第9話 銀の指輪ー02

 恋が成就すると、種が蒔かれるらしい。


「ブーゲンビルって、素敵な街ですね。あ、ほらあそこ、白鳥がいます」


 運河を指して笑いかけると、そうですね、と微笑みかけてくれるけれど、その視線は水面を一瞥しただけで、石畳に戻る。

 上品に羽を休める美しい白鳥には、あまり興味がないらしい。


 ウェイン卿と並んで、箱庭に迷いこんだような古都を歩く。

 

 夕焼け色の三角屋根で統一された街並み。白壁の窓辺で咲き零れる珊瑚色のゼラニウム。チョコレートを並べたような石畳の上を、静かに流れる運河に沿ってぶらぶらと散策する。


「巡行中は、どんな風に過ごされるんです?」


 小さな街には、どこからか甘い香りが立ちこめていた。

 軽く肩を竦めて、ウェイン卿は視線を下げて気のない調子で口を開く。


「陛下の巡行に随行するのは初めてですが……まあ、遠征の豪華版ってとこでしょう」


 へー、そうですか、と何でもない風に頷きながら、蒔かれた心配の種はむくむくと芽を出し根を張り、胸の奥に蔓を伸ばす。


 ――地方の領主館で開かれる夜会で、美しく着飾られた素敵なご令嬢たちとダンスを踊られますか? 


 ――洗練された王宮の侍女様達と一月もの間、旅をして、同じものを食べて、同じ場所に泊まって、同じ景色を見て、同じ夜空を見上げて、どんなお話をされるんです?


 ……なぁんてことは、口が裂けても言わないですよ、っと。

 平静を装って、わたしは微笑みかける。


「それじゃ、遠征ってどんな風なんです?」


 そうですね、と少し考えてから、ウェイン卿は淡々と口を開く。


「宿に泊まれる時はべつに普通です。町や宿のない場所では、野営ですね」


 ウェイン卿はたいてい、自分のことをつまらなそうに、言葉少なに話す。取るに足りないって風に。

 しかし当然ながら、わたしは強く惹き付けられる。

 自分たちで作った出来立ての食事を、屋外で味わう……。

 ウェイン卿が袖を捲り、火を起こしたり、薪をくべたりしているところを想像してみる。なんて素敵な光景。


「野営料理って……屋外でご自身達でお作りになるんでしょう?」


「ええ、まあ。外で火を起こして、適当に食べられるものを煮たり焼いたり……。場合によっては乾パンなんかで済ますことも――」


 俯き加減に訥々と話していたウェイン卿は、凝視しているわたしに気付いて顔を上げた。目が合った途端、くすりと笑う。


「何を想像しておられるのか分かりませんが、そんな風に瞳を煌めかせるような、良いもんじゃありません」


「でも、すごく楽しそうです。雄大な星空に抱かれながら、焚き火を囲んで食事して、森の音を聴きながら眠る……。素晴らしいじゃありませんか? いつか機会があったら、ご一緒させていただきたいです」


 ウェイン卿の視線が、紺の簡素な旅着を纏ったわたしに向く。

 数瞬後、確認完了――とばかりに深い笑みを浮かべると、首を横に振る。


「無理ですね。一晩たりとも」


「あら、そうでしょうか?」


 思わず口を尖らせると、ウェブ卿はそっと笑う。


「夏でも夜の森は冷えます。その細い身体では絶対に無理です。虫だって出ます。コウモリに獣も。雨が降ることも。これだけはなんと言われようと、無理なものは無理です」


「あら、ですが、オデイエ卿だって細くていらっしゃるし、戦時は女性医務官の方もいらしたでしょう?」


 精一杯抗議してみるが、ウェイン卿は余裕の笑みを深めるばかりである。


「細さの種類が違います」

「種類……?」


 自身の旅着の左袖を少し捲り、手首を見る。スープばかり食べていた頃より、ずっと健康的になっている気がするが、足りないだろうか? ちなみに残念なことに、まだまだ胸は足りない。


 じっと見ていると、すっと大きな手が伸びてきて、手首に触れた。

 確かに、騎士の中では細身なウェイン卿の掌と手首はわたしよりもずっと大きい。乾いた固い指で、透ける血管の上をなぞるように触れられると、どきどきと心臓が跳ねた。


「……この細い腕で……今まで一人で出歩いて無事でいられたのは奇跡です。ここの道は凹凸が激し過ぎる。貴女が足を取られるじゃないかと気が気じゃない。ちょっと躓くだけで、折れてしまいそうじゃないですか」


 ウェイン卿はわたしの袖を優しい手付きで元に戻し、手首を隠してしまった。


「そんな馬鹿な……躓いたくらいで折れたりしません」

「……叙爵されることができたら、すぐに正式に婚約を発表しましょう」


「……へ? はっ、はい!」


 意地悪かと思ったら、唐突にこんなことを言い出すあたり、これが天然だとしたら、恐ろしい人である。

 わたしのハートは野うさぎのように跳ねまくって、きゅんきゅん鳴る。


 ぼうっと見つめていると、大きな手はわたしの左手を取ったまま、親指で掌をなぞる。触れられたところから、ぞくぞくと震えが駆け抜けた。


「……あ、あの! わたし、もっと鍛えておきますから!」


 たまらなくなってどうでも良いことを口走ると、ウェイン卿はふ、と目を細めて笑う。


「……本当は……連れて行きたい」


 なぞるように触れながら、嘆息を落とすように切ない声で呟く。


 手に触れられるだけで立っていられないような感覚に陥るなんて、わたしは本当、どうかしている。

 息苦しさを覚え、ほうっと息を吐くと、ウェイン卿ははっとした様子でぱっと手を離した。


「ですが野営はいけません」


 手を離されてほっと息を整えながら、むうっと睨んで見せると、ウェイン卿は眩しそうに微笑んだ。

 夕闇が濃くなり始めると同時に、辺りに立ち込める香りも濃くなってゆく。香りの元に近付いたのだろう。


「……ウェイン卿? この街、なんだか罪な香りがしませんか?」

「……何か異常がありますか?」


 ウェイン卿が立ち止まって、眉を顰めて緊張した面持ちで辺りを見渡した。


 大きく息を吸うと、爽やかな夏の風の香りと共に、罪作りな香りが胸を満たす。注意深くあたりを見渡し――――


「あ、あれです!」


 指し示した方を眇め見て、ウェイン卿は首を傾げた。


 アンティークのドールハウスのような、煉瓦作りの小さな店。そのガラス張りのショーウィンドウの向こうに、罪深き菓子たちの姿があった。


「……ショコラティエ?」



§



「……美味しいですか?」


「はい。外の空気を吸いながら甘いものをいただくのは格別ですもの」


 池が見える公園のベンチに腰掛け、使い捨ての紙の容器に入ったショコラアイスをスプーンですくう。

 夏季限定、オレンジピール入り。甘いのに甘すぎない濃厚なほろ苦さの中にさっぱりとしたオレンジの酸味。身体の隅々にまで甘く行き渡ってゆく。もっともっと欲しくなる。

 アダムとイブの時代にアイスクリームがあったなら、罪の象徴はリンゴでなくアイスクリームであったにちがいない。


「なら、良かった」

「ウェイン卿は、本当に召し上がりません? びっくりするほど美味しいですよ?」


「飲食中は瞬発力が落ちますから。ここは慣れない街ですし、令嬢をお護りすることに全力を尽くします」


「……まあ……」


 麗しく微笑むウェイン卿に見惚れながら、アイスクリームの塊を舌先で転がして溶かす。

 ふと、道行く人たちが物珍しそうに目を丸くしてこちらを伺っていることに気づく。

 通り過ぎてから、また戻ってくる人までいた。ウェルシュコーギーを連れた若いその男性は、目が合うとぱっと目を逸らし、ささーっと小走りに駆け抜けて、また振り返る。


 ……なんだろう?


 公園で、アイスを食べちゃいけなかった?  お行儀が悪すぎる? 

 慌てて視線を走らせると、他のベンチに同じカップを持つ女性二人組や、仲睦まじそうな老夫婦の姿が確認できて、ほっとする。


「……帽子が、必要でしたね」


 ウェイン卿がぽつりと、静かに呟いた。


「は? 帽子、ですか……?」


 目の前の景色は、夕化粧を済ませている。

 池のほとりでは赤紫のオシロイバナが風に揺れ、空に走るすじ雲はその花と同じ色に染まっている。日差しはもうない。


 不思議そうな顔をしたわたしを見て、ウェイン卿はそっと笑った。

 耳元に手が伸びてきて、髪を耳にかけてくれるから、また胸が鳴る。


「……一刻も早く、迎えに行きますから」


「はい。……それより、巡行にはくれぐれも気を付けて行かれてくださいね。お怪我などされませんように。毎日、祈っていますから」


 胸の中には、もっとたくさんの想いが溢れる。

 あなたがいないと、わたしは生きていけません。

 もうずうっと前から、あなたしか見えないんです。

 それはどれも、言葉にするには相応しくないように思えた。

 だって、と思い出すのは、多々ある恋の格言のひとつ。二人の間にある恋の木に、どちらか一方が水をあげすぎると枯れてしまうのよ――――。

 どう考えても、わたしの恋心はウェイン卿のそれより多い。



 ウェイン卿は、可笑しそうに頬を緩ませる。


「ハーバルランドは友好国ですし、ドゥフト=ボルケ地方も大分落ち着きました。安全な国内を回るだけですから」


「それでも、どんな不測の事態があるかわかりませんから……」


 ウェイン卿は、物憂げに目を伏せる。


「……確かに、まさか指輪が買えない羽目に陥るとは。……あれは、とんだ不測の事態でした」


 息を吐くように言われて、わたしも頷く。


「はい。あれには驚きましたしたが、また次に、ウェイン卿と出掛けられるという楽しみができましたわ」


 微笑みかけると、ウェイン卿はしんみりと微笑む。


「……忘れないでください」

「はい?」


「……ストランドに迎えに行った時、俺のこと、誰だっけ? って目で見ないでくださいね」

「はあ!? 見る筈ありません! もう、リスじゃないんですから、そんなに忘れっぽいはず……」


 はた、と気付いて、目を見開く。


「ウェイン卿……もしかして、食欲のままにアイスクリームを頬張るわたしが、食べきれぬほどの木の実で頬を膨らませたリスのようだとでも……?」

 

 ウェイン卿は目を瞠った。


「……いや、ちがいます」


 じとっとした目で睨み、アイスを舌先で溶かさずに塊のままごくりと呑み込む。

 だって、せっかくのデートなのに、今日のウェイン卿はどこか上の空だ。


「本当でしょうか……!」


 唐突に、ウェイン卿は、嬉しそうに笑った。つまらなそうじゃない顔で。


「……違いますが、まあいいです。なんでもいいです。覚えていてくれたら」


「……ですから、忘れるわけな――」


 言いかけた途中で、唇に柔らかいものが触れて、すぐに離れた。


 あんぐり、と口を開けたわたしを熱の籠った瞳が見つめる。


「確かに、アイスは最高ですね」


「……あ、アイスが欲しいなら、そう仰ってください! こっ、ここは!! ひ、人がいます!」


 あたふたと差し出すと、ウェイン卿はカップを受け取って、嬉しそうに赤い瞳を細めた。


「そこの熱々のお二人さん! お土産物はいりませんかあ?」


 声の方を向くと、道の向こうから十代前半と思われる少年が小走りに近付いて来ていた。

 にんじん色の頭はモジャモジャで、よく焼けた頬には煤のようなものがついている。

 ウェイン卿がさっと表情を消して立ち上がった。


 感じの良い笑いを浮かべて、少年は両手に抱えた開けっぱなしのトランクをわたしの視界に差し出した。

 中には、小ぶりの銀のアクセサリーや小さな陶器の人形、色褪せた絵葉書、貝殻、何に使うかわからないカラフルな紐などが雑然と並んでいる。

 公園を訪れる大人を相手に、土産物のような雑貨を売っているらしい。


「いや――」


 ウェイン卿が断る前に、少年はぎよっとしたように目を見開いて、素っ頓狂な声をあげた。


「おっ、お姉さん! その顔! 本当に本物の、人間ですか!?」


「……はい?」


「令嬢、行きましょう」


 ウェイン卿が冷たい声を出し、少年を睨む。

 少年の黒曜石のような瞳は、わたしの顔に向けられたままだ。人から真っ直ぐな視線を向けられると、少し落ち着かない気分になる。

 少年のよく日焼けした顔は、みるみる紅く染まった。


「あっ、あのう、お姉さん、おれの指輪、要りませんか? あ、ふっかけたりしません。お姉さんみたいな人に嵌めてもらえたら、嬉しいから。……なんて、無理ですよね。お姉さんたち、丘の上の公爵様のお城のお客人でしょう?」


 へへ、と肩を落として少年は言う。


「まあ……よく、おわかりですね」


「そりゃ、わかりますよ。黒鷹の王宮騎士様なんて、こんな田舎じゃ普段は見かけないもん」


 憧憬の眼差しをウェイン卿に向けて言う。

 突然の登場には驚いたが、この一瞬でウェイン卿の素晴らしさに気付くあたり、とても見込みがある。途端に湧きあがる、同志への親近感。


 少年の持つトランクに目を向けると、片隅に銀の小さな指輪が並んでいた。


「貴方が彫ったの?」


 こくり、と緊張した面持ちで少年が頷く。柊の葉、花びら、羽根。自然界の模様が丁寧に彫られた銀の指輪は、良く出来ている。素朴な色石が嵌められているものもある。


「まあ、素敵ねえ……綺麗だわ」


 本心から言うと、少年は嬉しそうに顔を輝かせた。


「俺の父さん、腕のいい細工師で、この辺りではちょっとしたもんだったんだ。俺も教えられたんだよ! 石は河原でふるいにかけて探すんだ。 コツがあるけど、慣れたらわりと見つけられるんだぜ」


「まあそう、すごいのね」


 過去形であることから、彼の父親はもういないのだろうと察せられた。


「……令嬢、気に入りましたか?」


 見入っていると、ウェイン卿の優しい声が落ちてくる。


「はい、これなんて、素敵じゃないですか? ウェイン卿の瞳みたいに、綺麗な色……」


 ガーネットの原石のような紅い石が嵌った指輪を指すと、ウェイン卿はふつっと黙った。

 数秒後、ちゃりんと音を立て少年の手に銀貨を握らせる。


「足りるか?」


 掌を開いて枚数を数えた少年は目をまんまるくして、頬をみるみる紅潮させた。


「お、多すぎます。これじゃ、もらいすぎだから――」

「いい」


 手を突き返そうとする少年を、ぶっきらぼうな声が制止する。

 見上げると、ウェイン卿の耳は、うっすら夕焼け色に染まっていた。


 少年がさっきの指輪をウェイン卿に渡し、ありがとう、と元気に叫ぶと跳び跳ねるような足取りで走り去る。


 薄闇の迫る公園で、ウェイン卿の手がわたしの左手に触れる。薬指に、銀の指輪をそっと嵌めてくれる。ゆっくりと指を通るひんやりとした感触に、胸が甘酸っぱい多幸感で満たされてゆく。


 手を繋いで戻りながら、ウェイン卿が呟く。


「落ち着いたら、ちゃんとしたものを贈りますから」


「はい。でもこれも一生、大切にします。ありがとうございます」


 左手を上げて紅い石を透かして見ると、同じ色の瞳も優しい光を宿す。


「……俺は、令嬢が好きです」


「わたしも、ウェイン卿が大好きです」


「……では、頼みを、聞いてくれますか?」


 ウェイン卿がぴたりと足を止め、思い詰めたように視線を落とす。


「はい、なんなりと」


「……職業斡旋人のマーク・エッケナーが、令嬢に渡した紙……俺に、いただけませんか」


「……は?」


 ひどく真剣な眼差しと視線がぶつかる。ウェイン卿の片手が伸びて、頬に触れ、ゆっくりとなぞる。


「……ウェイン卿? もしかして……」


「はい」


「時計を……お求めでいらっしゃる……?」


 なら、わたしにもプレゼントできるかしら?


 ウェイン卿の手がぴたっと止まり、町を見下ろして立つ鐘楼の上で、かーっ、と一声、鴉が鳴いた。




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