第31話 後悔、先に立たず

「ね、メイアンさん?」


 身体が冷えないようにと、アリスタに頭からすっぽり被らされた厚いウールの外套の襟を掻き合わせる。


「――秋の空はやっぱり、綺麗ですね?」


 メイアン従騎士の顏には、あからさまに――は? だから何? と書いてある。

 彼の心の扉は、以前よりもがっちりと施錠されてしまったらしい。


 ――無理もない。わたしが悪い。


 とほほ、とため息をつく。


 今朝、ようやく熱が下がった。食欲もばっちり。

 残念ながら、あれが夢でなかったと知ったとき、生きてて良かった、とまず感謝した。すぐに意識を失くしたせいで、あの日の夢うつつの線引きは曖昧だ――。



「リリアーナ様、今日はほら、いい風が吹いてますよ!」


 アリスタが明るい声をあげながら部屋の窓を開けると、爽やかな風がカーテンを揺らす。


「ほんと、いい風」


 ベッドの上で朝食を摂る贅沢に浸りながら頷くと、この一週間、つきっきりで世話を焼いてくれているニコール、ペネループ、メリルは瞬きながら微笑む。


「ほんと、良かった……」

「一時はどうなることかと……」

「アナベルと神様に感謝しなくちゃ……!」


 ポーチドエッグから流れ出た卵黄を絡めたマフィンを口に運び、えへへ……とわたしは曖昧に笑う。


 運河に落ちた。

 ど派手に落ちた。

 場所は演習場にほど近く、もはや何をどうしようとも誤魔化しようがない。

 爽やかな秋風に頬をなぶられながら、わたしはポードエッグの載った皿に顔から突っ伏したいのを堪える。

 この先、何年何十年経とうとも、『運河』『公開演習』という単語を耳にする度、のたうち回りたいほどの羞恥に襲われるに違いない。

 もう一生、公開演習行かなくていい。


 しかし、ひとまず――

 

「お天気も気分もいいし、久しぶりに散歩したいわ……アナベル、付き合ってくれる?」


 彼女と二人で話したい。

 あれから、ますます儚さの増して見えるアナベルは、「もちろん」と柔らかく頷いた。


 ポーチから庭に出てすぐの場所で、カマユー卿とメイアン従騎士が打ち合い稽古をしていた。正騎士に指導を受けるメイアン従騎士の顔は、眩しいほど嬉しそうに輝いている。こちらに気付き、お、とカマユー卿が動きを止めた。


「お散歩ですか? 令嬢、お元気になられて良かった」


 わたしに話し掛けながら、優しい視線はアナベルを辿る。


「この度はご心配をおかけしました」


 頭を下げると、カマユー卿は「ご無理されないように」と穏やかな声で言って、少し考えて、続けた。


「――メイアン、危険があるといけない。お供して来い」



§



「――ね、メイアンさん? 秋の空はやっぱり、綺麗ですねえ?」


 令嬢と並んで歩くアナベルという侍女が、突き刺さるような視線を俺に向けてくる。もっと丁重にしろ――とでも言いたげに。

 この女には、別の意味で苛々した。侍女のくせに、従騎士である俺に対してなんだよ、その目は。聞こえるように舌打ちする。


 せっかく、稽古してもらってる最中だったのに――。


 ――正直、カマユー卿は甘過ぎる。屋敷の敷地内を散歩するだけで、護衛が必要か?




 ――「リリアーナは王宮に行ったわ。公開演習をちょっと覗いたら帰って来るから」


 レディ・ブランシュがきまり悪そうに白状した途端、カマユー卿とエルガー卿は顔を見合わせて苦笑した。


「ええー」

「マジですか?」


 レディ・ブランシュは両手を顔の前で合わせた。そんな様子も、どの角度から見ても完璧なレディだ。

 ウェイン卿のお相手が、レディ・ブランシュみたいな本物の淑女だったら良かったのに。そうだったら――


「黙って行かせてごめんなさい。だけど、王宮政務室の護衛付きの馬車で行ったから、大丈夫よ。もしウェイン卿に叱られたら、わたしが説明するから」


「いやまあ、護衛付きだったなら、別にいいんですけど」

「ウェイン卿、動転すんだろうなぁ……その現場、ちょっと見たかったな」


 カマユー卿とエルガー卿は明るく笑い飛ばしたけど、俺は内心、穏やかじゃなかった。


 ――副団長は、嫌がってたじゃないか。


 リリアーナ――あの女……我が儘な魔女……。


 温室のコンソールテーブルの上に小さな箱が置いてあった。

 開けると、丁寧に折り畳まれたハンカチ。刺繍されたRとWのモノグラムを見て、苛立ちが抑えきれなかった。

 こんなもの――――、


 ――こんなもの貰ったら、副団長は?


 しぶしぶ、高潔な制服の胸元に仕舞うだろうか。苦手な魔女が刺したハンカチ。あの人の心臓の近くで、あの人の鼓動に絡みつき、あの人の自由を奪う――――

 白いそれは黒く重く、ヘドロようにねばついて見えた。


 ――かわいそうだ。


 こんなの貰ったら、副団長が、かわいそうだ。


 軽く引っ張ったら、ハンカチは呆気なく破れた。

 汚物に触れるようにつまんで、捨てた。



「肌寒くありませんか?」


 紅葉に彩られた小径を歩きながら、アナベルがリリアーナに声をかける。


「わたしが寝ている間に、ずいぶん秋が深まりましたねえ。わたしは平気です。アナベルは? 寒くない?」


 問われたアナベルは、確かに少し顔色が悪く見えた。眉を寄せて少し考える素振りを見せてから、屋敷を振り返る。


「また熱が上がるといけませんから、ストールを取ってきます。メイアン様、少しの間、令嬢をお願いします」


 それだけ言うと、足早に屋敷に向かう。リリアーナはその後ろ姿をきゅっと唇を閉じて見つめてから、気を取り直したように俺に向かって話し始めた。


「アナベルは心配性ですよね? でも、彼女は優しいですよね? 優しすぎるくらい。そう思いません? メイアンさん」


 明るい声に、苛立ちが増す。


 仮病に決まってるんだ。副団長の気を惹きたくて、忙しい副団長を振り回そうと――


「それにしても、秋はやっぱり良いですね。澄んだ空気、綺麗な空。落ち葉を踏みしめると鳴る音。秋の食べ物は美味しいですしねえ……」


 病み上がりの身体は、一週間前に見たときよりも小さくなって見えた。


 ――ごみ箱の底、ぐにゃりと歪んだ、ハンカチだったもの。


「ねえ、メイアンさんは、どんな食べ物がお好きですか?――」


 ……あの刺繍を刺すには、どのくらいの時間をかけたんだろう。


「もしよかったら、今度一緒に――」


「――いい加減にしてくださいっ!」


 ちがう、お前が、悪いんだ。


 ――副団長を困らせるから……!


「――え?」


 びっくりしたように、リリアーナが足を止める。

 二つに裂けたハンカチは、もう戻しようがなくて。運河に突き落とされて、一週間も起きられなくて――――


 ――メイアンさん、メイアンさん、って、煩くするから!


「あんた、自分が副団長と釣り合うって、本気で思ってんですか!?」


 ぽかん、とリリアーナは口を開けた。頬が雪みたいに白くて、口許の雰囲気はレディ・ブランシュとよく似てた。

 ……本当は――本当は、それほど不美人でもないのかも知れない、とふと思う。あんな美人と姉妹だから、比べられるってだけで――


「……釣り合って、ませんよねぇ……?」


 馬鹿みたいにおっとりと応えられて、はっとする。

 

 違う――俺は、俺は、悪くないんだ。


「当たり前でしょうが! だいたい、あんな下手くそなハンカチ貰って、本気で喜ぶとでも思ってたんですか!?」


 絶句したリリアーナに向かって、まくし立てるように叫ぶ。


「副団長に迷惑がられてんの、わからないんですか!? それから――」


 リリアーナが何か言う前に、言わせないように畳み掛ける。


「副団長が何で、あんたに公開演習に来て欲しくなかったか、知ってます!?」


 リリアーナが身体を固くしたのが分かった。


「王宮に、本命の相手がいるからだよ!!」


 俺は、知ってる。知ってるんだ。

 副団長が、よく見つめている方向。


「……え?」


「王宮医務室付きの、ニーナ・ナディンさんです。美人で、しっかり者で、人気者です。二年前は従軍だってしてた!」


 副団長は、よくニーナ・ナディンのいる医療室の方を見てる。医療室で一番美人だ。だからそうだ、間違いない。副団長は、リリアーナなんか好きじゃないんだから。


「もういい加減、副団長を束縛して困らせんの止めて、自由にしてあげてください……!

 この前のガーデンパーティーだって、あんたの我が儘に付き合うために、副団長、前の日、食事も取らずに夜中まで仕事したんですよ? 最近だって、ここに来る時間作るために、日中の仕事を夜してる!」


「え?」


 リリアーナの頬が、さらに白くなった気がした。


「あんたには、あんたに相応しい相手がいるでしょう!? もう副団長に執着すんの、やめてくださいよ!」


 副団長の相手は、リリアーナみたいな女じゃない。

 誰よりも格好いい副団長の相手は、完璧じゃないと、駄目なんだ。


「……わかりました」


 哀しそうに肩を落として、リリアーナ・ロンサールは大人しく頷いた。


 ぎくりと、心臓が跳ねる。


 しん、と沈黙が落ちた。小径に落ちた葉が、赤い。



「――令嬢! お待たせしました」


 小走りに戻って来たアナベルが、壊れ物に触れるみたいな手付きで大判のストールをリリアーナの身体にぐるぐる巻いた。


「アナベル、ありがとう」


 侍女に向かって何事もなかったみたいに、口許を緩めて笑いかけている。


 ……なんでだよ?


 怒ったり、怒鳴り返したり、侍女に告げ口したり、俺を糾弾したり…………してくれないの?


 ――陰湿で、傲慢で、残忍な魔女……そうなんだろう? 


 だって、だって、これは副団長の為なんだから。


 俺は、何も悪くないんだから……!




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