第18話 再会(トマス・カマユー視点)

「それで、元彼とは会えました?」


 さりげなく、あくまでも、世間話ですよって風に声をかけた。

 少しばかり上擦ったかもしれない――いや、かろうじて気づかれない許容範囲だろう。


 ストランドのロンサール伯爵領館のエントランスホール。

 荷物の前に佇んでいたお仕着せ姿のアナベルは、「何の話?」とでも言いたげに細い眉を寄せた。

 数秒の間の後、氷の微笑を浮かべる。


「ああはい、お陰さまで」


 へえー、と返した声は、情けないことに、ちょっと掠れていた。

 そうか会えたのか。そうかそうか、いや、関係ないんだけど。もう諦めるし。とっくに諦めたし。


 そもそも――である。よくよく思い返してみると、俺はティールームに寄って行きません? と誘っただけなのであって、告白も何もしていない。それなのにフラれるって、何かおかしくない? 友人でも、ティールームくらい誘うだろ。


 いや、そんなことよりここはひとまず、話題変えよう。いい天気ですね? いや、もう日は沈みかけている。皆は夕食を摂っている時間である。まずい、完全にしくじった。事前に会話の導入部を数パターン考えておくべき――


「それで、王都の方は落ち着いたんですか?」


 黙り込んで傍らに突っ立っていると、涼しい声で訊ねられる。

 アナベルから話題を変えられて、ほっとしたような、もやっとするような。


「いやそれが、落ち着いたような、落ち着いていないような感じっていうか」


 言葉を濁すと、冷たい海色の瞳は呆れたように細められる。


「何ですか? それ?」


「当面は気を付けながら、やっていく――みたいな? 

 完全に安全ってわけじゃないけど、レディ・ブランシュとレディ・リリアーナがいないと、ほら、うちの団長と副団長は禁断症状で死にそうになるから。

 巡行から王都に戻って、仮眠だけ取ってすぐ迎えに来ました」


 ふと、アナベルは呆れたように柔らかく笑った。いつも氷でできた人形みたいな表情しているのに、笑うと目尻が下がって、幼い顔になる。


 笑顔ってのは、人を癒す。


「あー、やばい。今の、旅の疲れが吹っ飛んだ」


 射抜かれた胸を押さえて、自分の心に正直に白状すると、アナベルはまた呆れたように静かに笑った。


 しかし、視線はすぐに逸らされて、無表情に戻る。

 ノワゼット公爵が持参した山のような土産の箱に、アナベルは細い腕を伸ばした。


「いやいや、それ、持ちすぎ。腕が折れそう。俺が持つから、アナベルさんは、それだけ持ってて」


 比較的軽そうな花束だけ指差して、横取りするみたいに箱を持ち上げた。


「カマユー卿が思ってらっしゃるより、力、ありますから」


 むっとしたみたいに、アナベルは眉を寄せる。


「はいはい」


 適当に軽く流して、さっさと歩き出すと、アナベルは大人しく花束を持ち上げて後をついてきた。


 部屋に運び終え、荷物を見回す。


「これで、全部?」

「そのようですね」


 目録のカードに視線を落とし、アナベルはいたって事務的な口調で頷く。


「手伝ってくださってありがとうございました」


 平坦な声は、緩急もつけやしない。マナーの本にでも載ってそうな所作でさらっと頭を下げると、アナベルはあっさりと踵を返し部屋を出ていく。


 この一月半、顔が見たくてたまらなかったのは俺の方だけ、という事実を突きつけられて、やるせなくなった。


 ウェイン卿とレディ・リリアーナ、ノワゼット公爵とレディ・ブランシュ、お互いに会いたくて堪らなかった――って感じの熱烈な再会ぶりだった。羨ましくてため息が漏れる。


「あー、ちょっとすみません。アナベルさん」


「……はい?」


 しぶしぶ――って内心を隠そうともせず、眉をひそめて、恋焦がれてやまない雪の精は足を止めて振り返った。

 冷たい反応に少しも傷ついていない風を装い、努めて軽い感じで、笑いかける。


「俺、来る途中に鞍で引っかけて、ボタン外れかけちゃって」


 制服の袖を、ほら、と見せる。細い糸一本を頼りに、何とか制服にしがみ付いている銀のボタンが揺れる。

 ちらとそれを一瞥したアナベルは、眉一つ動かさない。氷の彫刻のごとき無表情で、冷たい瞳を眇めた。


「ほらあの、帰りもこのままだと、困ると思って。今にもとれちゃいそうで」

「はい、そのようですね」


 氷の無表情で、美しい雪の精は頷く。


「…………ええっと、それでですね………」


 しばらく黙って、反応を伺う。

 頭裏を掻き、息を吸って、吐いて、整えてから、ゆっくりと言った。


「………………針と糸、貸してもらえません?」


 アナベルは表情を消したまま、小さく、こくっと頷いた。




 使用人にあてがわれている簡素だが清潔に整えられた部屋には、木製ベッドが二つ並んでいた。ベッドサイドには小さなテーブルとチェストもある。

 王都からついてきた侍女はアナベル一人であるからか、二人部屋を一人で使っているらしい。


 俺は、手前のベッドに浅く腰をおろし、脱いだ上着を膝の上に置く。

 古めかしい裁縫箱から針と糸を取り出し、集中して針穴に糸を通し、玉結びを作る。


 そうして、俺が袖にボタンを縫い付けている様子を、アナベルは傍らに直立し、じっと見つめていた。


 突き刺さるような視線を手元に感じる中、黙々と手を動かし、俺は考える――――。


 ……なーんか、この絵面、おかしくなくない?


 いや、つけますよ? 自分でボタン、つけますよ? 裁縫くらい普通にできるし。むしろ、男にしてはわりと得意な方かもしれない。


 ――そういえば戦時中は、不器用な仲間の破れたやつ、頼まれて縫ってやったりしたなぁ……。


 いつか、幸いにして結婚できたとしたら、家事だって分担するだろう。

 料理とか好きな方だし、洗濯に掃除、苦にならない方だ。

 さらに幸いにして子どもに恵まれたなら、奥さんは休ませて、夜は俺が抱いてあやそう。子ども好きだし、徹夜とか慣れててへっちゃらだし。



 ――――しかし、それはそれとして、


 今現在、現実問題として、――――俺は一月半近い巡行を終えた後、一昼夜馬を飛ばしてきて夕食もまだの王宮騎士であり、アナベルは侍女であった。


「では、私が後でやっておきます」


 と言ってもらえるとばかり思っていた、己の甘さを呪う。


 もし、そうして貰えたなら、この制服のボタン、この恋の記念に密かにお守りとして大事にしよう、という思春期の少年の抱く夢のような淡い期待は、無表情でスッと差し出された裁縫箱を見た瞬間、シャボン玉のように儚く弾けて消えた。


 こうなってはもう、どれほど能天気にポジティブに考えようと努めても、間違えようがない。


 俺の着てる制服、触りたくもないほど嫌われているのだ。


 せめてきれいに洗濯してから頼むべきだったかも知れない。

 半ば、心折れそうになりながら、無心で針を刺す。




「…………カマユー卿、お上手ですね……」


 手元から衣擦れの音だけが響く中、声がぽとりと頭上から落ちて来た。


「…………え? ああ、はい、いや……上手でもない。普通ですけど。単に、自分のことは自分でやれ、っていう家だったんで」


 実際、一応ボタンはくっついてるけど、縫い目の粗さは隠しようもなく、ど素人のそれである。

 顔を半分上げて言うと、まるで感心したように、アナベルは息をほうっと吐いた。


「……それは、すばらしい」


「……そうっすかね?」


「はい。私は、裁縫がまったくできませんので」


「はい?」


 なんつった?


 横に立つアナベルの顔を見上げると、さっきまで無表情だった顔の目元が、ほんのり上気している。

 海色の瞳は潤んで、俺の手元を見つめていた。


「やってみようと試したことは何度かありましたが、結果は惨憺たるものでした」


「…………」


「とにかく、昔から手先が不器用で。私が針と糸を持つと、その服は二度と着られなくなり、皮を剥いた林檎は可食部がなくなり、料理は当初の予定とまったく違うものが出来上がるという有り様で、もはや伝説レベルと言われていました。髪だけは、練習の結果、なんとか一つにくくれるようにはなりましたが――」


 そう言って小さな頭を傾けると、後ろで一つにくくった腰まである白銀の髪がさらりと流れる。言われてみれば、いつも同じ髪型である。


「そんなわけで、針仕事含む家事全般に関しては、才能に恵まれなかったものとして諦めました」


 なんてことない風に淡々と言ってのけているが、アナベルの職業が何であるかを考えた時、それはなかなかに大胆な告白のように思えた。


「…………よく、侍女に雇ってもらえましたね」


 ああはい、とアナベルはいたって平然と頷く。


「レディ・リリアーナは、大抵なんでもお一人でお出来になりますから。

 アリスタは有能ですし、ニコールもメリルもペネループも経験豊富で、幸いなことに私の出る幕はありませんでした。ですからまあ、私は別の分野で令嬢のお役に立てればと」


「…………へ、へぇー…………」


 レディ・リリアーナとロンサール伯爵の懐の深さが、よく理解できる話ではあった。


「…………べ、別の、分野って?」


 ごくっと生唾を飲み込んで、好奇心に抗えずおそるおそる尋ねると、アナベルは眉を寄せて真剣に考える素振りを見せる。しばしの沈黙の後、口を開いた。


「…………力仕事?」


 大切に扱わないと折れてしまいそうな細い腕を、アナベルは出してみせた。


「……見た目とギャップあるって、言われません?」


「まあ、たまに?」


 へー、と笑うと、アナベルもつられて笑った。

 ちょっと照れたみたいに、普段は凍っている目尻を下げた笑顔は、控えめに言って、めちゃくちゃ可愛かった。

 西の窓から、傾いた陽が部屋に射し込んで、いつも氷みたいなアナベルの瞳と頬を夕焼けの色に染めていた。


「ロンサール伯爵なんかやめて、俺にしとけばいいのに」


 ダサいことを言ってしまった、と直ぐに後悔したが、ついでなので、全部言ってしまうことにする。

 何しろ、告白もさせてもらえずにフラれてしまった。だからきっと、こうして引きずるのだ。


「ロンサール伯爵は天界のイケメンで、伯爵で金持ちで頭良くて人格者だけど、みんなの王子様だ。アナベルのものにはならない」


 怒って睨まれると思ったが、アナベルは面白そうに海色の瞳を細めて、ふふっと笑った。控えめに言って、その顔はやはり、めちゃくちゃ可愛かった。


「俺は、アナベルだけの俺になるし、優しいし親切だし打たれ強いし、騎士にしては手先器用で針仕事も料理もわりとできる。これでも、イケメン騎士とかって、もてはやされている。……いや、よく見たら大したことないと自分でもわかってるけど、パッと見はそこそこだ。自分で言うのもアレだけど、わりとお得だと思う」


 アナベルは何も言わず、困ったみたいに俯いた。

 夕陽に照らされて、銀の睫毛が頬に長い影を落とす。


「もったいない。俺で、手を打っとけばいいのに。一生愛して、大事にするのに。一生笑わせて、後悔させない自信あるのに」


 アナベルは俯いたまま、何でか知らねえけど苦しそうに唇を引き結んだ。



 ――最後まで言い切った。ダサいことを、最後まで言い切ってやった……!



 ――この片想い、もはや、悔いなし。



 言い終わると、どっと疲労感が襲ってきた。


 さっさとメシ食って寝よう。

 そして、明日からは新しい俺になる。

 前を向いて生きてやる。


 大きく息をついて、針と糸と鋏を手早く裁縫箱に片付け、ボタンをつけ終わった上着を羽織りかける。


 ベッドに座る俺の隣に、すとん、と誰か腰掛けた。今、この部屋にいるのは二人だけであるから、当然それはアナベルである。


「…………?」


 肩が触れ合うほど近くで比べると、アナベルはやはり細くて小さかった。もし抱き締めたら、きっと腕の中にすっぽり隠れるだろう。

 白銀の睫毛に縁取られた海色の瞳が、こっちをじっと見ていた。


 右側が夕陽に照らされて、左右の虹彩が違う色に映っていた。

 それはまるで、この世のものではないみたいだった。

 触れると消えてしまう虹色の夢のようで、言葉を失うくらい、綺麗で――――


 ――…………?


 白い腕がするりと伸びてきて、俺の首に巻き付く。


 ――…………あれ?


 銀の睫毛の隙間に覗く、光が射す海の底みたいな瞳が潤んで、煌めいていた。


 見惚れていると、それがどんどん近付いてきて、目の前に来たと思ったら、唇が何か柔らかく濡れたもので塞がれたまま、視界がグラリと揺らぐ。


 ぼすん、と音がして、天井に渡された黒っぽい梁がが目に入る。


「…………は?」


 塞がれていた唇が離されると、片手で俺に伸し掛かかっていたアナベルはもう片手で自身の髪をほどいた。


 はらりと、白銀の髪が顔にかかる。


 銀色の滝の向こうで、夕陽の熱が燻る海色の瞳が、こっちを見下ろしていた。




 §

 



「どうした?  カマユー、また失恋?」


 隣の席で朝食を摂るアルフレッド・キャリエールが、手付かずの皿を前にして頭を抱える俺に向かって明るく声をかけてきた。


 ロンサール伯爵領、領館の食堂。

 王都の伯爵邸は豪勢な造りだが、こっちは古き良き、落ち着いた雰囲気の屋敷だった。

 梁が張り巡らされた広い食堂には、年輪の浮かぶ一枚板の分厚いテーブル。


「また当たって砕けたか……?」

「久しぶりに会えたもんな……気が逸っちゃったか」


 スープカップを傾けながら、向かいに座るエルガーとアイルが気の毒そうに呟く。


「いや……俺ってさ、ロンサール伯爵と、似てるかな……?」


 よろよろと顔を上げて訊ねた途端、三人は愕然と目を瞠る。


「カマユー……、お前……しっかりしろ! 戻ってこい!」

「地上に生きる者のうち、伯爵に似ていると言って許されるのは、レディ・ブランシュとレディ・リリアーナ、ただ二人だけだ」

「俺たち以外の前で、絶対に言うなよ。伯爵のファンクラブに社会的に抹殺されるぞ」



「………………だよなぁ?」




 ――昨夜。


 はい、やってしまいました。

 言い訳にはなりますが、何しろ、運命の相手と舞い上がり、思い詰めた理想の塊でした。

 一月半ぶりに会った、恋焦がれる女の子に伸し掛かかられ、深い口づけを繰り返されたのです。髪と首筋から漂う甘い花の蜜ような香りに酔い痺れ、触れ合った部分が、熱く溶け混じっていくようでありました。

 夕焼け色から夜に染まってゆく部屋の中で酩酊し、自身の肉体の境目もわからなくなりました。あれで理性を保つのは流石にどうしたって、無理な話でありました。



 でもって朝になり、身支度を整えながら、アナベルはいつも通り表情を消していた。


 浮かれまくり、婚約などすっ飛ばして結婚生活について嬉々として語る俺に、冷たい視線を向け、氷みたいな声で言い放った。



「ロンサール伯爵様と間違えました。なかったことにしてください」



「…………は?」


 



 ………………似てねえし!!






「……………………わからん」


 そこから数えて百回目くらいの溜め息をつき、テーブルに肘をついて頭を抱える俺を、エルガーとアイルが気の毒そうに見てくる。


 目の前の皿の上で、厚切りのトーストは冷たくパサつき、チーズオムレツは冷え固まり、ハムは乾きかけている。



「…………………何がなんだか、まっっ……たく……わからん」


 出てくるのは、我ながら死ぬほど情けない声だった。


 エルガーとアイルが顔を見合せ、ひそっと囁き合う。


「この様子じゃ、よっぽどこっぴどくフラれたな……」

「だから言わんこっちゃない……。しつこくし過ぎて、嫌われたな……」



「…………どんまい」



 キャリエールまでが気の毒そうに声を落とし、俺の背中を叩いた。





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