第21話 嵐の予感ー01(レクター・ウェイン視点)

 朝露を浴びたように艶めく唇が、ゆっくりと柔らかな弧を描いた。


「来週の騎士団公開演習って、何のことでしょうねぇ?」


 リリアーナは、おっとりと優しい声で問う。


 ――まずい。


 隠しておりました。


「……ああ、それでしたら、来週の、騎士団の、公開演習、のことですね」


 問われた内容そのまんま返すこの声は、しどろもどろである。

 ちなみに体の方は、氷水につけたように冷えているのに、汗がじっとり滲むという非常に矛盾した状態にある。


 リリアーナはゆっくりと頷き、涼やかな声で応える。


「なるほど」

「はい」


「そうですか」

「はい」


「ふぅん」

「はい」


 ――まずい。致命的にまずい。


 騎士団公開演習。

 一般的に、妻子はもちろん、家族恋人友人などを招待するものであることくらい、さすがの俺でも知っている。ましてや、リリアーナは婚約者――


 何か言い訳を――脳をフル稼働して解決への糸口を探る。ない、清々しいほど一っ欠片もない。

 ちらっ、と期待を込めてカマユーとアイルに視線を送ってみた。素知らぬ顔でそっぽを向いている。助け舟を出してくれる気は皆目ないらしい。


 ――恐ろしいことに、まったくの孤立無援である。


「はい……アレです。……騎士団公開演習、と言うのはですね、……ええっと、ほら、騎士が二時間、順番に剣を振り回しているだけの、退屈極まりない、時間の無駄としか思えない、という……その、アレです……」


 尻すぼみになった言葉のあと、にっこり、とリリアーナの口許の笑みが深まった。ぎくり、と背がさらに凍る。


「何曜日です?」

「はい? ええっと、火曜……? 水曜……? だったかな? ど、ド忘れしました」


 木曜である。

 また、しどろもどろ返すと、背をつつーっと氷の汗が伝う。

 リリアーナの首はゆるりと傾げられ、果実のような唇はさらに魅惑的な弧を描く。


 ――……まずい、まずい。この流れ、まさか、まさか……


 ――「行ってみたい」って言う……?



 言われたら終わりだ。

 リリアーナの希望を退ける術を、俺は持たない。理由はただひとつ、嫌われたくないからである。


 ――何が目的かは知らんが、図書館に現れた謎の男。見つけ次第、とにかく殺す。


「……そうですか」

「はい」


「ふぅん」

「はい」


「へー」

「はい」


「……残念です。わたくしは来週は用事があって、伺えそうにありませんが、がんばってくださいね」


 しかし、あっさりと、リリアーナは言った。

 ぎくぎくとして見つめるが、ベールで隠された表情は読めない。声や口元の様子から、怒っている……様子は伺えなかった。


「……え、ああ、はい、そうですか。そ、それは、残念です」

「はい」

「……はい」


 ごくり、と生唾を呑み込んだ。

 すうっと開いた薔薇の花弁色の唇の隙間から、真珠の歯が輝く。

「やっぱり行きたい」と言い出される可能性はまだ残っていた。一ミリたりとも気は抜けない。


 部屋の空気は、依然、張り詰めていた。

 カマユーとアイルの奴、関わり合いになるまいと見事なまでの気配の消しっぷり。メイアンは不思議そうに眉を寄せて突っ立っている。


「――ああ、そういえば!」

「はい!」


「今週末に王宮で開かれるガーデンパーティー、せっかくノワゼット公爵様とお従兄様が薦めてくださいましたし、試しにどんなものか、やっぱり行ってみようと思います」


「え……?」 とこの口から間の抜けた声が漏れる。


 先週の夕食の席、ノワゼット公爵が戯れに思いついたように言い出したのだ。


『リリアーナ、冬にいきなりデビューするの心配だったら、今度の王宮の定例ガーデンパーティに練習がてら行ってみる? ほら、今ならオフシーズンで閑散としたもんだし、ちょうどいいんじゃない? 良かったら僕、その日空いてるから一緒に行くよ?』


『いいかもね、僕も一緒に行けるよ』


 ロンサール伯爵も何でもない事のように同調した。しかし、リリアーナは浮かない表情を浮かべた。


『あの……考えておきます』


 彼女は、人付き合いを恐れている風なところがある。まったく不思議なことだが、人好きされないと思い込んでいるらしい。

 その不安げな様子を見て、「いいよいいよ」「無理しなくていいからね」と公爵と伯爵はあっさり退いていた。


 しかし、目の前の彼女は、それに行くと言い出している。やはり、気分を害している――? 

 リリアーナは朗らかに口許を綻ばせた。


「ウェイン卿はお気になさらないでください。お仕事、お忙しいでしょうから。ランブラーと行きますからね」

「……え? い、いえ! ご一緒します」


「いいえ、お気遣いなく。お忙しいでしょうからね」

「いえ、ご一緒します」


「お気遣いなく」

「絶対に行きます」


「そうですか?」

「はい」


「ふぅん」

「はい」


「へー」

「はい」



 ――という、血まで凍りつかせる戦慄の心理戦を繰り広げた直後であった。




 リリアーナは、仕事の話があると言うと、にこやかな笑みを口元に浮かべたまま、部屋に戻った。


「……帽子があって助かった。目を合わせていたら、まずかった」


 大きな嘆息が、この口から溢れる。

 すっかり冷たくなった指先で頭を抱えてよろよろと呟くと、カマユーとアイルが大きく同意する。


「それは確かに」

「あの目で探るように見つめられたら、俺は生い立ちから何もかも訊かれてないことまで洗いざらい、二秒以内にゲロる自信あります」


「ああ」


 口から飛び出してきそうに跳ね回る心臓を落ち着かせるべく、胸の辺りを押さえる。


 だけど――とカマユーが出された紅茶に口をつけながら、ソファに凭れた。


「いっそ、招んで差し上げたらいいんじゃないですか? 公開演習、俺達にとっては相当どうでもいい催しですけど、若いご令嬢にとっては、あんなんでも楽しいんじゃないですかね?」


「俺もそう思います。喜ぶんじゃないですか? 端から見てる分には、心配無用と思いますけどねー」


 能天気な二人の台詞には、もちろん断固、首を横に振る。


「いや、駄目だ。何と言われようと、絶対にこっちからは呼ばない」


 カマユーとアイルが、呆れたようにこっちを見てくる。困った人だよ、とその目があからさまに語っている。

 しかし、ここは譲れない。何しろ、



 ――聞いてしまったのだ。


 ストランドから戻ってしばらくして、たまたま少し時間が取れた。


 急いで花を用意して、訪れた伯爵邸。

 リリアーナは温室にいると取り次ぎのメイドから聞き、一刻も早く顔を見たくて逸る気持ちを抑え、直接、温室を訪ねた。



 ガラス越しに柔らかな日差しが降り注ぐ温室の中、椅子に座ったリリアーナは刺繍を刺していた。

 教会の天井画に描かれた天使のように優しい顔をして、一針づつ、小さな手を動かして。


 その姿は光を纏っていて、声をかけるのも躊躇われた。この数ヶ月に起こった一連の出来事は、やっぱり出来のいい夢だったんじゃないだろうか――現実感のない目の前の光景の美しさに、開いたドア越しに見惚れた。


『令嬢、やっぱりお上手ですね』

『いえいえ、ペネループはやはり、流石です。教えるのも上手だし』

『それはまあ、まだ見習いとはいえ、お針子でしたから。……あれ? これ、完成してるじゃないですか。これも、すごくお上手です』

『ああ、いえ、それは――』


 傍らの箱の中を見て、リリアーナは照れたように笑った。恥ずかしそうに、頬を薔薇色に染めて。


『――それは、二年も前に刺したものですから。……差し上げることもできないのに、今思えば馬鹿みたいですよねえ』


 優しい瞳は、二年前に刺したという刺繍を慈しむみたいに見つめていた。


 ……ん?


 ――……二年前?


『――王宮で開かれる公開演習で、手渡す場面を夢に見たりして』


 さくら貝の色の細い指先が、ハンカチを取り出して、そっと撫でる。懐かしむように、当時、好きだった相手を思い出すかのように――――


 ――公開演習……?


 ――……騎士団? 


 はい、なるほど。


 俺と出会う前に、憧れの騎士がいました――と。


 まあそりゃあ、それくらいいるだろう、と胸の内で大きく頷いた。

 リリアーナだって、そういう相手がいてちっともおかしくない。十七歳というのは、そういう年頃なんだろう。

 恋と呼ぶほどでもない、ごくささやかな憧れ的な? 

 当時は屋根裏から出られず、王宮で開かれる公開演習になんか行ける筈もなかった。だから、夢に見て刺繍したのか……。


 そうか――、なんて健気なんだろう。


 ふ、と失笑が漏れた。


 相手の男が気の毒でならない。

 もし、リリアーナが屋根裏に閉じ込められず、普通の伯爵令嬢だったなら。昨年の公開演習に現れ、そのハンカチを手渡していただろう。

 相手の騎士は一瞬で魅了され、その場で跪いて求婚したに違いない。

 しかし残念ながら、もう俺と婚約してしまった。何しろ、こっちは最初に彼女に手を差し伸べたのだ。お気の毒に。


 はいそんで? その男って――

 


 ――――――誰だよ!? 



『あら、ウェイン卿?』


 アナベルに呼ばれて、はっと顔を上げた。

 視線が合うと、リリアーナは顔を上げ、嬉しそうに顔を輝かせる。


 ほら、大丈夫だ――。


 その騎士は、登場するのが遅かった。

 優しくしなくても、何もしなくても、好きになってもらえていたのに。

 そんな、普通じゃありえない奇跡に、恵まれていたのに。かわいそうに――。


『刺繍、されていたんですか?』


 頬を染めて、彼女は途中の刺繍をさっと隠してしまう。

 

『はい、でも、まだ途中ですから。大作に挑んでおりますので、もう少々、お待ちください』


『はい、一生、大切にしますから』


 花を渡してそう言うと、リリアーナは、嬉しそうに笑った。


 ――大丈夫だ。


 それは? とテーブルに置かれた二年前のハンカチに視線を移した。


『ああ、これは、違います。その、下手ですから』


 剣と盾の模様が刺繍されたそれを、リリアーナは慌てた風に、だけど大事なものに触れる手つきで、箱の中に仕舞った。


 なぜ?


 胸の内に、さざ波が立つ。


 そんなもの大事にする?

 他の騎士を想って刺した刺繍。その騎士の声が聴きたくて、想像して、近づきたくて、いつか目を合わせて微笑み合って手渡したい――そんな風に想って刺したから?


 ――……誰だ?


 第二騎士団所属か……?

 いや、それはない。一通り、全員がリリアーナと会っているはず。リリアーナの様子におかしいところはなかった。

 ということは……?


 白獅子か、青竜……? 白獅子も半数くらい、面識がある。あの中にはいないか……? 

 白獅子の残り、もしくは、青竜の中にいるってことか。


 今度の公開演習……王宮騎士が最も多く揃う。その騎士がいる確率は高い。

 リリアーナはその騎士を見て、どんな顔をするだろう?

 ハンカチに向けたような、優しい、懐かしみ、慈しむみたいな眼差しを向けるだろうか。騎士は視線に気付いて、振り向いて、視線が合って――――



 ――うん、無理だな、殺す。


 間違いなく、その騎士を消す。我慢できない自信ある。


 公開演習か……。


 ――絶対に呼べない。


 少なくとも、今はまだ。


 叙爵が正式に決まって、正式に婚約を発表して、本物の婚約指輪を指に嵌めて、彼女がそんな騎士を忘れ去って、二年前に刺した刺繍になんか、心を動かされなくなるまでは。



 隠しておきたい。


 誰にも奪われないように。


 ――『今週末に王宮で開かれるガーデンパーティー、せっかくノワゼット公爵様とお従兄様が薦めてくださいましたし、試しにどんなものか、やっぱり行ってみようと思います』


 当然、無理な願いだ。

 だがしかし、公開練習で憧れの騎士に会われるよりはずっといい。

 ガーデンパーティーでは、少なくとも傍に張り付いておける。



 胸の奥が軋むと同時に、大きな溜め息がまた溢れ落ちた。




 

 

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