第8話 銀の指輪―01
雄大な山々は、みるみる後ろに流れて遠ざかる。
わたしは身体を心持ち左に傾け、車窓に顔を近づけた。ウェイン卿がそこにいるのを、確かめるためだ。
土煙を上げて駆ける騎馬に、少し前のめりに跨っている。日差しを浴びて煌めく銀の髪、翻るマント。
はあ、きゅんとする。
「……それで?」
澄んだ声が聞こえて、わたしは座り直して隣の席に目を向けた。
シンプルな旅装着は、美しいもの本来の美を、より際立たせるらしい。
艶やかなはちみつ色の髪を横で一つに束ね、細い首筋をのぞかせたブランシュが、神がかった微笑を称えて小首を傾げる。
「――ストランドまで逃げなきゃならないほどの事情って、一体全体、何なのかしらね?」
ノワゼット公爵家の馬車に乗って、わたしたちはストランド州ロンサール領へと続く道をひた走っている。
向かいの席で、この辺りに生息する野生のハリネズミの生態について興味深いトリビアを披露していたノワゼット公爵とランブラーは、笑顔のまま固まった。
「もう大人しく王都から出たんだから、そろそろ教えてくれても良いと思うわ。今更、やっぱり屋敷に帰りたい、なんてダダこねないから」
ブランシュが甘さの滲む優しい声でそう続けると、ノワゼット公爵は弱りきったように眉尻を下げて口を引き結んだ。
ランブラーは素知らぬふりで、窓の外に視線を流す。二人とも、黙秘権の行使を決めたらしい。
そんな二人を見ながら、ブランシュはふぅん、と宝石のような碧眼を細める。
「お仕事大好きなお従兄様が王宮政務官の職務をほっぽって? アランとウェイン卿がわざわざ往復に付き合って? 第二騎士団の騎士が二十人もこの馬車を取り囲んでる。ちょっと、いえ、かなり大袈裟……よっぽど怖い相手なのね。もしかして、ブルソール国務卿?」
ノワゼット公爵が、蕩けるように優しい眼差しをブランシュに向ける。
「……ブランシュは、本当に賢いんだから」
ブランシュが大袈裟な溜め息を落とし、瑞々しい果実のような唇を尖らせた。
「もうっ、逆に嫌みに聞こえちゃう。このくらい、誰にでもわかります! ……だけど、ブルソール国務卿がアランの政敵なのは、ずっと前からじゃない? 他にも、何か理由があるんでしょう?」
「……さあ、どうだろう? 何もないよ? ブランシュはただ、旅を楽しんでくれたらいい」
鳶色の瞳が、優しい笑みを深めて細められる。
ブランシュが碧い瞳を眇めて、ノワゼット公爵を挑むように睨む。怒った顔も、我が姉ながら麗しい。
ちなみに、使用人たちは皆、ランブラーが屋敷に残るように命じた。これだって、ちょっと尋常じゃない。居残りを命じられた侍女たちの顔には、あからさまな落胆の色が滲んでいた。最終的には、ランブラーに説得されて納得していたけれど。
アナベルだけが、『古い知人がストランドにおりますので、ご一緒させてください』と言い出し――もちろん、真っ赤な嘘だろう――、アナベルの素性を知るランブラーは彼女の同行だけ許した。
しかし、事情を知らないカマユー卿は、ひどく渋い顔をした。
アナベルの乗る後方の馬車の横では、カマユー卿がさぞ心配そうな顔をして、並走していることだろう。
ブランシュの傍にいるだけで、危険が及ぶ可能性があるということだ。
騎士を連れていても、完全には安心できないほどに――?
「……ふぅん、しょうがないわ。そういうことなら、わたしも秘密主義の人たちとは、もう話すのをやめる。ね、リリアーナはどう思う?」
ランブラーは、ブランシュの脅しにも眉一つ動かさない。平然と景色を見つめている。
一方、ノワゼット公爵は捨てられた子犬みたいに不安そうな顔をした。
「ええっと、そうですね……。公爵様とお従兄様は、ブランシュの為を想って、隠してらっしゃると思いますが、……ブランシュはブランシュで、自分のことなので、知りたいですよねぇ……」
間に挟まれた心地のわたしは、どっち付かずのことを言う。
「そうよねえ! リリアーナは、やっぱり、わたしの気持ちがよくわかってるわ!! リリアーナだけはね」
ブランシュは「だけ」の部分を強調して言った。わたしの肩に細くしなやかな腕を巻き付け、すべすべと頬と頬をくっつける。
ブランシュがノワゼット公爵を睨みつけると、公爵もランブラーの真似をして窓に視線を流した。黙秘します、とその顔に書いてある。
けれど、ブランシュの顔色をちらちら伺っているので、あまり成功しそうでない。もしわたしが取り調べ官なら、絶対こっちを狙う。
「教えてくれないものはしょうがない。……自分で考えてみるわ」
ブランシュは隣に座るわたしに身体ごと向けて、自身の顎先をさくら貝のような指先で叩いた。
「きっかけは、あれよね? リリアーナとウェイン卿の乗った馬車が、襲われた事件」
「そうねぇ」
あのとき感じた生きた心地のしないほどの怖さを少し思い出して、しんみりした声になる。
「だけど、あっさりウェイン卿が撃退した。あの程度で、ストランドに逃げないわよねぇ……。生け捕りにした襲撃犯が、びっくりするようなことを告白したのね」
それはきっと、間違いない。
あの事件の直後、わたしはノワゼット公爵、ウェイン卿、オデイエ卿に付き添われて屋敷に戻った。わたしを励まそうとしてくれて、終始和やかな空気だった。
キャリエール卿、カマユー卿、アイル卿が遅れて屋敷にやってきて、公爵とウェイン卿に何か報告してからだ。屋敷を取り巻く空気が変わったのは。
騎士たちの纏う緊張感が、いままでと違う。
そして、彼らはブランシュとわたしにその理由を明かさない。
「怖いもの知らずの第二騎士団団長や副団長が、真っ青になって逃げ出そうとすることって、何かしらね……?」
「いやいや、僕らは真っ青になっても逃げ出してもいない。巡行から戻ったら、すぐに迎えに行くからね」
鳶色の瞳に笑みを称えたまま、公爵はとろけるような甘い声をブランシュにかける。
ノワゼット公爵が、ブランシュをストランドに送ろうとしているのは、国王陛下ご一家の巡行のお供を命じられた第二騎士団が、しばらくの間、王都を離れるからでもある。
ブランシュの警護が手薄になる。
「残していく数人の騎士と、従騎士や治安兵士使ってってのも考えたんだけどさ――――」
言いかけて、公爵はお茶をにごすように止めてしまう。
王都から離れた南西海岸に位置するストランドは人口密度が低い。王都からストランドに辿り着くまで、途中、いくつもの山や川を越える。都度、治安隊の守る関所を通らねばならない。
あちらの方が守りやすい、ということなのだろう。
「それにしたって、巡行先の通り道に当たる地域の領主達は、名誉だけど大変だよ。皆、社交シーズンを早めに切り上げて領地に駆け戻った。今頃、東側の領館では出迎える準備にてんやわんやだろう」
ノワゼット公爵が、声のトーンを二段階上げて言う。話題を変えたがっていると察する。
巡行では、南東の隣国ハーバルランドと接する辺境を巡ったあと、ハイドランジアから割譲された東部ドゥフト=ボルケ地方を巡るらしい。両陛下による巡行は戦前以来。
実に六年ぶりとあって、新聞でも大きく取り上げられている。
「公爵様達は、地方の領主館にお泊まりになりますの?」
話題の変更に、まんまと乗って差し上げることにした。
ノワゼット公爵は、茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべて頷いてくれる。
ちなみに最近、「おにいさま」って呼んでくれていいんだからね、と会うたびに言われるが、ランブラーに向ける「お従兄さま」と混同しそうなので、今のところ保留にしている。
「これから一月もの間、移動、豪勢なもてなし、移動、豪勢なもてなし、を延々と繰り返すわけだ。胃もたれしないように気を付けなきゃ」
「第一騎士団の皆様だけでなく、第二騎士団の皆様まで引き連れて行かれるなんて、道中のご様子は圧巻でしょうね」
「ああ、他にも大勢の侍女や王宮医官も連れて行く。長いパレードみたいなもんだよ。我が国の領土になって間もないドゥフト=ボルケ地方やその周辺の辺境に、陛下のご威光を見せつけて牽制するのが今回の巡行の目的だ。せいぜい偉ぶってくるよ」
ノワゼット公爵の若干うんざりしたような口振りに、ランブラーが軽く肩を竦める。
「もてなす側の東の領主達の気苦労は、計りしれませんねぇ」
「もう! 話を逸らされちゃったわ。それで? わたしたちがストランドに行かなくちゃいけない理由って何なの?」
業を煮やしたブランシュに詰め寄られて、ランブラーは美しい笑みを深める。
「理由なんて。社交シーズンは夏で終わるから。たまには領地にも帰らないと。王宮の仕事が忙しいのを言い訳に、ずっと家令に任せきりだったからね。リリアーナ、次の社交シーズンに向けて、ストランドで僕とダンスの練習でもしよう」
「はい。お従兄さま、よろしくお願いいたします」
応えると、ブランシュは何か言いたそうに唇を尖らせ、馬車の中を見回した。
わたしだって、気にならないといえば、嘘になるけれど――――。
この前、馬車が襲われた時の自分の体たらくを思う。
わたしときたら、まったく、うんざりするほど非力だ。
――知らせたくないのなら、それにはきっと、理由がある。
少なくとも、わたしに何とかできるような問題じゃないってことだ。
§
空が茜色に染まりはじめた頃、馬車はようやく、ブーゲンビルの街で停まった。
ストランドまでの旅路は長い。途中の町で休みながら行くらしい。
馬車から降りようと俯いてステップに足をかけると、目の前にすっと手が差し出された。
顔を上げると、額にかかる銀の髪に斜陽光が当たり、燃えるような赤に染まっている。
ウェイン卿の輝くような優しい微笑を見た途端、疲れは吹き飛んだ。
「長旅で、お疲れでしょう?」
「いいえ。ウェイン卿こそ、馬でいらして、お疲れではありませんか?」
「いいえ」
浮かれた声を出すわたしを見て、ウェイン卿は晴れやかに笑う。
今日の宿泊場所は、ブーゲンビルの街を見下ろせる丘の上に建つ、大きな尖塔を頂く美しい古城だった。
塔の上に翻る、楯と白獅子と冠の紋章を組み合わせた旗。
お伽噺の世界を写生したような城門の前で、お仕着せにきっちり身を包んだ使用人たちがずらりと出迎えている。
ほえーっと感動して見上げていると、ノワゼット公爵がブランシュの手を取りながら、声をかけてくれる。
「今夜はここに泊まる。ドーン公爵家の別邸だ。ここなら、信用できるから」
どうやら、ノワゼット公爵が犬猿の仲(?)たる第一騎士団団長、ドーン公爵に頼んでお城を借りるほど、事態は切迫しているらしい。
お世話になります、とランブラーとブランシュと共に頭を下げると、居並ぶ使用人たちは、ほうっと溜め息をついて頬を染め上げた。ランブラーとブランシュに見惚れたのだ。
城門を入った奥にある吹き抜けの玄関ホールは、見たこともないほど巨大なシャンデリアに照らされていた。
白い大理石でできた階段が流麗なカーブを描きながら二階へと続く。
階段横の壁には、歴代城主の肖像画が並んでいる。グラハム・ドーン公爵の肖像画と、ご両親と思わしき二人の肖像画もある。翡翠の瞳と青銅色の髪。ローゼンダール王家の血を引く、高貴なる血統の証し。
「僕とはあんまり似てないだろう?」
肖像画を見上げていると、ノワゼット公爵から声をかけられた。ノワゼット公爵の鳶色の瞳と亜麻色の髪を見て、軽く頷いて答える。
「先代のドーン公爵様は、伯父様にあたられるのですよね?」
ノワゼット公爵は、うんと頷く。
「先代の陛下の三人の弟。それがそれぞれ、第一騎士団のドーン公爵家、第二騎士団のうち、第三騎士団のハミルトン公爵家を継いだ。ちょうど、直系が途絶えたんだよ、女子しか生まれなくて。僕は母に似てるけど、グラハムとジェフリーは父親似だ」
へえーと返事しながら、先代ドーン公爵夫妻の肖像画を見上げる。
建国時代の王が自分の息子たちのために立てた、いくつかの公爵家のひとつ。代々騎士団長を務め、王家と深いかかわりを持つ。ドーン公爵の母上の瞳もまた、美しい翡翠の色だ。この国でもっとも高貴なる血統。
そういえば、ノワゼット公爵の母君は確か、西隣の大国、フローレンベルクの王女だった方だ。
最近、近くに居ることで知った、伯爵令嬢たるブランシュが「完璧」でいるためにしている、さまざまな努力。
順風満帆な、お似合いのカップル。
だけどもしかしたら、ブランシュにしかわからない苦労や困難があるのかもしれない。
「夕食までしばらく時間がある。みんなで街を歩くかい? 旧市街は趣があって、良い街だよ?」
ノワゼット公爵が慈しみ深い眼差しをブランシュに注ぎ、尋ねる。
「……いい。周りを騎士に囲まれて出歩く気分じゃないわ。疲れちゃった。横になりたい……」
ブランシュの顔には、めずらしく疲労の色が滲んでいた。
普段は強いブランシュだからこそ、この状況は不安なんだと思う。
憂いや疲労ですら、ブランシュの美しさに影を落とすことはできていなかった。むしろ、人間離れした美貌に磨きがかかって見える。
ブランシュの輝きに一瞬で魅了されたらしき城の使用人たちがどこかうっとりした様子で、けれど風が流れるように動き始める。
ノワゼット公爵が、わかった、と優しい声で囁いて、ブランシュの肩を優しく抱き寄せた。そうしていると、この二人は光を纏って見える。
「リリアーナはウェイン卿と出掛けてきたら? ストランドに着いたら、ウェイン卿とアランはとんぼ返りでしょう。しばらく会えなくなるんだもの。わたしは眠るから、気にしないで行ってきて」
「うんうん、僕もちょっと仕事するから、二人で行っておいで。ウェイン卿と一緒なら、大丈夫だろう」
ブランシュとランブラーに揃ってそう背中を押され、ウェイン卿と顔を見合わせる。
眩しそうに瞬いて、ウェイン卿は微笑む。
「お疲れでなければ、街をご案内します」
もちろん、わたしは即答する。
「はい! ちっとも、疲れておりません!」
これって、つまり……
デートである!
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