第20話 恋の好敵手
屋敷に帰りつくと、エントランスホールに置かれたコンソールテーブルに寄りかかるように立ち、カマユー卿とアイル卿が談笑していた。
こちらに気づくと、きらっと白い歯を覗かせ、爽やかな笑みを浮かべてくれる。
「令嬢、お帰りなさい」
「図書館、楽しめました?」
このお二人、いつ見ても騎士と言うより貴族のご令息と言われたほうがぴったりくる物腰である。もちろん、いい意味で。
ウェイン卿のように、視線だけで人を殺めてしまいそうな尖ったところがない。まあ、もちろん、ウェイン卿はそんなところもひっくるめて素敵なんだけれど。
「ただいま戻りました。お疲れさまです、カマユー卿、アイル卿――ええ、お陰様で、今日の図書館もとても有意義でしたわ」
二人の騎士は優しい微笑を浮かべ、恭しく礼を返してくれる。その仕草もどこか華がある。
「メイアン、異常はなかったか?」
この感じからして、アイル卿とカマユー卿は、メイアン従騎士の世話役なのだろう。年下の後輩の仕事ぶりを心配して、ここで待ってたってところだろうか。
アイル卿に問われ、イザーク・メイアン従騎士の白い頬は、みるみる紅潮した。
メイアンさんの伸びている背筋は、更に伸びる。
「はっ! 不審な男が、声を掛けてきました!」
あら、とアナベルと思わず顔を見合せる。
頬を紅潮させてカマユー卿とアイル卿を見つめるメイアン従騎士を、アナベルは呆れたように眇め見る。わたしは我慢できず、口元を両手で覆った。
知り合って間もないメイアン従騎士、彼ったら、どうやら――
報告を聞いたカマユー卿とアイル卿の眉間が、途端に険しく寄った。
日頃、春の陽のように穏やかな二人の瞳は、真剣な光を宿す。
「……何だって?」
「こっちで報告しろ」
わかりやすい憧れの色を宿してじんわりと潤む、二人の正騎士に向けるメイアン従騎士のミルクチョコレートの瞳。
「はいっ!」
見習いたいほど元気の良い返事をすると、メイアン従騎士はアイル卿の元に駆け寄り、促されるまま、素直に廊下を奥に進んでゆく。
どうやらメイアン従騎士ったら、わたしやアナベルに対してはツンツンであるのに、正騎士様の前では、デレっデレになるようだ。なんて可愛らしい。
その後を行こうとするカマユー卿の背中に向かって、アナベルが一歩踏み出した。
「カマユー卿」
カマユー卿に話しかける時、アナベルは表情をすっと消す。声はこれ以上ないほど平坦だ。
「はい何か?」
振り返ったカマユー卿の顔は、さっきまでとは打ってかわって機嫌が悪そうに眉が寄っている。声は石みたいに固い。
「メイアン様、あの態度は険があり過ぎるかと思います」
言われたカマユー卿は不思議そうに瞬いて、それから、皮肉っぽく口端を歪めた。
カマユー卿のこんな表情、見たことなくてどきりとする。
「……人のこと、言えないと思いますけど」
「は?」
カマユー卿が、すいっと視線を逸らす。
「……いいえ、別に。注意しときます」
「お願いします」
それはまるで、氷の応酬だった。
カマユー卿は視線をアナベルに戻さないまま、アイル卿とメイアン従騎士の後を追う。
ストランドから戻って以来、この二人はずっとこんな風だ。どうやら、喧嘩でもしたらしい。
いつだって感じよく笑って、大切な蝶の羽根に触れるみたいにアナベルに接していたカマユー卿の態度は、最近明らかにおかしい。
遠ざかるカマユー卿の背中を見つめるアナベルの表情は変わらないけれど、その肩はとても頼りなく見えた。
カマユー卿はもう、振り返らない。
その制服の背中は、廊下の向こうに消えてしまう。
「ねえ、アナベル?」
その手を、ぎゅっと握る。
「はい」
突然手を握られて、はっと我に返った風のアナベルが、こっちを向いた。
新雪のような肌にかかる銀の前髪が、さらりと揺れる。
「わたし、アナベルが一緒にいてくれて、すごく幸せです。こんな素敵なお友達がわたしにできるなんて、夢みたいです。これからも一緒にいてくださいね」
アナベルの綺麗さは、うすい硝子細工のようだ。彼女は透明すぎて、今にも空気に溶けて儚く消えてしまいそうで、わたしは心配になる。
アナベルは、びっくりした表情を浮かべた。それから、照れたみたいに笑う。
「私も、ここにいられて幸せです。私が傍にいる間は、何があっても令嬢をお守りしますから、ご安心ください」
ずっと一緒にいてね、と言ってみても、優しい彼女は決して、いいよ、とは言ってくれない。
ここに長居するつもりはなくて――と彼女は最初に言っていた。
この優しい大切な友人は、近い未来、きっと遠くに行ってしまう。
それはいつだろう? ねえ、アナベル、いつまで傍にいてくれるの?
だけどそれを訊いた途端、魔法が解けてしまいそうで、わたしは勇気が出せない。
「アナベル、実はすごく頼りにしてますからね」
感傷を振り払うように、おどけた口振りで言うと、アナベルはふふっと笑う。
「さあ、用意しましょうか」
「何を?」と訊くと、「決まってます」と答える。
「ウェイン卿です。きっと飛んで来られますよ」
§
ウェイン卿は飛んで来た。
ここは伯爵邸のいつもの応接室。
着いたばかりのウェイン卿、カマユー卿、アイル卿、メイアン従騎士に囲まれ、わたしは今、取り調べのようなものを受けている。
目の前には、さっき『ブルームーン』で買って帰った、クリームではちきれそうなふわふわのシュークリームと、淹れたての紅茶。
一度部屋に戻り、外套は脱いだ。
今、わたしはベール付きの帽子をしっかりと被り、武装している。
――なぜですって? 決まってる。
図書館でのあれ以来、胸がざわざわする。
この動揺は、きっとこの瞳に表れている。
今はそれを、ウェイン卿に悟られたくない。
「令嬢、その男に見覚えは?」
ウェイン卿が白皙の顔に眉を強く寄せ、問いかける。今日の目つきは、いつになく鋭い。
わたしはお砂糖とミルクをいつもより多めにいれて、クリサンセマムが描かれたティーカップを持ち上げる。ふわりと漂うベルガモットの香りに鼻腔をくすぐられた。
図書館の一件以来、ざわめき続けている心は、ほんの少し凪ぐ。
「いいえ。ありません」
ゆっくり首を横に振ると、ウェイン卿はますます眉根を寄せ、ふつりと考え込んだ。
「令嬢の耳元で、何か囁いたとか?」
向かいのソファーに座るカマユー卿から、心配そうな声で問われて、軽く頷く。
「はい」
「何て言っていました? メイアンには、聞こえなかったんだろう?」
アイル卿に穏やかながら神妙な声で問われたメイアン従騎士は、ぴしっと背筋を正して声を張り上げた。
「は! 不審人物は令嬢の耳元に口を寄せて囁きました! 書架の隙間で、咄嗟に近づけず! お役に立てず、申し訳ありませんっっ!!」
彼の頬はさらに紅潮し、その視線はわたしの前に座るウェイン卿に一直線に向けられている。
わたしはつい、胸を押さえる。
――なんてことかしら。
ウェイン卿が今日、この場に現れた瞬間――わたしはピンときた。
もはや、疑いようがない。
イザーク・メイアン従騎士のミルクチョコレート色の瞳は、今、甘く潤んでとろりと溶けている。
どうやら、わたしとメイアン従騎士は、
――同じ人を愛している。
ああ、彼と仲良くなりたい……!
ウェイン卿の素晴らしさについて、メイアン従騎士と語り明かしたい。
しかし残念ながら、わたしのこの想いは、今のところ一方通行のようだ。
「令嬢、その男が何を言ったか、教えていただけますか?」
本当に人ひとり射殺せそうなほど目つきを鋭くしたウェイン卿がそう言って、部屋中の視線がわたしに集中する。
メイアン従騎士がわたしに向ける視線は、途端にすんっと冷える。ミルクチョコレートは冷え固まる。
打ち解けるに至るには、時間と努力が必要なようである。
少し残念に思いながら、ざわめく胸を押さえ、わたしはゆっくり口を開く。
「はい……それが……すごく妙な話なんですが――」
「はい」とウェイン卿は真摯な眼差しをまっすぐわたしに向ける。
「図書館でお会いした見知らぬ男性は、ひどく真面目な調子で、こう仰いましたの――」
騎士たちが固唾を飲んで頷いた。
少し考えて、紅茶を一口いただいて、ゆっくりと口を開く。
「――来週の騎士団公開演習には、来るな、ですって」
予想通り、応接室の空気は一変した。
カマユー卿とアイル卿は、ぎょっとしたように目を瞠ったかと思うと、忙しく瞬きながら視線をあらぬ方向に泳がせる。
ウェイン卿は、瞠目したまま凍りついた――ように見えた。
「まあ、それで……すごく変でしょう?」
わたしはウェイン卿に向かって、笑いかける。
ああ、やっぱり、帽子を被ったのは、失敗だったのかもしれない。
ただの勘ではあるが、こういう時は、目を合わせていた方が良かった。
騎士団公開演習――――。
ええ、ええ。昨年、新聞記事を穴が開くほど熟読いたしました。
年に一度、不定期に王宮の庭で開催される、王宮騎士が剣技を披露する場。
一昨年までは、戦争のために開催されず、昨年、ついに三年ぶりに復活。
社交界の令嬢たちは、こぞって見学に訪れたそうですね。
憧れの騎士に向けられる、黄色い声援。
気恥ずかしそうに差し出される刺繍を施したハンカチ。可愛らしいハート形の手作り焼き菓子。花言葉に想いを込めた一輪の花。淡い気持ちをしたためた手紙。
楽しそうですねー。
想像するだけで、ワクワクいたしますね!
へえー、ふぅーん。
たっぷり時間をかけて、わたしは首を傾げる。
一方で、凍てついて見えるウェイン卿の顔からは、みるみる血の気が引いてゆく。
あら? 本当、不可解ね? どうしてかしら?
わたしは、まるで赤ん坊に話しかけるように優しい口調を意識して、問いかける。
「それで……? ウェイン卿――?」
そういうのって普通――――
「――来週の騎士団公開演習って、何のことでしょうねぇ?」
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