第4話 雨と恋ー03

 ウェイン卿は玄関ホールの扉の前で、漆黒の騎士服の水滴を払っていた。

 階段を降りて向かうこちらに気付いた途端、濡れた銀の髪の下の赤い瞳は細められる。


「ウェイン卿、ごきげんよう」


 声は、自分で思うよりもずっとはしゃいでエントランスホールに響き渡った。

 しまった、子どもっぽかったかも。

 ぎくしゃくと、真っ白いタオルを差し出すと、赤い瞳は、ますます細められる。


「ありがとうございます、令嬢。遅くなりました」


 かつて威圧感たっぷりだった物腰は、ふわふわのタオルよりも柔らかい。


 この水も滴る凛々しい人が、わたしと婚約している。

 感慨深い溜め息が、胸の深いところから零れて落ちた。


「お体が冷えてしまわれたのではありません? お風邪を召されるといけませんから、熱いお茶でも召し上がってから参りましょう」


「ああ、いいえ。それほどひどい雨ではありませんから、このまま――」



「いらっしゃい、未来の弟さん」


 階段をゆっくり降りて来ながら、茶目っ気たっぷりな挨拶を口にしたブランシュに、ウェイン卿は胸に手を当てて礼をする。


「レディ・ブランシュ。ごきげんよう」


「ちょっとばかり、いらっしゃるのが遅かったわね。雨が降る前なら、リリアーナの白いドレス姿をご覧になれたのに」


 大袈裟に残念そうに眉を下げたブランシュの冗談を聞いた途端、ウェイン卿は瞠目して絶句した。

 その反応を見たブランシュは満足そうに頷き、ふふふ、と笑って、わたしの両肩に手を置く。


「まあでも、このドレスも可愛いでしょう? 白はお楽しみにとっておいてくださいね」


 ブランシュが言うと、ウェイン卿は気を取り直したように軽く咳払いした。溶けるように優しい声で言う。


「はい。令嬢は何を着ていても、大変よくお似合いです」


 今度は、わたしが言葉を失う番だった。

 頬が火に炙られたように熱くなる。

 胸を押さえて蹲りたい衝動と戦っているわたしの横で、ブランシュと侍女たちは満足げに頷いている。


 こほん。

 さておき、――ここのところ、第二騎士団の皆様はとても忙しそうだ。


 新聞を賑わせる、政府高官の不正、失脚の話題のせいだ。

 第一騎士団団長である、グラハム・ドーン公爵が陣頭指揮を執り、汚職にまみれた貴族たちを次々に王宮から追い払っているらしい。


 そのせいか、王宮政務官であるランブラーも近頃、帰りが遅い。夕食を一緒に摂れない日もある。

 ウィリアム・ロブ卿も、以前のように屋敷を訪れる時間が取れないようだ。


 政治が乱れると国が乱れる――って誰か偉い人が言ってなかったっけ。

 王宮騎士の皆様は、王都の治安強化、汚職高官やその手下の捕縛や取り調べなどで、多忙を極めているらしい。


 ついこの前まで、ブランシュに会うためほぼ毎日、屋敷を訪れていたノワゼット公爵すら、なんと今週は一度も姿を見ていない。

 ウェイン卿とも、頻繁には会えない日が続いていた。



 ――それが、一昨日。


 陽がゆるやかに傾き、心地よい風が吹き始めたころ、ウェイン卿は突然、屋敷を訪れた。


「……ちょっと、顔が見たくなったもので」


 当然、多幸感で心は野うさぎのように跳ねまわった。


 アナベルに、「ほら、急いでいらっしゃると言った通りでしょう? 馬の息があがっていますよ」と静かに耳打ちされた。

 彼女はとにかく、不思議なほど勘が鋭い。


 では、夕食もご一緒に、と浮かれてお誘いしたが、すぐに王宮に戻らねばならない、と言う。


 ニコール達が、手早く庭園にティーセッティングしてくれた。


 全盛期を過ぎ、上品に咲き残るつる薔薇に彩られた東屋で、二人きり。

 温かい紅茶を挟んで座った。

 お忙しい近況をお訊ねし、労いの言葉をかけた後、ウェイン卿は言いにくそうに、口を開いた。


「……それで……、今日は、図書館に行かれたとか」


「ああはい、カマユー卿にお聞きになりまして?」


 盛りを過ぎた薔薇の香りは、長くなった日の名残りを惜しむように辺りを優しく包む。


「はい」と答えるウェイン卿の表情はいつも通り平然として見えた。


 新緑の葉と白薔薇を背景に、腰掛けるウェイン卿ときたら、ほんとうにもう、どうしようもないくらい素敵だった。

 散りかけた白薔薇の花びらが、黒い制服の肩に触れて落ちる。映えるわー。眼福。


「図書館まで、アナベルとカマユー卿がご一緒してくださいました」


「……なるほど」


 最近、アナベルと出掛ける時は、たいてい、カマユー卿が護衛を申し出てくださる。

 最近気付いたことだが、あの人は、とてもわかりやすい。

 カマユー卿のアナベルに向ける眼差しときたら。

 態度にも声にも、それはもうはっきりとくっきりと、そう書いてある。

 

 一方、アナベルの方は、見ているこっちが気の毒になるほど平然と、あの秋波を受け流している。時折、迷惑そうに眉をひそめてすらいる。

 彼女は「ここに長居する気はない」と言っていたし、そもそも、彼女の正体は――


 しかしこの世には、どんな奇跡も起こりうる。ウェイン卿とわたしがそのいい例だ。

 うまく行けばいいなあ、とぼんやり考えて、はっとした。


「あっ、でも、カマユー卿はサボっておられたわけではありませんよ。勤務時間外でいらっしゃるのに、ご厚意で一緒に来てくださったんです!」


「騎士が令嬢の護衛をするのは、ノワゼット公爵の指示でもありますから問題ありません。最近の王都は、治安が良いとは言えませんから」


 ティーカップを傾けて、ウェイン卿はさらっと言う。

 とはいえ、ローゼンダールの王都は、大陸の他の国々と比較して稀に見る治安の良さを誇っている。

 貴族令嬢でも、よほどの名家か何か事情でもない限り、日のあるうちに中心街を出歩くくらいならば、侍女が付き添うのが普通だ。


「そうですか……? お気遣い、痛み入ります」


 いいえ、と軽く首を振って、ウェイン卿は少し言い淀む素振りを見せた。


「それで……その、カマユーから……聞いたのですが……」


「はい」


「その、図書館で、令嬢に声を掛けてきた男がいた、と」


 やっぱり、その件ですか……、と内心で溜め息を溢した。

 どうやら、観念するしかないみたい。

 ガーネットのように綺麗な瞳に、力なく微笑みかける。

 

「ああ……はい、あの方はですね――」


 

 黒く塗り込めてしまいたい過去は、いずれ白日の元に晒される運命にあるらしい。



 図書館から出て、馬車に向かっていた。


「リリーさん!!」


 背後から、大きな声で呼び止められた。


 ん? わたしですか? と振り返る。


 そこには、顔を真っ赤に染めた二十代半ばくらいの男性が立っていた。はっ、はっと肩で短く息をしている。


 カマユー卿が、わたしと男性の間にすっと立った。アナベルが、わたしのすぐ傍に身を寄せた。


「……っ! や……っと、見つけた……! 探しました。……リリーさん」


 その男性は、カマユー卿の姿が目に入らないようだった。一歩右に避けて通ろうとして、胸の辺りを片手で押さえられ止められる。

 

「どちら様で? 令嬢、お知り合いですか?」


 普段、穏やかなカマユー卿の空色の垂れ目がちな瞳は眇められ、凄みのある光を放っていた。


「……ええと、あの……?」


 どこかで、お会いした覚えがあるような気がした。

 はて、……どなた? 

 目を凝らして、目の前の男性を観察する。

 

 榛色の瞳。柔らかそうな、瞳と同系色の髪。中肉中背。グレーのスーツと黒い革靴は、日頃よく目にする、ランブラーやノワゼット公爵が身につけているものとは違って見えた。


 ――労働階級の人かしら……?


 そんな人と知り合う機会が、これまでのわたしにあっただろうか?

 何しろ、他の追随を許さぬ筋金入りの引きこもりを自負している。


 目の前の男性の後ろでは、同じようなスーツを着た男性二人が、頬をひきつらせていた。「……天使って、妄想じゃなかったのか」「おい、やめとけ、王宮騎士と一緒だぞ」と囁いている。


 しかし、男性はその声が聞こえないみたいに果敢にこちらに近付こうとして、カマユー卿に胸をぐいっと押し返された。ぐらりと後ろによろめいた男性は、ますます頬を紅潮させた。


「ぼっ、僕は、怪しい者じゃない!! え?……令嬢、って言いました……? やっぱり、何かわけがあったんですね。僕はただ、急にいなくなるから、あなたを心配して……!」


 その声を聞いて、ちらっ、と頭の中で閃くものがあった。


 ――『何か、わけがあるんでしょう?』 


 『リリー』……。そんな名を、名乗った覚えがある。


 ――あ!!


 わたしは片手で口許を覆った。


「ああ! あの時の! 窓口の親切なお方!!」


 男性の顔は、途端にぱあっと輝いた。


「はいっ、そうです!! 職業斡旋所の、マーク・エッケナーです!!」


「まあ! その節は、お世話になりました」


 スカートを摘まんで低く頭を下げたわたしを見て、アナベルとカマユー卿は、訝しげに眉を寄せた。二人揃ってゆるりと首を傾げる。


「……はあ?……しょくぎょう?」

「……あっせんじょ?」




 身分詐称の上、尻尾を巻いて逃げ出そうとしていました。――というのは、口が重たくなる話だった。

 慎重に言葉を選びつつ、訝しそうに眉をひそめたウェイン卿に説明する。


「……というわけで、そのう、以前、この屋敷を出て、どこかで住み込みで働きたいなぁ、……なあんて、思いついたことがございました」


 事情を説明し終えると、ウェイン卿は大きく息を吐いて額を押さえた。


「……ああ、なるほど……」


 それが自分の浅はかさに向けられた呆れた嘆息のような気がして、思わず肩を小さくする。

 自然と意図せず、続く言葉は、か細くしどろもどろになった。


「それで……そのぅ、職業斡旋所の窓口の方が、とても親切にしてくださったのですが……家まで送って行くと言われて、身元が発覚しそうになって、怖くなって、逃げ出してしまいまして……」


 ばかみたいでしょう? と続けそうになって、ぎゅっと口を閉じる。

 いけないいけない。「そんなことはありません。あなたはかしこいですよ」と言ってほしがっているみたいじゃないの。


「……なるほど……それは、何よりでした」


 俯いていると、ほっとしたような声で言われて、顔を上げた。


「はい……?」


「いえ、こっちの話です。……まあ、それで、そのマーク・エッケナーが、令嬢に何か渡したと、カマユーが」


 穏やかに優しく微笑まれて、ほっとした気持ちになる。息をついて、わたしは大きく頷く。

 

「はい。とても親切な方で、ご実家が時計店を営まれておられて、絶対に雇ってくれるからそこを訪ねなさいと、ご実家の住所を書いた紙をいただきました」


 へえー、とウェイン卿の瞳が柔らかな弧を描く。


「もちろん、今は事情が変わりましたのでと、お断りしました。ですが、今後必要になることがあるかも知れないから、受け取ってください、と仰っていただいて」


「……ほう……」


 ウェイン卿が、急に表情を消した。真顔になる。そんなお顔もやっぱり素敵。しかし、


「……お紅茶、渋かったですか?」


 目が合うと、にこりと微笑まれる。


「いいえ。この屋敷でいただくものは、どれも大変美味しいです。それで、その紙は?」


「ああはい、記念に取っておきます」


 どうしてか、ウェイン卿は驚いたように目を見開いた。


「……記念……? なんの?」


「はい……。当時は、死ぬほど思い詰めて就職活動しましたが、成果はさっぱりで、絶望しておりました。それが、こんな訳アリでも雇ってくださる場所を探してくださっていたなんて、職業斡旋所職員の鑑のような方です。プロの心意気を感じます。逃げるなんて失礼なことをしてしまったのに、お怒りにもならず、ずっと探してくださっていたなんて。ご厚意の記念に大切に保管しておきます」


 ウェイン卿は、ぱちりと瞬くと、今度は砂を噛んだみたいに唇をへの字に曲げた。それから、何か言いたそうに開きかけて、閉じる。


「……さくらんぼのファーブルトン、お口にあいませんでした?」


「は? いいえ、とても美味しいです」


 言うなり、ティーカップに入っていた紅茶をぐいっと一気に飲み干す。

 ウェイン卿ったら、喉が乾いていらしたらしい。


 夕方の涼しい風が新緑の薔薇の枝を揺らし、咲き残った薔薇の香りが淡く立つ。あたたかい紅茶に口をつけると、感慨深いものが胸に押し寄せた。


「あれが、ついこの前の春先のことだったなんて、不思議な気がいたします」


 あの頃、わたしの指の見えない赤い糸は、誰とも繋がっていないはずだった。


「……一刻も早く、婚約指輪を買いましょう」

「はい……?」


 ウェイン卿が、いたって真面目な調子で言う。


「本当は、もっと早くお贈りするべきでした」

「……唐突に、話題が変わりましたね……?」


「そうでもありません」

「そうでしょうか?」

「そうです」


 それなのに、今、この左手に指輪を贈られようとしている。


「……それは、とても、嬉しいです」


 ふふと笑うと、ウェイン卿は柘榴石の瞳を優しく細めた。


「なら、良かった」

「はい、すごくすごく、嬉しいです」

「良かった。一緒に選びに行きましょう」

「はい。楽しみです」

「……良かった」


 風が吹いて、終わりかけの薔薇の花びらと、ウェイン卿が後に続けた声を散らした。


「……マーク・エッケナーが、…………なくて、良かった……」


「はい……?」


 なんでもありません、とウェイン卿は笑う。


「では、早速、明日――は難しいので……明後日にでも、いかがです?」


「はい、ありがとうございます。……ですが、お仕事の方は大丈夫ですか? ご無理なさらないでくださいね」


 ほんの一瞬、寂しげな表情を浮かべられたような気がして、瞬く。


「いえ、明後日、必ず体を空けます」


 でも、すぐににっこり笑った。

 


 §



「それじゃ、二人でゆっくり楽しんで来てね。これからアランが久しぶりに来られるらしいの。わたしは屋敷にいるから、あの一番大きい馬車を使うといいわよ。乗り心地はあれが一番だもの」


「ありがとう。ブランシュ」


「では、行ってまいります」


 満面の笑みで見送ってくれるブランシュと侍女たちに手を振って、ウェイン卿と二人、屋敷を後にした。



 それは、雨の中――――



 ブランシュ愛用の、馬車に乗って。





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