第2話 雨と恋ー01

「ああ、なんてこと……」


 あの日、侍女の一人、アリスタ・グレイは悲壮な声をあげた。


 よく磨かれたガラス窓の向こうで、灰色の雲が晴れた空をみるみる覆ってゆく。


 アリスタはふんわりしたくるみ色のポニーテールをひと振りし、若草色の大きな瞳をわたしの纏うドレスに移す。


「リリアーナさま……! どうしましょう」


 彼女を色で表すとすれば、「スプリンググリーン」がぴったりだ。

 春のように明るく、心身ともにのびやか。


 続けて、同じく侍女のペネループとメリルが、悲しげに片手で口許を覆った。


「嘘でしょ……神様……」

「ひどいわ……あんまりよ……」



 瞬間、ガラス窓を、水の粒がぱたぱたっと叩く。

 まるで、いたずら好きの雨の妖精が、無力な人間たちをからかっているみたい。


 ここは、一年でもっとも暑い季節を迎えたローゼンダールの王都西部にある、ロンサール伯爵邸内のわたしの部屋。


 身に付けているのは、白いチュールレースをふんだんに使った丈の長いドレス。踵の高い繊細なサテン靴。


 見下ろして、わたしは眉を寄せて呟いた。


「……雨……? ってことは……?」


 


 午前中は、淑女教育を受けた。


 ウェイン卿の隣に立つに恥ずかしくない淑女として次の社交シーズンを迎えられるよう、特にダンス、語学、音楽の三つに力を入れて教わっている。


 なにしろ、わたしの婚約者は素晴らしい。

「完璧」という単語を辞書で引いたとき、「ウェイン卿」と載っていてなんら不思議はない。それくらい素晴らしい。

 わたしもがんばらねば、と決意する次第である。


 レッスンを終え、侍女たちと簡単な昼食を取ってから、出掛ける準備にとりかかった。


 今日という特別な日のため、昨日、選びに選んだドレス――――。




「絹の艶のあるベビーピンク、よくお似合いです。バラのシフォンの具合も上品ですし」


 着替えの手伝いをしてくれながら、ペネループが魔法使いのように器用な手付きで、上半身の余った布の部分に印を付けてゆく。

 たんぽぽ色の髪はきちんとまとめられ、細い体はお仕着せに包まれている。


 三歳のジェームスの母になる前はお針子をしていたという彼女のイメージは、その瞳の色と同じ「ライラックパープル」。

 ピュアで繊細そうな見た目、その内に秘めたる情熱。


「けど……ちょっと幼く見えないかしらね?」


 鏡の前でくるりと回ってみる。

 なにしろ、ウェイン卿は大人の男性である。


 ランブラーとブランシュが用意してくれたドレスはどれも上品だ。

 クローゼットは、女の子なら誰でも憧れる優しいシャーベットカラーのドレスで溢れている。見ているだけで、心は弾む。


 しかし、それを身に纏うとなると話は別だ。

 

 馴染みのない色は、どうして心を落ち着かなくさせるんだろう?

 

 女の子はきっと、多かれ少なかれ、自意識過剰なのだ。

 道行くほとんどの人が、わたしが何を着ていようと、気にも止めないってことは、当然わかっている。


 ふうむ……と言いたげに眉を寄せ、侍女のひとり、ニコールがわたしの全身を眺める。


 五歳のジュリアを産む前まで貴族のお屋敷で家庭教師をしていたニコールは、さっきまでわたしに外国語を教えてくれていた。


 彼女は幼い頃、亡くなったお父さまのお仕事の関係で外国に暮らしていたらしい。茶葉や胡椒の産地として知られる赤道直下の国で暮らしたこともあるという。

 マリーゴールドの髪に勿忘草色の瞳。

 けれど、彼女のイメージカラーは、「スカーレット」だ。目から鼻に抜ける、凛とした聡明さ。


「次のドレス、着てみましょう? 伯爵様とレディ・ブランシュが山ほど用意してくださったのに、袖を通していないまっさらのドレスがたっぷりあるんですから」


 心なしか弾む侍女たちの声に後押しされ、脱いでは着た。彼女たちに手伝ってもらいながら、着替え倒した。

 わたしが選んだ落ち着いた紺色のドレスは、「季節感に乏しいですわ」と声を揃えた侍女たちによって一刀両断された。


 クリームイエローのエンパイアドレスは露出が多すぎて。

 ラベンダーピンクのスリーブドレスは艶っぽすぎて。

 ブロンドベージュのアンティークレースを使ったクラシックドレスは華やかすぎて。

 ライムグリーンのマーメイドドレス、セルストブルーのシルクジョーゼット……どれも素敵ではあったが、ことごとく退けられてゆく。


 結果。


 胸元はペールブルーのサテン地に白い薔薇のシフォンがあしらわれ、すとんと落ちたスカート部分にはチュールがたっぷりあしらわれたロングドレスに選んだ――わけだが……。


 メリルが悲痛な声で叫ぶ。


「雨ってことは……泥が跳ねるわ……!」


 つまり、シャーベットカラーのドレスは着られない。帰るころには、裾は泥まみれ。悲しい結末となることは明らか。


 八歳のホープを産むまでは髪結いの店で働いていたというメリルの印象は、「カナリアンイエロー」だ。

 南から吹く風や花を思わせる、逞しさ。彼女のエメラルドグリーンの瞳はいつも活き活きと輝いている。


 今日は、わたしの髪を丁寧に編み込んで横に流し、白薔薇の生花を使って上品に仕上げてくれた。


 雨音はますます激しくなる。


 ローゼンダールの夏は短い。

 貴重な太陽の季節を思いきり堪能するため、社交シーズンを早めに切り上げ、バカンスを兼ねて一足早く南の領地に戻る貴族もいる。


 夏期でも、王都ではこうして雨の降る日は少し肌寒く感じる。

 雨が降ろうと風が吹こうと、夏はとにかく暑い! って場所も世界には数多くあるらしい。羨ましい。


「……ウェイン卿、濡れないかしら……? きっと馬で来られるわよね? 心配だわ、風邪を引くかも」


 言った途端、アリスタ、ペネループ、メリル、ニコールの四人は揃って首を横に振った。


「ウェイン卿ですか……そりゃあお気の毒ではありますけど」


「リリアーナ様のそのドレス姿を見られないなんて」


「その完璧なドレス……!」


「『羞月閉下、珍魚落雁』を地で行くお美しさなのに……」


 侍女たちの大げさな台詞に、ワゴンの上に紅茶の用意をしてくれているアナベルと視線を合わせて微笑み合う。


 アナベルは隣国の元騎士。


 彼女を色で表すのは、ちょっと難しい。

 透明に近い「ターコイズブルー」のようであり、「ウォーターグリーン」のようでもある。

 射す光によって、色を変える海。


 冷静さと、ひたむきさの混在。




 彼女に再会できたのは、まったくの偶然だった。けれど、今ではまるで天恵のように思える。



「気になるな……」


 きっかけは、二週間ほど前の朝食の席。

 風薫る庭園のテラスで、ランブラーが物憂げに呟いたのだ。


 紅茶のお代わりを淹れてくれていたメイドのアンヌが、ほうっとため息をついた。「そんなお顔もすてき……」と心の声を小さく漏らす。

 メイドたちのこういった反応は、ランブラーがどんな表情をしていても毎度のことなのでスルーして、ブランシュとわたしは物思いにふける従兄に問いかけた。


「どうかされました?」

「何か悩み事ですか? お従兄様」


 ちょうど五月だった。五月の病を甘く見てはいけない。何もやる気がなくなり、本を読んでも気もそぞろ、何を食べても無感動、お風呂にはいることすら億劫になる恐ろしい病だと言う。


 もしやそれに罹ったのかと心配になるほど思い悩んだ様子で、ランブラーは真面目な声を出す。


「リリアーナの私物が、とにかく少なすぎるように思うんだ」


 はあ、とわたしは首を傾げた。


「言えてる」とブランシュも眉をひそめた。


「僕は考えた。リリアーナが見ているだけで胸が高鳴り、囲まれるだけで幸せな気分になれる。そういう類いのものが、リリアーナの部屋には圧倒的に欠けているんじゃないかと」


 ランブラーは難しい哲学の本を読んでいるかのように眉をひそめて首を横に振った。

 紅茶のカップを手に取りながら、わたしは否定する。


「そんなことありません。この前だって、ドレスと靴をたくさん注文してくださったでしょう? どれも素敵でした。充分過ぎます」


「あれは僕とブランシュが勝手に選んで買ったやつだし、実際、君はほとんどそれを着ていないじゃないか」


 とても悲しそうな声で、ランブラーは言った。ああなるほど、とブランシュが頷いた。

 わたしは慌てて首を横に振った。


「そんなことありません。どれも気に入っていますし、少しずつ着るつもりでいます。それに、見ているだけで心がときめく私物なら、もうたくさんありますから」


「例えば?」


 ランブラーに問われて、わたしは少し考える。


「そうですねぇ……」


 ランブラーとブランシュが、揃って真面目な顔をしてこっちを見ている。

 わたしは自信満々に胸をはった。

 

「ウェイン卿にいただいたチョコレートの空き箱ですとか、クッキーの空き缶、その包装紙ですとか、リボンも大切に保管していますし、いただいた花束はしおれる直前に全て、押し花にして栞に――」


 想いを確かめ合って、もう二週間。うきうきと思いを馳せながら顔を上げると、『白馬の王子さま』と称される従兄と『社交界の華』と称される姉の顔が、揃って「うへえ」になっていた。


 もらった花を全て押し花にしてしまうのは、やはり少しやり過ぎだったかもしれない。これからはポプリにしよう。


 なぜか、重苦しい沈黙が落ちた。

 とても神妙な顔で、ランブラーが口を開いてそれを破る。


「それについては、よくわかっているんだ。そんなところがリリアーナの良いところであり、金銭的価値が物の価値を決めるわけじゃない。だけど、何ていうかこう……苦労ばかりかけた娘を早くに嫁にやる羽目になったお父さん、的な気持ちになってたまらなくなくなるんだ。……リリアーナ、とりあえず僕が最後の楽しみに取っておいたアスパラガスを貰ってくれ」


 ブランシュもまた、しんみりと言う。


「こうなったのには、わたしにも責任があるわ。……リリアーナ、わたしの塩漬けニシンもあげる」


 アスパラもニシンもとくに食べたい気分ではなかったが、それを断るには二人の纏う空気が湿っぽ過ぎた。

 わたしの皿に移動してきた彼らの好物を、礼を言ってもぐもぐ咀嚼する。


 ランブラーが、ひどく思い詰めた様子で口を開いた。


「……買い物に、行くべきだと思う」


 はあ、とわたしは曖昧に頷いた。

 ブランシュが厳しい目をして、毅然と口を開いた。


「ええ――行って来なさい。わたしは今日、先約があってどうしても一緒に行けないけれど、欲望の赴くままに、お従兄さまにねだってくるのよ。そして、お従兄さまの感傷を打ち払ってあげて、リリアーナ」



 そんなわけで、ランブラーと一緒に馬車に乗って買い物に出かけた。

 向かう先は、気後れするほど洗練されたブティックや雑貨店の並ぶオペラ通り。


 途中、何気なく目にした揺れる車窓の向こう、――彼女はいた。風に流れる、銀の髪。


 はっとして、身を乗り出した。


「どうした? リリアーナ」


 ランブラーの問いかけには答えず、わたしは馭者席に向かって叫んだ。


「止めて!」


 船を降りたあの日。

 レオンやアナベルとの、永い別れのはじまり。

 

 ――だと思っていたのに。


 街路樹の下、木漏れ日を弾く銀の髪。首から下は深緑の外套に包まれているけれど、あのシルエット。

 目を凝らして、よく見て――やっぱり、


「――アナベルっ!!」


 気付いた時には、大声で叫んでいた。


 止めてもらった馬車から、急いで降りて、走った。全力で。

 緑に茂る欅の葉を見上げていたアナベルは、こちらを見た。光の加減で深みを変える、海のような瞳。

 息を切らせて、わたしは確かめるように言った。


「アナベル……久しぶりね」


 目が合った瞬間、たとえようのないほど、ほっとした。


 気の迷いのような話、欅の前に佇むアナベルは、蜃気楼のようだった。


 ――近づいたら、手が届く前に消えてしまうんじゃないかしら?



「……こんにちは、令嬢」


 落ち着いた声。涼しげな目元。

 船上で、船酔いで寝込んだわたしを付きっきりで看病してくれた。ずっと傍にいてくれて、頼りにしていた、アナベル。

 華奢な身体。化粧気のない透明な肌。後ろでひとつにくくった銀の髪。相変わらず、彼女はきれいだった。


「アナベル……会えて嬉しい……!」


「リリアーナのお知り合い? 馬車に乗ってもらったら?」


 後から降りて来たランブラーが、何か察したような顔でそう言った。

 オペラ通りにほど近い、人通りの多い道。視線を周囲に巡らせ、ほんの数秒考える素振りを見せてから、アナベルは頷いた。



「――みんな、元気にやってます」


 馬車の中で、アナベルはランブラーに向かって淡々と自己紹介をした。

 ロウブリッターの仲間、と聞いても、ランブラーは「へえ」と眉を軽く上げただけだった。


 レオンやプファウら船の人たちは、やり残したことがあるとかで、一旦、別行動しているらしい。


「いつもだいたいこんな感じなので。皆、適当にやってると思います」と軽く言う。


「ノワゼット公爵は、君らを雇いたがっているよ。どうする?」


 ランブラーが優しい声で問いかけると、長い銀の睫毛を一度だけ瞬かせたアナベルは、迷いなく首を横に振った。


「折角ですが、お気持ちだけ」


 ふむ、とランブラーは考える素振りをした。


「それじゃ、もし良かったら、うちで働かない? ちょうど、リリアーナの侍女を探してるんだけど」

 

 こういうとき、この従兄は、わたしの心が読めるんじゃないかと思う。

 ここぞという場面で、自分でも気付かないようなわたしの願いの正鵠を射てくれる。ニコール達を屋敷に雇い入れてくれたときもそうだった。

 アナベルは今度は、少し迷う素振りを見せた。銀の睫毛を瞬かせるだび、海色の虹彩が揺れる。


「……令嬢の、侍女ですか」


 駄目押しとばかり、わたしは両手を胸の前で組んだ。


「お願い。わたし、人見知りが激しくて、人付き合いが苦手なの。アナベルが傍にいてくれたら、嬉しい」


 アナベルは顔を上げて、そっと微笑んだ。


「私、ここに長居するつもりはなくて――」


「大丈夫! いられる間だけでいいから!」


「うん、ぜひ。なにしろ君、リリアーナの友人だし、腕も立つんだろう?」


 ランブラーが「雨上がりの晴れ空にかかる虹のよう」と侍女たちから形容される微笑を浮かべて畳み掛けると、アナベルの海色の瞳と珊瑚色の唇は、柔らかな弧を描いた。


「剣の腕でしたら、貴国の王宮騎士にも引けを取らない、と自負しております」


 ランブラーが、「そりゃ最高だね!」と破顔した。


 アナベルは「ここにいる間だけでよければ」と頷いた。




「じゃあ、アナベルがいいって言うまで、このことはわたしたちの秘密ね」


 屋敷に戻ると、一目でアナベルを気に入った様子のブランシュが、悪戯っぽく囁いた。


 ――それで、わたしたちの方針は決まった。


 ウェイン卿や第二騎士団の皆様には申し訳ないが、アナベルは大事な友人。

 本人が言わないで欲しいと言っている間は、秘密は固く守ろう。


 ……でもって、あとで、よく謝ろう。


 うん。

 

 

 


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