第1話 レイモンド
漆黒の空に貼りつく、血の色の月。
生ぬるい風に吹かれて、消えていく灯火。
――生きて……。
遠く、遠く。
逃げなさい。
誰にも傷つけられないところまで。
もう二度と、会えなくてもいい。
神様――そんなものいないなら、悪魔だって、誰でもいい。
何でもいいから、あの子を生かして。
私は、何もいらない。
この命も、未来も、世界も――
――ぜんぶ、あなたにあげるから。
§
なつのおわり。
しゃこうシーズンがおわる。
くにじゅうのきぞくが、『おうと』から『りょうち』へもどる。
しょうじきなところ、ぼくはいま、ちょっとつかれている。
しゃりんのまわるおとって、かいじゅうのこえみたい。
まどのそと、うしろにながれるけしきは、もうずっとおんなじ。みどり、きみどり、ふかみどり。
まったく、つまらない。
せめて、うまにのりたかった。
だけど、きっと「だめ」っていわれる。
ぼくのさいだいのふこうは、『こうしゃくけ』にうまれたことだ。
ためいきをすこしずつ、ゆっくりこぼす。
「ねえ、あとどのくらい?」
「うん、そうだねえ、……もうすぐ、夜になるけど、おじいさまの領地まで、あと三時間ってところだ。休まずに一気に行ってしまおう」
いいながら、おとうさまはポケットからきんいろのかいちゅうどけいをとりだした。
おとうさまのこえは、いつもおひさまのようにやさしい。だけど、それはぼくを『ぜつぼう』させるのに、じゅうぶんだった。
「さ、さんじかん……!」
それって、ひゃくをなんかいかぞえるくらいだよ?
みぎほうこう。つきささるような、つめたいしせん。
しまった。
とたん、おなかのあたりが、きゅっとなる。
おかあさまは、おおきなためいきをついた。『これみよがし』なやつ。これはそうとう、きげんがわるい。
「レイモンド、何度も同じことを聞かないで。しゃんと背をのばして、お行儀よく窓の外でも見ていなさい」
いいながら、おかあさまは、おとうさまをみる。
「あなた、暗くなってきたわ。大丈夫かしら?」
「大丈夫さ。日没までには、山道をぬけられる」
ならいいけれど――、とこたえるおかあさまのかおは、すこしもよさそうじゃない。
「向こうを発つのが、遅すぎたかしらね?」
「大丈夫。ほら、有能な騎士たちが一緒だ。この僕もいるしね」
さいごのほう、むねをたたいてじょうだんみたいなちょうしでいった。
ずっとすわりっぱなしで、おしりがいたいな。
あしを、ぴょんぴょんはねさせる(こうすると、あたらしいくつが、ピカピカひかってみえる)。
おかあさまの、こおりみたいなよこがおをみあげる。
こおりみたいな、というのは、もののたとえってやつ。
おかあさまのひとみのいろは、ぼくとおなじ、「どんぐり」のいろだ。
でも、こおってみえる。ふしぎだね。
「ねえ、おかあさま、おそとのけしき、もうずっとおんなじだね。おかあさまは、さんじかんって、すこしにかんじる? ぼく、さんじかんはすごーく、ながいな。五さいだからかな? おとうさま、おかあさま、こどものとき、そうだった? それとも、おとなになると、こどものときのこと、きれいさっぱりわすれちゃう? だって――」
あ、また。
しまった、しゃべりすぎ――とちゅうできづいたけど、とめられない。
どうしてかな?
かってに、ことばがあふれてきちゃう。
ふたしなきゃ、っておもうのに。
おかあさまのせなかが、すっとのびる。
こおりのひとみが、すうっとほそくなる。
ひんやり、くうきがつめたくなる。
「レイモンド、くだらない駄々をこねても結果は変わりません。そんなことでは、公爵家の立派な跡継ぎになれなくってよ」
だだをこねたんじゃない、ただ、おしゃべりしたいだけ。
だけど、くちをひらくと、またしゃべりすぎちゃう。
だから、ぎゅっとくちびるをかんだ。
「まあまあ。レイモンドが退屈なのは当たり前だよ。景色が代わり映えしないのも本当だ。――そうだ、キャンディでも舐めるかい? 時間がなくて、休憩はとってあげられないから。これで我慢できるかな?」
ポケットからでてきた、おとうさまのてのひら。ちいさくてまるい、ぎんいろのつつみがみにてをのばして、ぼくはうなずいた。
「あなた、レイモンドを甘やかし過ぎですわ。レイモンド、足をそんなふうに跳ねさせないで。ちゃんと背を伸ばして。キャンディをいただくときは、ちゃんと口を――」
「まあまあ、いいじゃないか――」
なにかいいかけたおとうさまを、おかあさまは、じろっとにらむ。
あごをあげて、こおりのめをむけられると、だれも、なんにもいえなくなっちゃう。
おかあさまのひとみには、ふゆのじょおうの『まほう』がかけられている。
にらまれたら、つまさきからじゅんばんに、みるみるつめたくなる。そして、おなかのあたりが、ぎゅーってくるしくなるの。
おとうさまは、まゆをさげて、ぼくにウィンクであいずをおくる。
「おかあさまのごきげんを、そこねないようにしよう」っていみだ。
りんごあじのキャンディをしたでころがして、ぼくはうなずきかえす。
――おかあさまのせなかときたら、ジョウギでもはいっているみたい。
せんしゅう、おうとのやしきでひらかれた、おかあさまのたんじょうパーティをおもいだす。
――「すてきな演奏を、お母さまにプレゼントいたしましょう。きっと喜ばれますよ」
せんせいは、そうおっしゃった。
ほんとう? おかあさま、よろこぶかな。
――「もちろん、喜ばれるに決まっていますとも!」
……そうかあ。
おかあさまのすきなきょく。「あめのよるのフォアシュピール さんばん」。
ためしにちょっと、そうぞうしてみた。
えんそうをおえると、おかあさまは、ほこらしくわらっている。
――「とてもじょうずねぇ、えらいわ、レイモンド」
おかあさまは、ぼくをだきあげて、ひざのうえにのせる。
あたまをなでて、ほっぺにキスする。
よそのママが、そうするみたいに。
がらにもなくワクワクした。たくさんたくさん、れんしゅうしたんだよ。
――「完璧ですわ!」
ピアノのせんせいは、むねをはって、そういった。
ほんばん。
ピアノのまえにすわるぼくにそそがれる、たくさんのめ。
でだしは、いいかんじだった。
ひだりのゆびをのばすのが、ちょっとおくれた。おとがとぶ。
どきん、とむねがなる。
――「もちろん、お喜びになるに決まっていますとも!」
ほんとうかな?
ちらっとおかあさまのほうをみた。
おかあさまのかお――
――こおりみたい。
――「レイモンド、ちゃんと練習したの? 努力が足りなかったのではなくて? お客様の前で、あんなふうに間違えるなんて、恥ずかしい――」
おかあさまのこえって、こおりみたい。
おかあさまのよこがおをみあげる。
いまとなってはもう、ぼくには、はっきりわかっている。
まちがいがおきた。
――コウノトリめ。
はいたつするいえを、まちがえたな――――
ぎょしゃのハインツのいるほうから、「ぐうっ」てこえがきこえた――ハインツはうでのいいぎょしゃだって、おとうさまが、いつもいっている。
うまが、ひめいをあげた。ぼくのからだは、おおきくゆれる。
からだが、はねあがってういた――とたんに、だれかにぎゅっとかかえられた。
おどろいたことにそれは、おかあさまだった。
なんどか、おおきくゆれた。
で、ばしゃはおちた。ごろんごろん。ボールみたい。
キャリッジのなかをおちたり、ういたり、ぶつかったり。おなかのあたりがふわふわとした。
おとうさまが「つかまれ!」ってさけんでいた。
おかあさまは、ただ、ぎゅうってぼくをだきしめた。それはつよすぎて、ちょっとくるしかった。けど、ふしぎとこわくはなかった。
とてもながいあいだ、それはつづいた。
おおきなおとがして、からだがとびはねる。おちるのは、おわったみたい。
ばしゃは、さかさまになっていた。ドアがあったところは、くうどうになってる。
ドア、おとしちゃったのかな。だいじょうぶかな?
これじゃ、りょうちまでいけないんじゃないかな?
みつかるといいけど。
おとうさま、あしをいたそうにひきずってる。けがしたの? だいじょうぶ?
ぼくは、まだ、おかあさまのうでのなかにいた。おかあさまの、いつもきっちりまとめているおぐしはバラバラにみだれていた。
ドアがあったあなから、おかあさまにつよくだかれて、そとにでた。
ざざ……っ
おとがして、うえをみる。
くろいふくをきた「きし」たちが、つちけむりをたてながら、がけをすべりおりてくる。ひらひらと、くろいマントがひるがえってる。
わあ、「きし」はやっぱり、かっこいい。
だけど、うちの「きし」じゃないな。
うちの「きし」は、どこにいるんだろう? ついさっき、ばしゃのよこで、うまにまたがっていたのに。
「くろたか……?」と、おかあさまが、ぼくのみみもとで、いきをはくみたいにいった。
「なぜ……?」
ひくいこえで、おとうさまがいう。
くろいきし。くらいもりで、きらきらひかってる、ぎんいろのけん。
「――にげろ!」
おとうさまが、おおきなこえをだした。
おかあさまが、ぼくをだきしめたままかけだす。
「おとうさまは?」
おかあさまは、こたえてくれない。はっ、はっという、みじかいいきをするおとだけが、みみもとできこえる。
おかあさまのかたごしに、みえた。
おとうさまが、くろいきしに、なにかさけんでる。てをひろげて、とうせんぼしてる。
おとうさまのせなか。ぎんいろがひかって、きえた。
「おとうさま、すわっちゃったよ」
ふりかえったおかあさまが、ああ、とちいさく、いきをはいた。
くろいきしたちが、ぼくとおかあさまを、おいかけてくる。
あのきしたち、まるでかぜみたいだ。はやいなぁ。
おかあさまは、うしろをふりかえって、さけんだ。
「いきるのよ! レイモンド!」
ぼくのからだは、ほうりなげられた。
いつも、こおりみたいなひとみは、まっかだった。あかいなみだ。
くだりざかを、ずるずるすべる。
うしろをみて、いっしょうけんめい、くびをのばす。
どこまでも、ぼくのからだはすべってく。
ざっそうのむこう、あかいつき。おかあさまのこえ。
「おねがいっ! おねがい! おねが――」
ざしゅっ。
ぱっと――あかいものがみえた。なにかはじけたみたい。
どうして、あのひとたち、ぼくたちをおいかけてくるんだろう?
おとうさま。おかあさま。
だれかよんでくるからね。
ざっそうをかきわけて、すすむ。
うすいはっぱのさきが、かおにあたってチクチクする。
たくさんのあしあとが、かぜといっしょにおいかけてくる。
……ゆめにしては、おかしいな?
ゆめではたいてい、へびかオバケがおいかけてくる。「きし」ってパターンは、はじめてだ。
なんにしても、はやくあさになってほしい。
シャツのそでに、えだがひっかかった。のどからとびだしかけたこえを、なみだといっしょにのみこむ。
おそるおそる、うでにふれた。てのひらが、ぬるっとした。
いちど、たちどまる。
ぎゅっと、めをとじた。
ひらいたら、じぶんのへやのてんじょうがあるにちがいない。
そっと、すこしずつ、まぶたをひらく。ほら、だいじょうぶ――
ここは――
まっくらだ。くろいもり。あかいつき。ひとりぼっち。
ううっと、こえがもれた。
でも、はしった。とにかく、はしった。
せなかが、ひりひりする。さっき、がけからおちて、すりむいたんだ。ちがでてるかな? くらくてみえないけど、でてないといいなあ。ちがでてたら、ぼくはもう、なくのをがまんできそうにない。
はしりながら、あしのうらがいたいことにきづく。
くつ、かたっぽ、なくしちゃった。
はやくはしれるまほう、きしにかけてもらったのに。
ぬるいかぜが、ほっぺたにあたる。ひりひりする。りょうてでごしごしふくと、もっとひりひりした。
――ザアザア。
聞こえる……。
みずのおとだ。あっちのほう。
ちかづくと、みずが、いきおいよくながれていた。
いわのうえにひざをつく。ひやっとつめたい。
まえのめりになって、てをのばし、みずをすくって、くちをつけた。
じょうずにすくえなかったけど、つめたいみずがすこしくちびるにふれる。
なんどもすくって、なんとかすこし、つめたいみずがのめた。
おいかけてくるあしおとは、もうきこえない。
いわのうえにすわって、おそらをみあげた。
――ねえ、おつきさま? どっちにいけば、いいですか?
くろいはっぱが、かぜにゆれる。ざわざわ。けものたちのいきづかい。
あついのに、さむいみたい。
おかしいな。これ、ほんとうにゆめじゃないの?
きもちわるいな。はきそうだ。
どうしよう――
…………そうだ……。
かわにそって、やまをおりるのはどうだろう?
みずは、したにながれる。つたっていけば、やまをおりられる?
よし……いいかんがえ!
そうっと、ようじんしながら、くろくひかるいしを、つたっておりる。
――あっ、
ひだりあしが、ぬれたいしをふんで、つるりとすべった。
みぎあし。ふんばらなきゃ。――いたい。うまくふんばれない。こっちも、つるり。あ、あ――
おちる――――――
――とぷん。
つめたい。
こぷこぷっと、みみのおくがなる。
くちに、はなに、のどに、みずがはいってくる。まっくらだなぁ。なにもみえない。
こまったなあ。
ぼく、およげないのに。
ごめんなさい…………
ぼく、たすけをよべなかった。
あのね、
――だいすきだったよ、
やさしい、おとうさまと……それから、
おかあさまの、こおりみたいにきれいなひとみ――――
§
「ブランシュ、リリアーナ、この夏は旅行がてら、ストランドまで行ってみない? 僕、まとまった休みが取れそうなんだ」
ロンサール伯爵邸での夕食の最中。
従兄のランブラーが、ちょっとした思いつきを口にしたような軽い感じで切り出した。
クリスタルのシャンデリアが、染みひとつない純白のクロスがかけられた長いテーブルを真昼のように明るく照らす。
目の前の白磁の皿の上。
彩りよく盛り付けられたパイ包み焼きにさくっと銀のナイフを入れる。
鱈と青菜とマッシュポテトが覗く美しい断面から、とろりとチーズが流れ出てホワイトソースと混じった。ほのかに立ち上る湯気。
うちの料理長の腕前ときたら、相変わらず罪作りなほど最高だ。
ブランシュの隣では、アラン・ノワゼット公爵が冷たいシャブリで満たされたグラスを優雅な仕草で傾けている。
ランブラーの言葉を受けて、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「それはいい。僕ら第二騎士団はこの夏、陛下の巡行に同行の任を仰せつかってる。一月もの間、王都を離れなきゃならない。
その間、羽を伸ばしてくるといい。ストランドは山も湖もある。あくせくした王都にいるよりも、ずっとゆっくりできるよ」
ランブラーの隣で、ウィリアム・ロブ卿が深遠な宇宙を思わせる黒い瞳を柔らかく細める。
「社交シーズンもそろそろ終わりますしね。ゆっくり休暇を満喫していらしてください」
わたしの隣では、ウェイン卿が赤い瞳を細め、優しくわたしに微笑みかける。
「ストランドまでの道中は
白銀の前髪の向こうに深く刻まれていた眉間のシワは、ここのところめっきり見かけない。
ウェイン卿とわたしは、春の終わりに婚約した。まだ口約束の段階だけど。
正式な発表は、次の社交シーズンの初め、冬祭りの頃に行う予定だ。
ああまったく、なんということでしょう。
永遠の片想いのはずだったのに。
最近、「素敵」という文字を見ると、うっかり「ウェイン卿」と読んじゃうほど素敵な人が、このわたしを好きですって?
これを奇跡と言わず、何と言おう?
以来、ロンサール邸に居る時は、ウェイン卿もこうして同じテーブルに着く。わたしの隣の席で、微笑みかけてくれる。ああ!
――しあわせだ。
ストランド行きを打診されたブランシュの碧い瞳は、ゆっくりと柔らかな弧を描く。わたしに向けられるそれは、無言で語る。
――ほうらね、やっぱり。言ったとおりになったでしょう?
口をつけたグラスを、たっぷり時間をかけてテーブルに戻してから、ブランシュはゆっくり美しい唇を開いた。
「――ふぅん、ストランド、ねえ……、そうね、とっても楽しみ。ね、リリアーナ」
ごく軽い調子で言われて、わたしも頷く。
「そうね、ブランシュ。わたしも、とても楽しみです」
言った途端、どこか緊張した面持ちでブランシュとわたしの顔を見比べていた四人の男性は、揃って小さく息をつく。
ほんの一瞬、さりげなく視線を合わせたかと思うと、僅かに頷き合っている。
パイのサクサク感、鱈の甘み、青菜のさっぱり感、マッシュポテトのとろみ、チーズの旨味が混じり合い、舌の上で溶け合う。
まったく、生きることは素晴らしい。
口許を緩ませながら、わたしは考える。
――さて、
どうして、ランブラー、ノワゼット公爵、ロブ卿、そしてウェイン卿の四人は、ブランシュとわたしを遠いストランドに行かせたいのかしら――?
理由のひとつとして思い当たるのは、やっぱり、あれだろう。
先週、ブランシュの馬車が襲われたのだ。
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