第17話 不名誉なあだ名(リリアーナ& ??視点)

「……それがさ、事態はそれほど好転していないんだ」


 ストランドの邸で摂る最後の夕食の席。


 セップ茸のソテーを添えた鴨のコンフィにナイフを入れながら、ノワゼット公爵は大きな嘆息を落とした。


 久しぶりに会えたウェイン卿は、白皙の横顔を少し日焼けさせて、精悍さが増して見えた。

 再会の挨拶もほどほどに、迎えた夕食の時間。


 早く、たくさん、声が聞きたい話したい、と跳ね回りたいほど浮かれたわたしの気持ちに反して、隣の席のウェイン卿は浮かない表情を浮かべている。


 つい、うっとり見つめてしまう己の視線をなんとか引き剥がし、わたしはブランシュの隣で同じく浮かない表情を浮かべているノワゼット公爵の話に耳を傾けた。


 ブランシュが不思議そうに小首を傾げる。


「どういうこと?」


 ストランドでの健康的な暮らしで、より美しさを増したブランシュを、ノワゼット公爵は眩しそうに見つめ返す。


 少し考えるように黙ったかと思うと、ランブラーとウェイン卿と軽く頷き合ってから、意を決したように口を開いた。


「――懸賞金の方は、取り下げられた」


 ブランシュとわたしは、二人して眉をひそめた。


「懸賞金? なにそれ?」

「……けんしょうきん、って、日曜の朝刊のクロスワードなんかについている、あの懸賞金ですか?」


 意味を図りかねて首を傾げるわたしたちに向かって、ノワゼット公爵が事の次第をようやく明かした。


 だけどそれはおそらく、尖った部分は削りとられ、まあるく柔らかくなっていた。

 ――だけどとにかく、説明してくれた。



「――というわけで、ブランシュにかけられていた、わけのわからない懸賞金は取り下げられたから、誰彼構わず狙われる心配はひとまずなくなった。だけど、そもそも誰が裏社会にそれを依頼したのか、まだ突き止められてない。……おまけに――」


 ノワゼット公爵が、不機嫌そうに眉をぎゅっと寄せて黙ってしまったので、ランブラーが軽い溜め息交じりに後を引き取る。


「――ブルソール国務卿、失脚を免れてまだ王宮にいるんだってさ」


「あらまあ! 完璧な布陣を敷いたって言ってたのに……」


 ブランシュが目を丸くして言うと、ウェイン卿とノワゼット公爵は赤ワインがなみなみと注がれたグラスに手を伸ばし、揃って一気に呷った。


 いつも冷静な二人の珍しく荒々しい所作から、彼らの内心が甚だ穏やかでないらしいと察する。


「やっぱり、巡行で王都を離れたのが良くなかった。陛下、僕、グラハム・ドーンが、王宮を離れざるを得なかったから」


「国務卿にとっては、絶好の機会を得たってところでしょう」


 公爵とウェイン卿の声は、これ以上ないほど苦々しい。

 ランブラーが気まずい感じの溜め息をつきながら口を開いた。


「僕も、ブルソール国務卿は気持ちの良い人間じゃないと思う。だけど類い稀に有能な人でもありますからね。それを買っている人間も、王宮にはいるんでしょう」


 ノワゼット公爵が、鳶色の瞳を悔しそうに眇める。


「……だがしかし、ブルソールに媚びへつらう米つきバッタは、かなり駆逐できた。

 残っているもののうち、注意すべきは、蛇のブルソール、豚のディクソン、カメレオンのダーバーヴィルズだけだ。他の連中は、僕のことも恐れていて、だいたい行動が読める――ま、どっちつかずな奴らだから。ほっといて問題ない」


 同じく赤い瞳を眇めたウェイン卿が後を引き取る。


「少なくとも、しばらくはおとなしくするとは思いますが――」


「そうねえ……。そうだと良いけど……」


 ランブラー、ノワゼット公爵、ウェイン卿、ブランシュ、それに周りに居並ぶ騎士たちは、皆、訳知り顔で頷き合っている。


 へえー、とまるでわかった風に眉を寄せて頷いて見せながら、わたしは内心で、ぽかんと首を傾げていた。


 国務卿と、その側近ですって……?


 新聞で名前を見たことがあるだけの、雲の上のお歴々。

 長年の引き籠りには、まったくついて行けない話題であった。置いてけぼり感がすごい。


 そっと、鴨のコンフィの皮目にナイフを入れるとぱりりっと、思いのほか香ばしい音が響いた。裂け目から溢れだす肉汁が、マッシュポテトの上に流れ出す。


 ――わー、美味しそう。


 テーブル上で繰り広げられる、真剣極まりない会話を聞き流しつつ、目の前の料理に胸を踊らせる。


 ――それにしても……。


 米つきバッタ、蛇、豚にカメレオンだなんて……。

 わたしのドブネズミに勝るとも劣らない、悲しいあだ名だわ。

 さっきから、胸のうちにふわりふわりと浮き上がってくるこの感覚は、もしや……もしや……親近感、というやつでは?



 ――どんな人たちなんだろう?


 そういえば、封豕長蛇ほうしちょうだって言葉がある。欲深い悪人の例え、だっけ? 大きな豚と長い蛇。まさしくである。

 

 蛇のブルソール、豚のディクソン、カメレオンのダーハーヴィルズ……? 

 

 ノワゼット公爵とウェイン卿は、ブランシュに懸賞金なんてものを掛けたのは、彼らのうち誰かだと考えているらしい。

 それはよっぽど、封豕長蛇ほうしちょうだな人たちなんでしょうねぇ。



 香ばしい鴨肉は、舌の上に載せた途端、ほろりと崩れた。

 付け合わせのセップ茸、マッシュポテト、粒マスタードが旨味を引き立て、最高の味わい。


 ――何にしても、わたしとは縁のない人たちだわ。


 自分が国務卿やその側近とお近づきになる場面なんて、想像することもできない。あり得ない。

 犯人が誰なのかは気になるけれど、それは騎士さまたちのお仕事だ。わたしが考えたって、わかるわけないし。


 不名誉なあだ名仲間への親近感はひとまず置いといて、味覚に神経を集中することにした。


 ――それにしたって、モーリーの腕前は世界一だと思ってたけど、ストランドの領館の料理人もまた、素晴らしいわー。


 領館でいただく最後の晩餐にまったりと頬を緩ませていると、視線を感じた。

 おそるおそる顔を上げると、隣の席からウェイン卿の眼差しが注がれていた。赤い瞳は細められている。

 慌てて、しゃんと背筋を伸ばして真面目な顔をしてみせると、くすっと笑われる。


 それはもう、身体が蕩けてしまいそうなほど素敵な「くすっ」だった。


 そして、はっとする。


 しまった。

 やっと久しぶりに会えたのに、話が噛み合わない上に、食欲を優先する不謹慎なやつだと思われた可能性が高い。


 いけないいけない。


 蛇と豚とカメレオンへの親近感をひた隠し、真面目な顔をして会話に集中すると、また、くすっと隣から声が聞こえる。

 まずい。心を読まれたかも。

 まったく、気が気でないったらない。

 

「ブルソール国務卿は、ドーン公爵の猛攻を切り抜け、王宮に残れた。それで気が済んで、ブランシュに掛けた懸賞金を取り下げたんですかね?」


 ランブラーが神妙な調子で眉を寄せて言うと、ノワゼット公爵は、さあね、と首を軽く横に振った。


「あの毒蛇の腹の内だけは、さっぱり読めないよ」



 §



「――では、ブルソール国務卿閣下は、ブランシュ・ロンサールに掛けた懸賞金を取り下げられると?」


 頷いてその意を示すと、闇の組織、修道士の頭巾党モンクスフードの頭目である、通称『修道士モンク』と呼ばれる男は、柔らかく微笑んで頷いた。


 港湾地区の奥まった場所にある、指定された一角。


 細い道を何度も曲がった末に辿り着いた部屋では、薄暗がりにオイルランプが怪しく揺らいでいる。


 窓は厚いカーテンが降ろされ、外の景色は一切見えない。



 ――修道士モンク


 はじめて目にするその姿に、ごくりと唾を飲み込む。


 肘掛椅子に深く腰をおろした修道士モンクは、穏やかな顔つきの男だった。


 一目で上質とわかる上下を身に纏っている。よく磨かれた、昆虫の翅のように黒光りする革靴は、少しも底が減っていない。仕草はどこか洗練されていて、品がある。


 ――なるほどな。貴族の一員だという噂は、真実らしい。


 まさか、この育ちの良さそうな男が、この大陸を陰で牛耳る闇組織の頭目だとは、誰も思いも寄らないだろう。


「承知しました。……あまり、閣下のお役に立てませんでしたね」


 本心はどうだか知らないが、修道士モンクは申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 オイルランプの淡い光が、その陰影を深く刻む。

 この薄暗い部屋では、修道士モンクの髪や瞳の色までを知ることはできなかった。


「かまわんよ。君らは君らで、よくやってくれた。国務卿も感謝しておられる」


 鷹揚に応えてやると、修道士モンクは、安堵したように頷いた。

 つられてこちらも少し、寛いだ気分になる。


 どうやら、闇社会に君臨する無法者ですら、毒蛇公爵の二つ名を取るブルソール国務卿には気を遣うらしい。


「それで……? ブランシュ・ロンサールの方は、お諦めになるのですか?」


 修道士モンクからごく軽い調子で尋ねられた途端、くくくっと、自身の喉の奥から、嗤い声が漏れる。


「まさか。後はこっちでやるだけだ」


 ああ、なるほど……と応えながら、修道士モンクは、柔らかく笑んだ。


「勿体ないような気もいたします。あれほどの顔、台無しにしてしまうのは。他に有益な使い道が、いくらでもあるでしょうに」


 平坦な物言いに含まれる残酷な響きに、思わず顔を上げる。

 修道士モンクにとっては、美しい女も誰もかも、ただの道具に過ぎないのだろう。

 修道士の頭巾党モンクスフードが起こしたとされる数々の血なまぐさい事件が頭を過る。

 胸がうすら寒いような、走り去ってしまいたいような心地になって、ふと思い出す。


 ――ああ、そうだ。


 何を恐れる?


 自分はもう、とっくに同じ穴の狢じゃないか。


「……だから、いいんじゃないか」


 ねっとりと響いた自身の声に、ゆるりと首を傾げた修道士モンクの瞳が、不審げに揺らいだ。


 少し、喋り過ぎたようだ。

 長居は無用、と立ち上がる。


「まあ、そう言うことだ。また、何かあったら、頼むよ。……国務卿閣下のご意向だ」


 承知しました、と修道士モンクはまた柔らかく笑う。


 テーブルの上に置いていた帽子を手に取り、深く被ると、部屋を後にした。



 扉を開けた途端、生臭い潮の香りが鼻を突く。


 月も星も雲に隠された漆黒の夜。

 すぐそこは海だ。昏い波音がここまで微かに届く。

 海の音も臭いも、ひどく気を滅入らせる。

 嫌なことを思い出す。

 

 何度か細い道を行き、角を曲がれば、明るい大通りに出られる。


 唐突に、何か得体の知れないものに後をつけられているような気味の悪い感覚に襲われ、振り返った。


「……………」


 そこにはただ、寂れた倉庫が並んでいるだけだった。


 ――だれもいない、か。


 夏だというのに、夜は冷えた。何か寒気に襲われた気がして、季節外れの外套の襟を掻き合わせ、先を急ぐ。


 船乗り御用達の酒場や宿屋が軒を連ねる大通りは、真昼のように明るいはずだ。

 あそこまで行けば、安心できる。

 もっとも、あんな掃き溜めのような場所で、女を買う気にはなれないが。


 自身の望みは、今も昔も、ただひとりだけ。


 ばさり、と背後で音がして、ぎくりとして振り仰ぐ。



 鴉が一羽、闇に溶けるように屋根に止まっていた。

 じっとこちらを見据えている、暗い洞穴のような双眸。


 それと目が合った気がして、思わず後ずさる。


 周囲を満たす、昏い潮騒。

 魚の腐ったような臭い。


(なんだ、ただの鴉じゃないか……)


 思わず、ふっと失笑を漏らした。


 ――何を弱気になってる。


 地獄なら、もう充分に見て来た。


 ――懸賞金が取り下げられたと知り、ブランシュ・ロンサールは予定通り王都に戻るだろう。


 外套のポケットに片手を入れ、それを確かめる。

 ひんやりと伝わる、ガラス瓶の感触。


 王立病院の保管庫から失敬するのは、それほど困難ではなかった。

 性善説を信じる人々の、なんて多いことだろう。


 ――もうすぐだ。


 全てが終わったとき、アラン・ノワゼットは、どんな顔をするだろう?

 自分が味わったのと同じ地獄を、味わうだろうか――――。



 恍惚と笑みを浮かべた彼の背後――――



 ばさり、ばさり。


 それは舞う。


 闇に溶けていた鴉たちが、目を覚ます。

 黒い羽が、夜に浮かぶ。

 黒い眸が、闇の底から彼を見つめる。


 いくつも、いくつも。


 無数の眸。



 同時に――――

 ひたひたと、冷たい足音が近づいていた。




 先を急ぐ彼は、そのどちらにも気が付かなかった――――




 

 

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