第73話 宝石箱
そして、侍女達に促され、今いるのはブランシュの部屋。
白い家具とラベンダーピンクを基調とした上質なファブリックで纏められた室内は、ブランシュお気に入りのフレグランスが仄かに薫る。ヘリオトロープ、ミモザ、ローズ、アンバー、モス、バニラなどの香りが淡く合わさり、優しい虹色を思わせる素敵な香りだ。
「……わあ……これはまた、ごっそりやられたね」
穏やかな甘い香りに包まれながら、目の前にあるのは、ブランシュの宝石箱。
壮麗なハープ模様の施された、美しい真鍮製のそれは、上質なウィルトン織の絨毯の上で空っぽの口を大きく開け、ころんと横を向いて寝転がっていた。
――正真正銘、空っぽ。
中にぎっしり詰まっていた筈の、煌びやかな輝きを放つ石たちは、ひとつ残らず、消え失せている。
傍らに片膝をつき、目を丸くして、宝石箱の身の上に降りかかった悲劇を確認していたランブラーが、振り向いて、気遣わし気な眼差しをブランシュに向けた。
「ブランシュ、大丈夫かい? 買い直せるものは買い直したら良いけど、金には換えられない大事なものがあったんじゃないか?」
ブランシュは顎に指を当てながら、思い起こすみたいに視線を上に泳がせた。
その表情はケロリとして、ショックを受け、悲しんでいる様子は見受けられなくて、安心する。
「ええ、わたしは大丈夫ですわ。……そうですね、お母様の形見のペンダントと、ノワゼット公爵からいただいた首飾り以外は、特に思い入れのあるものはありませんでした。まあでも、母の形見なら、他にも沢山ありますし――」
ノワゼット公爵がブランシュの肩に向かって、慰めるように優しく腕を回した。
「僕からのものは大丈夫だよ! すぐにまた同じものを用意するからね」
ノワゼット公爵からの贈り物という首飾りには、ブランシュの瞳の色に似た、とんでもない大きさの碧いサファイアがついていたように思う。
アルミニウムと酸素が結びつくとき、偶然に美しい色を放つことがある、酸化鉱物。放つ色が赤ならルビー、それ以外ならサファイアと呼ばれる。
あれほど大きな同色の酸化アルミニウムをもうひとつ用意できるなんて、地球の抱く神秘とノワゼット公爵の愛には感服するばかりである。
「他に、盗られたものは?」
眉根を寄せ、真剣な表情を浮かべる第一騎士団団長ドーン公爵に問われ、ランブラーが答えた。
「絵画や美術品の類と金庫は無事だったし、他にはなさそうです。ブランシュの宝石だけですね」
「まるで、宝石がここにあるのを知っていたようじゃないか」
ノワゼット公爵が、空っぽになった宝石箱を厳しい目で見つめながら言った。
部屋は全く荒らされておらず、宝石箱が入っていた隠し扉と中の鍵付き金庫だけが開けられている。
――確かに、不思議だ。
ちらと隣を見上げると、泥棒騒ぎが起きた途端、いつの間にか横に立っていたウェイン卿が、気の毒な宝石箱に厳しい視線を送っていた。
そうかと思えば、急にふとこちらを向いて、安心させようとするみたいに優しい微笑を浮かべる。
お日さまも真っ青の輝きを放つその微笑を見た途端、さっきの庭での勘違い騒動が甦った。
途端に早鐘のように鳴り出した心臓が、凄まじい勢いで血液を送り出すもんだから、顔に血が上るのを感じて、慌てて視線を宝石箱に戻す。
もう本当に、ウェイン卿の眩さときたら、心臓に悪いのだ。
「……あの、あの……申し訳ありません。旦那様、ブランシュ様……」
ブランシュの美しい侍女達は一様に血の気を失って青ざめ、今にも泣き出しそうに瞳を潤ませていた。
「私たち……少しだけ、パーティーの様子が見たくて、部屋を離れてしまいました」
「だけど、……その時、確かに金庫の鍵も、隠し扉も、ちゃんと閉まっていたはずだったし、部屋の鍵だって閉めました。まさか、こんなことに……」
ランブラーが侍女たちに近付いて、金色の前髪がかかる碧い瞳を優しく細め、真ん中に立つ侍女の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だよ。可哀そうに。皆、震えているじゃないか。大事な君たちが強盗と鉢合わせなんかして、怪我しなかったのは幸いだった。さ、怖かったろう。今日はもう、部屋に戻ってゆっくり休みなさい」
「「「「「だ、旦那様……っ!」」」」」
ぽわん、と侍女達の目がハートに変わり、頬が薔薇色に上気して見えたのは、見間違いではあるまい。
完全にランブラーの魅了術に嵌った侍女たちが、ハート型の目をしたまま、ふらふらと退く。
彼女たちを微笑んで優しく見送ったブランシュが、瞳を輝かせて、両手を胸の前で組んだ。
「お従兄様……! お従兄様が王宮で、なぜ『白馬の王子様』と呼ばれているのか、その理由がたった今、明らかになりました。今のは、控えめに申し上げても、とても……きゅんとしましたわ」
ノワゼット公爵が、ぎょっとした顔でブランシュを見やる。
わたしの両手もまた、いつのまにか無意識に、胸の前で組まれていた。
「お従兄様……わたしも、今のは、とてつもなく、ときめきました……!」
隣に立つウェイン卿が、身じろぎしたように感じた。
オデイエ卿までもが、自身の胸元を右手で何かに射抜かれたみたいに押さえている。
「わたしも……すごいもの、見せてもらいました……!」
「えー、そうかなあ? 自分ではわからないんだけど。普通にしてるだけなんだけどなー」
不思議がって首を捻るランブラーは、ロブ卿以外の男性たちから、なぜか、じとっと湿った眼差しを向けられていた。
「しかし……誰の仕業だ? 念のため、出入り口は封鎖させて、屋敷内と庭園、その付近は捜索しているが……。きっともう、遅いだろう。招待客達は、全員帰ってしまった後だ」
ドーン公爵が悔しそうに目を細めて言うと、ランブラーが呆れたように答えた。
「やめてくださいよ、もう。今日の招待客の中に、そんなことするような人はいません。だいたい、客がブランシュの宝石のある場所を知っている筈もないじゃないですか。
もういいですよ。誰も怪我しなかったんだし。ブランシュ、明日にでも宝石商を呼ぶから、リリアーナとふたりで好きなものを選ぶといい。それで……大丈夫かい?」
「ええ、わたしは、全くもって大丈夫ですわ」
ブランシュはにっこりと微笑む。
「それじゃ、ブランシュとリリアーナは、もう休むといい。疲れただろう? 今夜はこの部屋ではとても眠れないだろうから、どうする?リリアーナの部屋で一緒に眠るかい?」
ランブラーの眼差しは、ブランシュへの思いやりで満ちていた。
ところで、わたしは、今はもう屋根裏で寝起きしていない。
先日のこと。
『こちらはこちらで、愛着もございますので、今のままで構いませんが……』
ランブラーとブランシュは、揃ってにっこりと美しく微笑んだ。『有無は云わせません』と語る微笑であった。
『それなら、屋根裏は屋根裏でそのまま残しとくといい。だけど、夜眠る時は、リリアーナが五歳まで使っていた部屋にしよう』
『そうね、そうしましょう? わたしの部屋とも近いもの!』
そんなわけで、ブランシュと同じフロアに一室用意してもらっている。
びっくりするほど大きな天蓋付きふかふかベッドが置かれていて、二人で寝ても、まったく問題ない広さであった。
むしろ、自他ともに認める重度のシスコンであるこのわたしが、ブランシュと一緒にいたくないわけがない。
「ブランシュ、今日は一緒に寝てくれるしょう? でも、その前に、ノワゼット公爵と一緒にお茶でもいただいてきたらどうかしら?」
嬉しそうに顔を輝かせ頷くノワゼット公爵に、共犯者の如く目で応えてから、部屋に下がろうとすると、ドーン公爵が近付いてきた。
「レディ・リリアーナ、お休みなさい。今夜は第一騎士団がこちらに泊まり込みで捜索と警護を致しますので、何かありましたら、お声掛けください」
「はい。多大なご親切とご配慮、痛み入ります」
ドーン公爵は軽く腰を折ると、わたしの右手に向かって、優美な仕草ですっと手を差し出す。
(……ん?……こ、これは……? まさか、部屋まで送ります、という意味?)
数秒考えた後、そう結論付ける。
差し出されたその手を取ろう伸ばしかけた右手は、横からひょい、と誰かに掴まれた。
びっくり仰天、奪われた自身の手を握る手を視線で辿ると、黒い制服の袖、肩 襟……
その先には、ウェイン卿の顔があった。
わたしの目は、点になった。
「…………はい?」
「令嬢、わたしも今から捜索に加わりますが、絶対にお一人にならないでください。オデイエを付けますから、今夜は必ず、一緒にいらっしゃるように」
ウェイン卿が、攫ったわたしの右手を握ったまま、微笑を浮かべてはいるが、真剣な口調で言った。
「わ、わ、わっ、わかりました! お、お気遣い、ありがとうございます!」
動転も露わに答えると、ウェイン卿はふっと柔らかく微笑み、その腰を折った。
掴まれた右手が、すいっと持ち上げられる。
右手の甲に、ウェイン卿の柔らかな唇がそっと触れ、――押し付けられた。
ぼん、と頭の中で何かが爆発した。
ほとんど同時に、心臓はたぶん、口から飛び出たと思われた。
ドーン公爵の「うっ」という呻き声と、キャリエール卿の「わぁ」という歓声が、遠い彼方から聞こえた気がした。
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