第3話 雨と恋ー02

 そんなわけで、その日は結局、オペラ通りで買い物はしなかった。

 けれど、わたしの侍女は最強の布陣を敷けることになった。自慢である。えっへん。


 ランブラーは、「いいよ、喜ぶ顔を見る、という本来の目的は果たされたから」と笑って、買い物はまた今度、と言っているうちに季節は移ろい、王宮政務官として多忙な従兄の感傷は、ひとまず治まっている。



 泥はねしても目立たない紺のドレスに着替え、編み上げブーツに履き替えるべく、長椅子に腰掛けて踵の高い靴を脱ぐ。

 解放された爪先が心地良い。繊細で踵の高い美しい靴よりも、ブーツの方がずっと楽ちん。

 残念そうに眉尻を下げたアリスタの手で、ほっそりした靴は下げられてゆく。


 テーブルに置かれたティーカップに手を伸ばしながら、わたしは冗談めかして口を開いた。


「それにしても、近頃の科学の発達は目覚ましいわね。紅茶をたった三ヶ月で運んでくる茶葉輸送船ティークリッパーが現れるなんて! 年々、速くなってく。いつか、一週間で届くようになったりして」


 ノワゼット公爵から贈られたダージリンは、最新式の茶葉輸送船ティークリッパーがつい先日、王都に届けたばかりの一番摘みの新茶ファーストフラッシュだ。

 新茶独特のマスカットのような爽やかな香りが、雨の匂いと混じる。

 

 わたしの軽口に、侍女たちは声をあげて笑った。


「そうなったら素敵ですけど、一週間はどうやったって無理でしょう」

「空を飛ぶ乗り物でもできない限りはね」


 そんなまさか、とみんなで笑い合う。

 

 こんこん、とリズム感の良いノックの音が室内に響いた。


 アナベルが手を伸ばして開けた扉の向こう。

 ブランシュが、にっこり笑って立っていた。その後ろでは、いつも姉に付き従う美しい五人の侍女がアルカイックに微笑んでいる。


「おかえりなさい! ブランシュ!」


 社交界からひっぱりだこで多忙なブランシュは、友人宅で開かれるチャリティーランチパーティーに出かけていた。いつの間にか戻っていたらしい。

 夏らしいミントグリーンの爽やかなドレスを纏った姉は、そのきれいな瞳の色と相まって、初夏の精みたい。


 わたしをぎゅっとハグしてから、ブランシュははしゃいだ声をあげる。


「ただいま! どう? リリアーナ! 用意はできた? 『ブルームーン』のカヌレをお土産にもらったの。出掛ける前に一緒に食べましょうよ」


 長椅子に腰掛けたブランシュは、青い小花模様のティーカップを優美な手つきで持ち上げながら、うっとりとため息をついた。


「婚約指輪を二人で選ぶ……! ああ、ロマンチックねぇ。リリアーナに似合うのはやっぱりダイヤモンドかしら? でも、サファイヤやルビーもきっと似合うわね」


 わたしの自慢の姉にして、月と太陽すら霞ませる美女と揶揄されるブランシュは、夏の盛りでも氷で冷やした飲み物を嗜まない。

 身体を内から冷やすのは美容によくないらしい。『社交界の華』として、流行を牽引するには一朝一夕には成らぬ、たゆまぬ努力の積み重ねが必要なのよ、と彼女は言う。


「ブランシュ、雨に会わなかった? かなり降って来たわね……ウェイン卿、大丈夫かしら……?」


 硝子窓をぱたぱたと鳴らす水滴に物憂げな視線を向ける。ブランシュは呆れたように微笑んだ。


「リリアーナったら、そわそわしっぱなしじゃない。そんなに心配しなくても、それほど大雨じゃないし大丈夫でしょう? ちゃんとウェイン卿は来てくれるわよ。――ねえ、アフトン卿、マッキンレー卿?」


 扉の向こう、廊下に控えている二人の護衛騎士に向かってブランシュが問いかけた。騎士達の穏やかな声が届く。


「はい。この程度の雨、日頃から鍛えている騎士にはどうってことありません」

「大嵐の中だって、ウェイン卿は仕事を終えたら喜んで来ますよ」


 ゆりかごから墓場まで、ずっと独りぼっちだろうと諦めていたわたしと婚約していただいてから、はや一月。


 ウェイン卿の素敵さは、日毎に増すように思う。


 本当に、こんなわたしで良かったの? 

 夢オチやどっきりの可能性もいまだ捨てきれない。


「このドレスで、大丈夫だと思う?」


 着替えたばかりの紺色のドレスを見下ろして、流行の牽引者たる姉に問う。


 ブランシュは大きな碧い瞳を薄く細めて、ゆったりと微笑んだ。


「もちろん、いつも通り最高に可愛いわ。ドレスの色は落ち着いているけど、胸元のパールと裾の刺繍がリリアーナの可憐さを引き立てて、非の打ち所なし。メリルの腕も素晴らしいわねえ。薔薇から生まれた精みたいよ」


 この優しい姉ときたら、いつだって身内の欲目満載なのだ。それがわかっていて、褒め言葉を期待して、つい訊いてしまう。

 ブランシュは、続けてうふふ、と茶目っ気たっぷりに笑う。


「いいわねぇ。初々しいわねぇ。綺麗だと思ってもらいたいのね。心配しなくても、ウェイン卿は、いついかなる時も、あなたしか目に入らないと思うわよ。直接訊いてご覧なさい」


「……訊けるわけない」


 なにしろ、ウェイン卿は、素敵な上に大人で完璧なのだ。

 口を尖らせた瞬間、いつの間にか窓辺に移動したアナベルが口を開く。


「ウェイン卿、お見えになったようですよ」


 駆け寄った窓から、騎馬に跨って伯爵邸の門をくぐるウェイン卿の姿が見えた。


 胸の高鳴りとともに、陰鬱な景色は姿を変える。

 さんさんと降る雨音は空が奏でる歌のよう。きらめく宝石のような水滴に、緑の木々や花々は鮮やかに色づく。


 景色の中にその人がいるというだけで、世界は美しい色に変わってゆく。



 相も変わらず、途方もなく、わたしは恋に落ちている。




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