第19話 図書館とシュークリーム
日毎に柔らかさを増す陽光。
家々の軒先でアーチを描く薔薇が、ひらりひらりと返り咲き、大輪の顏を覗かせる。
背中を押された季節が――巡り行く。
「秋の気配を感じますね」
馬車に揺られながら、窓の外に視線を向けるアナベルが穏やかに微笑んだ。
ストランドから王都に戻って、早いものでもう一ヶ月。
ここのところ、何事もなく平穏な日が続いている。
もっとも、ウェイン卿は相変わらず騎士団のお仕事が非常にお忙しそうである。
社交シーズンが終わったのに、相変わらずブランシュは毎日のようにチャリティーやパーティーにひっぱりだこ。
ランブラーは、相変わらず王宮政務官の仕事で――以下略。
「秋が過ぎたら、いよいよ冬ね」
当たり前のことを呟いて、わたしも相変わらずである。
屋根裏から出て、一つの季節が通りすぎたと言うのに、わたしはやっぱりそれほど変わっていない。
世の中から必要とされ、活躍する人たちの背中を、眩しく目を細めて眺めている。
――いつまでもこんな風で、冬に社交界デビューして、ウェイン卿と婚約なんて本当にできるのかしら?
婚約者……できるなら、ウェイン卿に胸を張って紹介してもらえるような存在になりたい。
しかし我が身を顧みるに、甚だ不安である。特に秀でたところもない。この非力さでは、ウェイン卿のお役に立てるとも思えない。
いやいや、焦ってもしょうがない、今できることをぼちぼちと、――と自分に言い聞かせる。
王立図書館前の噴水広場に着くと、ゆっくりと馬車は止まった。
外に出る前に、外套のフードを深く被り直す。
わたしは特に狙われている様子はないらしい。そりゃそうだろう。わたしなんか狙ったって、誰も得なんてしない。
しかし、ロンサール家の一員であることに変わりはないからして、トラブルに巻き込まれないよう、念には念を入れて、外出時には顔を隠している。
ウェイン卿だけでなく、オデイエ卿やキャリエール卿、ラッド卿からもそうするように強く薦められた。彼らときたら最初とは大違い、とにかく心配性で優しい。
ま、わたしもこの方が落ち着くし。
がちゃんと音を立てて、キャリッジの扉が外側から開かれる。
「――危険はなさそうです。出てください」
扉の向こうで、鋭い目つきで周囲を見回しながらそう言ったのは、――イザーク・メイアン従騎士である。
最近、人手不足に悩む第二騎士団が兵団からスカウトしてきた従騎士様。
ちなみに、紹介していただいたのはつい先程のことである。
アナベルと二人で馬車に乗りかけていると、彼を連れたアイル卿がブランシュの護衛の交代の為にちょうどやって来るところと行き合った。
「あれ? 護衛はどうしました?」
と訊ねられ、ちょっと図書館に行くだけですから二人で大丈夫です、と応えた。
治安の良い王都のよく晴れた真っ昼間。
わたしが襲われるとも思えないし、何しろ、実はアナベルは強い。実力を見たことはないが、謙虚で控えめな彼女が自分でそう言うからには、きっとだいぶ強い。
そんなことはもちろん知らないアイル卿は少し考えて、思い付いたように口を開いた。
「なら、こいつ連れてってください。従騎士になって間がありませんけど、兵団での経験はありますし、陽炎も使いこなします。実力は確かで、そこいらの貴族の護衛騎士よりはよっぽど腕が立ちますから。この前みたいな破落戸程度なら問題ありません」
まあ、すごいですね、と言うと、よろしくお願いします!――ときりっと答えてくれた彼は、わたしよりも年下の十六歳らしい。
しっかりやれよ、とアイル卿に背中を叩かれ、「はっ!」と威勢よく答えたイザーク・メイアン従騎士。
ダークブロンドの髪にミルクチョコレート色の瞳。背は高いけれど、初々しさの残る整った顔立ち。
そして、つい数ヶ月前までの誰かさんのように、無表情――――。
「ありがとうございます。メイアン卿」
目深に被ったフード越しに笑いかけ、手を取ってもらって馬車のステップを降りる。
途端に、イザーク・メイアン従騎士はむっとしたように顔を顰めた。
「卿じゃありません。まだ見習いですから」
あら、とわたしは口元を手で覆った。
「そうでしたね。失礼しました……では、メイアン様?」
「もっと変です。そちら様はご身分が高い」
「そ、そうですか。ええと、では……メイアンさんとお呼びしても?」
はっ、と呆れたように息を吐き、ふてくされたようにそっぽを向く。
――今のは、いいってこと?
首を傾げるわたしの後から馬車を降りて来たアナベルが、イザーク・メイアン従騎士に向ける瞳を眇めた。
「メイアン様? 礼儀がなっておられないのでは?」
震え上がるほど冷たい声でこんなことを言われたって、メイアン従騎士は動じなかった。
正騎士様すら怯ませるオーラを放って見せるアナベルに向かって、ちっと舌打ちを投げた。
まあ、とアナベルと顔を見合わせる。
――あらあら……まあまあ……!
この感じ、このツンとした感じ。
会ったばかりの頃の誰かを連想させないだろうか?
なんだろう、胸の辺りがとても愛おしい気持ちになる。
しかし、アナベルの美しい瞳からは、北極海も真っ青の冷気が迸り始めた。
「あっ! アナベル! 行きましょう! 今日は、新刊を借りられるように予約しているの。アナベルは何を借りる?」
ぴりっと空気に電流のようなものが流れるのを遮って、急いでアナベルの腕を取る。
半ば引っ張るようにして、王立図書館の大きな扉をくぐった。
「どれにしようか迷いますね」
「面白そうなのが、沢山ありますね。あ、これ、懐かしい。令嬢も読まれました?」
声をひそめて、アナベルが言う。彼女と図書館に来るのは楽しい。わたしたちは読書の趣味が合う。
「わたしも読みました! 主人公はもちろんですけど、牧師館の奥様がすごく魅力的で」
「ああ、わかります。私はあの、若い有名女優が出てくる話が好きでした」
「ああ、あの、わざとぼんやりして見せて実は緻密に計算して会話を進めていた、あの女優さん」
そうそう、ほら、あのシーンのあの台詞、覚えてます? と周りには聞こえないくらいに声を落として、耳元で囁き合う。
アナベルとわたしは生まれた国が敵同士で、育った環境も何もかも違うのに、同じ本を読んで、同じ場面で同じように感動していた。
そして、あることがきっかけで出会って友人になり、今は一緒にいる。なんだか不思議だ。
メイアン従騎士は、わたしとアナベルの選んだ重い本を合わせて三冊持ち、三歩ほど後ろを付いてくる。
まだかよ?――ってその顔には書いてあるけれど、口には出さない。
会話もぶっきらぼうとは言え、ちゃんと成り立っているし、最初の頃の誰かさんよりは、ずっと優しいと言えるだろう。
書架と書架の間は、人と人がすれ違うのがやっとだ。自然と一列になって歩いていた。
わたしが先頭で、すぐ後ろにアナベル。三歩さがって、メイアン従騎士。
――それにしても、図書館に来るとお腹が空くわ……。
もう一冊だけ選んで、帰ってお茶にしよう。
書架の角を曲がりながら、寄り道先に思いを馳せる。
――『ブルームーン』のクリームたっぷりシュークリーム、『スノーホワイト』のくちどけなめらかプリン、『赤ずきん』の濃厚カラメルパンプキンブリュレ……。
せっかくだから、親睦を深める為にメイアンさんにも好みを訊いて――――
「ねえ、メイアンさ――」
――言い掛けた途中で、目の前をぬっと大きな影に遮られた。
至近距離にスーツのボタンが見えて、鼻先がぶつかる寸前で立ち止まる。
「あ、申し訳ありま――」
考え事とよそ見をしていてぶつかりかけるなんて――謝罪をしながら端に避けようと身体をずらす。
「――レディ・リリアーナ・ロンサールだな?」
低い声が頭上から降ってきたのと、アナベルがわたしの肩に手を置いたのは同時だった。
見上げて返事をする前に、影はわたしの耳元にすっと口を寄せ、低く囁く。
「――来週の騎士団公開演習には、来るな」
それだけ言うと、声の主はすぐに離れた。
アナベルがわたしの肩を抱き寄せ、目の前の男性を鋭く睨み上げる。
「……はい?」
ぽかんと見上げたその人は、大きな身体の男性だった。
年齢は……ウェイン卿と同じくらいか、少し上?
ふわふわ跳ねる柔らかそうな榛色の髪。ホイップクリームのように柔らかそうな頬。
髪色と同じ榛色の瞳は、チョコソースで描いた線のように細められている。
身に纏う上下は、艶々している。至極上等の絹織物だけが持つ光沢感。
そして、人に命令し慣れた口調と、尊大とも言える態度。
この人は、紛れもなく上流階級の人だ。
――誰かに、とてもよく似ている……?
そうはいっても、わたしに顔見知りは少ない。
この色……ふわふわ……?
――ああっ!!
思わず両手で口元を覆ったわたしに冷徹な一瞥を与えると、男性はくるりと踵を返した。
そのまま、振り返りもせず歩き去る。
背の高い書架の向こう、すぐにその姿は見えなくなる。
いつの間にか、わたしの前に出ていたメイアン従騎士が低い声を出す。
「……誰だ、今の……?」
アナベルもまた、表情に緊張を走らせてわたしを見る。
「お知り合いですか? 令嬢」
狭い通路で二人に向き直り、わたしは首を横に振った。
「いいえ。まったく知らない人です」
それより気になるのは、彼の言葉だ。
――『来週の騎士団公開演習には来るな』ですって?
不可解だ。どういうこと?
ざわりと、ヤスリをかけられたように胸が騒ぐ。
アナベルとメイアン従騎士は、揃って不審げに瞳を眇めた。
大きな男性が消えて行った方向を睨み、二人して黙り込んでいる。
わたしは、つとめて明るいトーンの声をあげる。
「ねえ、お二人とも?」
はっとしたように、二人はこちらを向いた。
「はい」
「なんです?」
アナベルとメイアン従騎士に、にっこり笑いかける。
「シュークリーム、召し上がりたい気分じゃありません?」
――これから『ブルームーン』に寄って、シュークリームを買おう。
こんな気分の時には、甘いものが必須だ。
「はい?」
アナベルがきょとんと首を傾げ、メイアン従騎士は「なに言ってんの?」と言いたげに眉を寄せる。
謎の男性が消えていった書架の方角を見つめて、わたしはそっと胸を押さえる。
「それにしても、今の方……よく似ていらしたわ……」
曖昧に言葉を濁して、わたしは思う。
今の人……
――シュークリームとそっくりだった!
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