第5話 白亜の馬車

 ブランシュがいつも使っている四頭立ての馬車は、外側も内側も上品なパールホワイト一色で纏められている。

 丸みを帯びたキャリッジ内部は広々として、シルクサテンのクッションが置かれたシートは、座り心地ふっかふか。


「――それで、聞いたんですけれど、その湖は冬の季節が一番きれいなんですって。凍った湖に雪に覆われた森が映って、幻想的な景色を楽しめるそうですよ。あの『フリュイテ物語』にも出てくるんです。ご存じです?」


 許して欲しい。これでも、しょうもないことを話している、という自覚はあるのだ。

 だけど、だって、馬車の中二人きり、という状況はひどく緊張する。


 なにしろ、二人の間に流れる沈黙もまた気楽で心地好いわね、という境地に達するには、わたしたちは言葉を交わすようになってからの日が浅すぎる。

 その上、ウェイン卿は寡黙なタイプ。そういうところも良いんだけれど。


 しょうもない話をふられたウェイン卿は、少し困ったように微笑んだ。


「いいえ。通り掛かったことはありますが、季節は夏でした。わたしはこれまで、景色や物語を楽しむような暮らしをして来なかったので……」


 ですよねぇ、と頷きながら、次の話題を考える。


 まったく、うまく話題を選ぶのは難しい。   

 一体全体、ブランシュやノワゼット公爵やランブラーやロブ卿は、どんな魔法を使ってあんな風にスマートかつ流れるように会話を進めることができているんだろう。


 ウェイン卿は少し考える素振りを見せてから、柔らかく瞳を細めた。


「冬になったら、一緒に行きましょう」


 まあ、と応えながら、自身の頬が緩むのがわかった。ウェイン卿が優しい目をして続ける。


「令嬢と一緒にそんな場所に行けたなら、きっと一生の思い出になります」


「はい。わたしもきっと、ウェイン卿とご一緒できたら、感動のあまり一生忘れられないと思います」


 目を合わせて、笑い合う。


 「幸せ」とは、こういうことを言うのだと、しみじみと思う。この幸せは、これまでのすぐに消えて行く泡沫のようなものとは違う。大地に深く根を下ろした大木のように、力強く育てて行くのだ。この手で。



 浮かれるわたしに微笑みかけたまま、向かいに座っていたウェイン卿は唐突に立ち上がった。


 がらがらと回る車輪の音だけが響いて、車窓を濡らす雨の音はキャリッジの中まで聞こえない。


 動く馬車の中で急に立ち上がるなんて、ふつうはしない。

 揺れていて、危ないもの。首を傾げて、ウェイン卿を見上げる。優しく微笑んだまま、彼は言う。


「令嬢、じっとしていてください」


「ええ?……あの?」


 どうかされました? と訊く前に、長身の身体はするりと隣の席に収まった。体温が伝わるほどの距離。

 ぱちり、とゆっくり瞬きして、隣を見上げる。


「……え?」


 ウェイン卿は雪溶かす春風のようにふわりと優しく微笑んだ。


「大丈夫ですから――」


 制服の腕が伸びてきて、目の前が漆黒で覆われる。ずいぶん近い。制服の布の織り目だって数えられそう。……ん?


「へ?」


 ぐらりと身体が揺れた。ぽすんと頭と背中に当たるのは、シルクサテンのクッションの感覚。

 あー、なるほど。胸に抱えこまれ、座席に押し倒されたらしい――


 …………ん?


 頬は、制服ごしに固い胸板に押し付けられている。上半身は、完全にウェイン卿の腕の中。


 …………はい?


 ばっくん、と胸が鳴る。口を開けると、舌は盛大にもつれた。


「……っ……っ……っ! う、う、う、どっ、どう――」


 あっれー? こういうとき、どうする?


 いくら会話の進行が微妙だからって、いっくら何でも、結婚前にこんな――


 いやまてよ、わたしが世事に疎いだけで、普通はこうなのか?

 婚約したら、普通はこうなのか?

 誰か、ブランシュにでも、訊いとけば良かった……!

 ああどうしよう、どうしたら、


 よし、落ち着こう。


 ここはひとまず息を吸って、深呼吸を――――

 雨の匂いと混じるウェイン卿の体温の香り。思いっ切り吸い込んだ。

 くらり、と目が回る。


「令嬢、何も心配いりません。わたしにすべて任せてください」


 耳元で低く甘く、落ち着いた声が囁く。これもう、だめ押しである。力は抜ける。


「はっ、はい――」


 もうこうなったら、流れに身を任せ――――――



 ――ダ、ダ、ダッ!!


 乾いた炸裂音が、大きく響いた。


 びりりっと窓ガラスが震える。


「……!……は!?」


 座面の下で回る車輪が、ただならぬ轟音を立てた。クッション越しの背中に伝わる、震動と軋み。

 断末魔を思わせる、馬たちの悲鳴。


 咄嗟に目だけを動かして窓に視線を送る。

 激しく揺れる視界の中で、林の木々が傾いていた。


 ウェイン卿の腕に力が籠る。頬は一層、固い胸に押し付けられる。


 ひゅっと零れかけた息を、飲み込んだ。


 世界が、揺らぐ。傾く、斜めに――ああ、


 この馬車、横転するんだわ――――――。


 衝撃に備え、全身に力を込めた。思わず瞑った瞼の裏で、赤い光が弾ける。


 一瞬のうちに、さまざまなものが脳裏に浮かんでは消えて駆け巡る。

 ああ、これ、走馬灯ね。

 やだ死にたくない。もっと生きたい。だけど、この生命の儚さを、わたしたちは誰しも心のどこかに留め置いている。


 最期が、ウェイン卿の腕の中かぁ……。


 うん、終わりよければすべてよし。

 いい人生だった。出会ってくれた人達、わたしを形作ってくれたもの、みんなみんな、ありがとう――――。



 車体は、とんでもない角度に傾いていた。きっと、片側が完全に浮いている。メトロノームのように、ゆらゆらと揺れる。

 やがて、何かに引っ張られるように、がくん、と動いた。


 ばきっと木が割れるような音とともに、クッションのお陰で緩和された衝撃が、背に伝わる。


 そろそろとキャリッジ内部を見回した。だいぶ傾いてはいるが、上下の位置は正しい。もう揺れてない。


 と、とまった?


 上半身は座面に横になったままだった。黒い制服の腕の中に囚われている。

 肌に感じる温もり。鼓動。息遣い。どこも痛くない。ああ、


 ――無事だわ。


 止めていた息を、大きな安堵感とともにゆっくりと押し出す。


 頭がぼうっとする。考えなくちゃ。事故だわ。この馬車、事故を起こしたんだ。


 ――伯爵邸のベテラン馭者、コルデスに何かあった? 飛び出してきた小動物に、馬が驚いた? 馬車が石に乗り上げた? 林の木にぶつかったのかも。


 わたしの身体を抱き締めたまま、ウェイン卿がゆっくりと身体を起こす。


「う、ウェイン卿……? コルデスか馬に何かあったんでしょうか?」


 だけどどうして、ウェイン卿には事前にそれがわかったんだろう?

 座り直し、この背に回した腕はそのままに、ウェイン卿は黙ったまま、厳しい眼差しをドアの方に向けていた。



 ――ばんっっ!!


 ドアが、弾け飛んだかと思った。


 思わずびくっと身体を強ばらせると、ウェイン卿の腕に力が込もる。


「ブランシュ・ロンサール!! 一緒に来ても、ら……お――」


 開いたドアの向こうには、黒い布で頭と顔の下半分を覆った男たちの姿があった。

 黒ずくめの全身に、目だけがぎょろっと光っている。雨で湿った空気と一緒に流れ込む、鼻を突く饐えた汗の臭い。


 彼らの手に握られた、濡れて黒く光るもの。

 見て、ようやく理解した。


 ああ、そうか。


 ――銃撃されたんだ。

 

 抱き締められる腕にさらに力が籠もる。喉の奥で、息が詰まった。


 ……う、撃たれる……!


 しかし、不思議なことに彼らは撃ってこなかった。


 ドアの向こうで、覆面の隙間から覗く濁った目を見開いたまま固まっている。

 何人いるのか、ここからはわからない。だけど、少なくとも四人。


「……あ、あれ……?」

「レクター……? ウェイン……?」

「……な、なんで……?」

「きょうは、王宮に居る……はずじゃ……」


 頬に触れるウェイン卿の胸が動いた。大きな嘆息が、頭上から落ちる。


 見上げると、光に透かした柘榴石のような瞳があった。反射しているのではなく、瞳それ自体が、火が灯ったように発光して見える。

 騎士たちが使うこの不思議な力を、彼らは『陽炎』と呼んでいる。


 なるほど、うまい名前だなあ、と思う。

 夏の暑い日に人を惑わせる、あの美しく儚い幻に、とてもよく似て揺らぐ光。

 宝石の類いを手に入れたいと願ったことはないが、この瞳のような宝石があったなら、きっと人々は奪い合うに違いない。


 形の良い唇は、わたしに向かって、にっこりと爽やかな笑みを作った。落ち着いた声が静かに告げる。


「令嬢はここに座って、目を閉じて、耳を塞いでいてください。少し出てきます。すぐに済みますから」


 軽い世間話のような調子で言われて、大人しく小さく頷く。

 世事に疎くとも、わかった。今のような状況で、騒いだり泣きわめいたりしてはいけない。例え、どれほどそうしたくとも。


 そろりと優しい手つきで座面から床面へと下ろされた。座ってろと言われなくても、腰はとっく抜けていた。

 ぺたりと床に座ると、スカートがバルーンのようにふんわり広がって、滑稽なほど優美にゆっくり落ちる。


 ウェイン卿はもう一度優しく微笑んだ。立ち上がりながら、わたしから手を離す。


 赤い陽炎がウェイン卿の周囲に揺らめいていた。

 その時になって、馬車の床や壁も同じように赤く発光していることに気がつく。まるで炎のように色づいて綺麗なのに、ちっとも熱くない。


 襲撃犯たちが瞠目したまま、じりっと一歩後ずさった。


 こちらに背を向けてドア枠に手を掛けたウェイン卿が、襲撃犯をぐるりと見回した。ドアの向こう、雨の音はもうしない。いつのまにか止んだみたい。

 そのまま、軽く飛び降りる。



 ――がちゃん。



 後ろ手に、ドアは外から閉じられた。



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