで眠っちゃうなんて……どうしたのかしら?
部屋の外の廊下にも人の気配があった。衣擦れの音と微かな囁き声と、薄い明かりがドアの下から漏れている。
毛布の下からそっと引き抜いた自身の掌をかざして見て……がっかりした息を吐く。
――空っぽだわ……。
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