第6話 ひとりきり

 一人きりになった馬車の中で、わたしは傾いた天井を仰いだ。


 ――さて、


 ウェイン卿の戦場での活躍ぶりは、新聞で読んでだいたいのところ把握している。

 鬼神の如く剛勇無双でいらしたらしい。

 不利だった戦況を何度も転覆させたほどお強かったらしい。

 向かうところ敵なしだったらしい。

 ハイドランジアから『赤い悪魔』と呼ばれ恐れられたらしい。


 だがしかし、あたたかい血の通った生身の人間。


 ――無敵、ではありえない。


 ……あれ?


 ――拳銃を持つ多勢を相手に、無傷で済むのかな……?


 あれれ?


 今、この場には他の騎士が一人もいない。

 戦場では、一人きりってことはなかっただろう。周りを囲んでいたのは、ラッド卿、キャリエール卿、それから、オデイエ卿?

 わあ、心強そう。

 彼らがいてくれたなら、背中を気にせず戦えたろう。あんしんあんしん。


 ――で? 今は?


 …………。


 第二騎士団前副団長、ロイ・カント卿についての記事が頭を過る。


『強大無比』『一騎当千の騎士』……無敗の騎士と名高かった、あのロイ・カント卿ですら、何があったのか詳しいことは知らないけれど、セシリアの元に戻らなかった……。


 ……あれ?


 何か外の様子が伺えないかと、耳を澄ます。


 見上げた窓から覗く景色は、風に揺れる枝葉と曇った空だけだった。

 じっと座っていてください、と言われた。流れ弾の可能性――窓に近付くな、という意味だろう。


 重たい空気を突き破るように、パン、パンという乾いた音が響く。体がびくんと跳ね上がる。


 ……銃声……?


 さっき慌てて着替えた、よそ行きのドレス。紺の落ち着いた色目だけれど、光沢が綺麗で、顔色が映えると褒めてもらった。ウェイン卿に、少しでも良く思ってもらいたくて――――――

 息苦しさに胸元を掴むと、胸元を飾るシルクレースの薔薇飾りにぐしゃりと皺が寄った。


 視界が狭くなる。

 薄暗い。あれ? ちょっと気持ち悪いな。

 指先が震え出す。なんだか、ここは寒すぎる。


 外はもう、しん、と静まっていた。


 ――……ウェイン卿に、もしものことがあったら。


 もし、もしも、――失ってしまったら。


 ぐらっと、身体が揺れる。


 一生、絶望の海に溺れて生きるのだ。毎夜、夢で会えることを祈って眠りにつく。

 傍に行ける日が、一日も早く訪れることだけを願いながら。


 春の朝陽を浴びてひらく蕾。夏に命の唄を歌う虫たち。秋に鮮やかに色変える木々。冬の湖面に映る氷の月。

 移ろう季節、そのすべてが、なにもかもが、色を失くす――――――。

 

 やめて、そんなことには、ならない。

 心の中で自分を叱咤して、考えを打ちきる。

 蝶の羽音でも響きそうに、恐ろしいくらい静かだった。

 こんなの、まるで現実味がない。こんなこと、起きるはずがない。

 穴が空きそうなほど扉を凝視して、それが開くのを待った。怖い――お願い、お願い、早く帰ってきて。


 やがて、がちゃりと小さな音を立ててノブが動く。

 瞬きも忘れていると、傾いた扉は意外にも軋みもせず、ゆっくりと外側から開いた。そして、見える――


 銀の髪。赤い瞳。ウェイン卿の、いつも通りの涼しい顔。


 大きな息が、この唇から溢れた。

 瞳をぎょっとしたように見開いたかと思うと、次の瞬間、間近に顔があった。


「令嬢!? ご気分が!? 顔色が真っ青です」

「あ、あの、お怪我は?」


 自分でも驚くほど、湿って掠れた声だった。

 薄暗い視界が、ゆらゆら揺れる。水に顔を浸けているみたいだ。

 ウェイン卿はめずらしく狼狽えた様子で、わたしの頬をに手を伸ばすと固い掌で拭う。


「ありません。御者も引きずり下ろされていただけで無事ですし、馬もひどい怪我はしていません。ですが、この馬車は車軸が撃たれて壊れています。ここで待っていれば、もうすぐノワゼット公爵たちが通りますから、乗せてもらいましょう」


「……はい」


 ウェイン卿は、弱り切ったように眉尻を下げ、片手でこの頬に触れたまま、もう片手で自身のポケットを探る。


「ええと……ハンカチを」


「すみません」


 差し出されたハンカチを受け取り顔を覆うと、香水を使わないウェイン卿の、微かな香りがした。思い切り、力いっぱい、それを吸い込む。

 

 一度切れてしまった堰は、思い通りには修復出来ない。

 俯いて顔をハンカチで顔を覆っていると、両肩をそっと掴まれた。身体がふわりと浮く。


 暖かい温度に包まれて、顔を上げた。ウェイン卿の顔が、間近にある。わたしの身体は、膝の上に横抱きされてすっぽりと収まっている。

 背中をさすりながら、弱り切ったような声で呟く。


「怖がらせて、すみません」

「い、いえ。こちらこそ、不甲斐ないことで、申し訳ありません」


 無事でいてくれて嬉しい。腕の中で安心している。なのに、涙は止まらない。


 ウェイン卿は、初めて見かけた時――例の、鴉を助けていた場面――から今までで、一番困り切った顔をした。

 ぽつりと落とすように、口を開く。


「……俺が」

「はい」

「……俺が、必ず令嬢をお守りしますから」

「はい」

「何も、心配はいりません」


 背を撫でる優しい手の感触に、一番最初に、その手に触れた日を思い出した。

 この人の手は、いつだって繊細な銀細工に触れるときのように優しい。


「……わ、わたしは、ウェイン卿が、お怪我されるんじゃないかと。も、も、もしかしたら、銃で撃たれるんじゃないかと思って……」


 触れた部分から、伝わる温もり。


 それを、これを、失くすかもしれなかった。えぐえぐと子どものようにしゃくりあげる。

 わかってる。これきっと、後から思い出して死にたくなるほど恥ずかしくなるやつだ。わかってるけど、言葉が続かない。

 大きくて暖かい掌に、優しく頭を撫でられる。


 頬に、柔らかく熱いものがそっと触れた。


 びくっと震えたわたしに構わず、頬に触れた唇は涙を舐めとる。

 伝わる熱っぽく濡れた感触に、全身の力が抜けて、身体を預けた。

 耳元に、熱い息遣いを感じる。触れられた部分から、溶けて混じってゆくような感覚。

 どこまでがわたし? どこからがウェイン卿だろう。とろりと酩酊したような心地に掠れた息をこぼすと、さらに引き寄せられて――――。



 ――コンコン、と御者席の窓がノックされた。


 頬から顎の方へと滑っていた唇が、ぱっと離される。魔法が解けたみたいに、二人の間には境目が生まれてしまった。


 厚いカーテンを下ろした窓の向こうで、軽い咳払いの音が聞こえたかと思うと、御者のコルデスの張り上げた声が聞こえた。


「あのー! すいません! ノワゼット公爵閣下ご一行のお姿が、道の向こうに見えて参りましたので。……あのぅ、本当に、すいません……」


 最後のほう、尻すぼみになってゆく。しかし、コルデスは意外と元気そうだ。怪我がなかったのは本当らしい。ほっと胸を撫でおろす。


 ウェイン卿が、大きくて長い嘆息を落とした。


 もう一度、頬に暖かい感触が触れる。今度のは、掠めるように軽く。

 ほんの一瞬、名残惜しそうに腕に力が込められてから、そっと膝から降ろされる。


 そのまますっと立ち上がると、制服の襟を正しながら、爽やかに微笑みかけられた。


「わたしは一旦降りて、公爵に状況を説明してきます。外は少し散らかっていますから、令嬢はここでお待ちください」


 はい、と大人しく頷くと、ウェイン卿はにっこりと清涼な笑顔を浮かべて頷く。

 そして、御者席側の窓に顔を向けると、チッと舌打ちをした。


「いえ! すみません! ご心配なく。馭者は空気です。口は堅く、どんな秘密も墓場まで持ってまいります。何も聞いておりません。何も気付いておりません」


 感情の読めない真顔で御者席の方を見据え、ウェイン卿は軽く頷く。

 おもむろにドアを開くと、ひらりと軽やかな足取りでステップを降りていった。



「令嬢! 大丈夫ですか?」


「オデイエ卿~~」


 数秒後、入れ替わるようにルイーズ・オデイエ卿が駆けこんできた。

 顔を見た途端、押し寄せる安堵感。視界がじわっと滲む。


「令嬢ったら……、見る度にかわいさが記憶を上回りますね。今日はもうなんていうか、薔薇から生まれた妖精にしか見えません。ウェイン卿に変なことされませんでした?」


 隣に座ってぎゅっと抱きしめ、頭をよしよしと撫でてくれる。

 なんかほんのちょっとされたような気もするけど、それは言えない。


 がやがやと騎士たちのものと思われる声が聞こえてくる。

 半分ほど開いたドアの方に視線を向けると、オデイエ卿の身体にすっと視界を遮られた。


「――いけませんよ」


 そのまま、優しい声で続ける。


「外が綺麗に片付くまで、ここでわたしと待っていましょうね」


 オデイエ卿の琥珀色の瞳と珊瑚色の唇は、柔らかな弧を描く。この人は本当、野生の豹を思わせる。自由で強く、美しい。同姓からの憧れを受けるタイプ。

 しなやかな腕がドアノブを引き寄せ、キャリッジの扉はがっちりと閉じられてしまった。


 外の声は、まるで聞こえなくなった。

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