第74話 夜のティータイム (ルイーズ・オデイエ視点)
夜に包まれた屋敷の一室で、ぽってりと熟れた洋梨のフォルムを描く銀製のポットが、とぷとぷと優しい音を奏でる。
湯気の立つ琥珀色の液体が小花模様が描かれたカップに注がれると、爽やかなベルガモットの香りが優しく鼻腔をついた。
ルイーズ・オデイエの目の前で、紅茶を注ぐ手元に向けて伏せられた睫毛は、驚くほど長い影を落とす。
「それにしてもまさか、この屋敷に泥棒が入るだなんて、びっくりいたしましたねぇ」
ちっとも驚いていなさそうな、おっとりした声音が、朝露に濡れる瑞々しい蕾のような唇から紡がれた。
「オデイエ卿、ずっとお立ちになったままで、お疲れでしょう?
こちら、ローカフェインのお紅茶で、夜遅くいただいても眠りを妨げないそうです。宜しければ、お召し上がりください」
そう言って、ティーカップを差し出すと、ハーフアップに結われた絹のような黒髪が、真珠のような首筋にさらりと流れる。
モスグリーンの部屋着に着替えた目の前の令嬢が、もし、本物の天使でないのだとしたら、精巧にできたお人形であるに違いなかった。
瞬くたび、宝石を嵌めたような瞳は煌めく。腕も足も腰も、少し力を入れたら壊れてしまうのではないかと思うほど華奢なのに輪郭はふわりと柔らかい。
世界一美しい容姿を魔女に妬まれ、毒殺されかける黒髪の姫の話があった。この令嬢を見る度、あの童話を思い出す。
(あのレクター・ウェインまで魅了されたのも、頷けるわ)
つい最近まで、レクター・ウェインは仲間というより、畏怖の対象だった。
恐れていた、と言ってもいい。
第二騎士団に入ってすぐの頃、国境警備軍に尋常でなく強い兵がいるという噂を聞きつけ、ノワゼット公爵とロイ・カントが引っ張ってきた。
あの頃、確かまだ十代半ばを少し超えたくらいだったはずだ。
噂では、聞いたことがあった。
その昔、この大陸で争いが絶えなかった時代。身体能力の高さ故、時の権力者に重用された紅眼の民族。よくある話、治世の時代になると、その異質な強さは疎んじられた。あっさりと手の平を返され、迫害粛清された結果、数が激減したという。
最近では殆ど見かけることはなくなったが、薄まりながらも、その血は僅かに受け継がれている。
その民族特有の、銀狼のような髪と、紅の瞳。
初めて会った時、ぞっとしたのを覚えている。
――無表情。無感情。何考えてるか分からない、気味が悪い奴。
……だけど、決して敵には回すまい。
公爵とロイ・カント、シュロー・ラッドだけは、気にかけて接していたが、他の仲間のうち、レクター・ウェインに進んで近付こうとする者はいなかった。
けれど二年前、人望のあったロイ・カントの後任に、公爵がレクター・ウェインを指名した時、異議を唱える者もまた、いなかった。
人望があったからじゃない。人知を凌駕する者に対する、畏怖の念によって。
戦争が本格化すると、仲間の騎士や兵士たちは、紙くずが燃えるみたいに、消えた。
自身が生き残れたのは、間違いなく、あのレクター・ウェインと同じ班にいたからだ。
――今でも、時々、夢に見る。
真っ赤な陽炎を燻らせながら、目で追うことすら不可能な速さで、機械のように正確に、一瞬で敵の急所を刺し貫いた剣さばき。
返り血を吸い込み、深い漆黒に色を変えたマントからは、赤い雫が滴っていた。
息をしている者はほとんどいなかった、あの地獄のようなガリカ谷の戦いから五体満足で生還できたのは、間違いなく、レクター・ウェインのお陰だった。
――ああ、駄目だ……
己の命の灯火が、かき消されようとした刹那、目の前に白刃が閃き、敵の体は崩れた。
キャリエールら他の騎士たちも、おそらく同じように思っているだろう。
(本人は、ただ近くにいた敵を殲滅しただけで、助けたつもりでもなさそうだけど)
誰もが消耗し、疲弊していたあの中で、ただ一人、表情を変えぬまま、赤く染まった顔には、いつもと変わらぬ悪魔のような赤い瞳が光っていた。
あの男には、「心」というものが、ないに違いない。
「心」と引き換えに、人では手に入れ得ないものを与えられたのだ、と思っていた。
(それが、まさか……)
まさか、さっきのようなレクター・ウェインを見られる日が来ようとは、長生きはするものである。
(あの無感情冷凍人間が! 令嬢の手に口づけを落とし、優しく微笑んで見せた)
先に逝った仲間にいつか会えたら、自慢してやろう。
―― たぶん、誰も信じないだろうけど。
「ときに、令嬢?」
「はい、なんでしょうか?」
目の前の美しい令嬢が、優しく微笑んで、ティーカップに手を伸ばす。
「ウェイン卿のこと、どう思います?」
ぴくり、とその長い睫毛が震えたように思うのは、気のせいだろうか?
令嬢は、ティーカップを美しい手つきで持ち上げると、にっこり微笑んだ。
「どうとは……? そうですね。とても、立派な方だと思いますが……」
そう答える令嬢の顔は平然としている。
さっき、手の甲に口づけられた時は、頬を真っ赤に染めて、動転して見えた。
部屋に戻る途中も放心した様子で、
『友人というものが、まさか、これほどのものとは……想定外でし……』
などと意味のわからないことを口走っていた。
しかし……、この令嬢の内心はさっぱり伺い知れない。
実際、白獅子の総領ドーン公爵を見る眼差しときたら、眩しそうに瞬いていた。
グラハム・ドーンは遊び慣れた色男として社交界で名を馳せる男である。参戦されるのは正直、キツイ。
ウィリアム・ロブと一緒にマカロンを食べている時の眼差しときたら、これ以上ないほど嬉しそうに寛いで見えた。熱っぽく潤んでまでいた。こちらが遅れを取ったこの一週間余りの間に、相当間合いを詰められてしまったようだ。
非常に、危機的な状況であると思えた。
(……どうだろう? レクター・ウェインに、まだ脈はあるだろうか?)
先程の手の甲に接吻のくだりからして、ノワゼット公爵の作戦は、ある程度、功を奏したようだ。
レクター・ウェインについては、令嬢を諦めるのを止め、猛攻を決意した様子。非常にけっこう。
だがしかし、残念ながら、恋は一人では成就できないことは、誰もが知るところ。
リリアーナ側の気持ちは誰に向いているのか?最重要ポイントであると言える。
さながら探偵になったつもりで、その兆しを見つけようと目を凝らしても、まるで意図して隠しているかのように、リリアーナの気持ちはさっぱりわからない。
「こんな夜更けにオデイエ卿とお茶をいただけるなんて、なんだかワクワクいたしますねぇ」
などと、のほほんと砂糖菓子のような微笑みを浮かべている。
この令嬢から好意を持たれて、断る男はこの世にいない。婀娜っぽい視線をちらりと流せば、どんな男でも顔を輝かせ、その足元にひれ伏すだろう。
つまり、間違いなく成就する恋心を隠す必要など微塵もない。
なのに、誰かに秋波を送っている様子は見て取れない。今のところ、誰にも脈はない、ということだろうか。
テーブルの上に置かれた、キャンドルに目をやる。今、王都で最も話題の高級雑貨店のブランドロゴが入ったそれは、誰かからの贈り物だろうか?
薔薇の模様が描かれた薄桃色のそれは、上質な香りがしそうだ。
「令嬢、このキャンドル、どなたかからの贈り物ですか?」
「はい、ロブ卿からいただきました」
嬉しそうに笑って答えられて、自身の頬が引き攣った。内心、頭を抱える。
(不利だ、不利すぎる)
あのレクター・ウェインに、流行の店で女性の好みそうなものを買って贈る、などという高度な真似ができるはずがない。
レクター・ウェインどころか、自慢じゃないけど武骨者揃い。第二騎士団のどの騎士にだって、無理である。
「令嬢、このキャンドル、火を点けてみても良いですか?」
とりあえず、これはさっさと燃やして、この世から消してしまおう、と思い付く。
「はい、もちろんです。マッチをお持ちしま――」
立ち上がりかけた令嬢を制止して、指先でそっとキャンドルの芯先に触れる。
指先に、琥珀色の陽炎が立ち、ぽっ、と小さな音を立て、火が灯った。
ふわりと薔薇の香りが立ち昇る。
「……まあ……!」
リリアーナの大きな目は、零れ落ちそうなほど、まん丸く見開かれていた。
(やっぱり、知らなかったか)
ふっと満足げに頷く。
この令嬢は五つの時から、屋根裏で半幽閉生活を強いられていたらしい。
それなら、これを見る機会がなかったのでは、と思っていた。
「……すごいですね。これが、新聞で度々目にしておりました、騎士様のお力なのですね……。半信半疑でおりましたが、本当に、魔法が……」
「残念ながら、魔法じゃありません。できることは限られていて、そのほとんどは戦闘に関することだけ。実生活で役立つのは、こうやって、ちょっとしたものに火をつけるくらい。これも実際に火を操ってるわけじゃなくて、単に集中して熱くしてるだけっていうか……」
キラキラした瞳でキャンドルの炎を見つめるリリアーナに言いながら、昔を思い出す。
幼い頃から、剣の腕では誰にも負けたことがなかった。
生まれ育った山間の小さな村では、一番強かった。大きな町に出てからも、それは一緒だった。
逆に、周りの人間がなぜ、あれほど弱いのか不思議だった。どうして、みんなは相手の太刀筋が見えなかったり、思い通りに体が動かないんだろう、と思っていた。
集中すると、自分の内側にある力がゆらりと大きくなって、それを掬うように外に出したら、身体の回りに琥珀色の陽炎が立つことに気が付いたのは、十三歳の時だ。
その時から、大人も含めて、村で自身に敵う者はいなくなった。
後になって、この力は生まれつきの才能によるところが大きいが、素質さえあれば、訓練によって引き出せる者もいると知った。
正騎士ならば誰だって使えるこの力は、従騎士にも使える者は多い。兵団にすら、少数いる。だから別に、特別、希少な力というわけではない。
この力を持たぬ者から見たら、驚異的な力が出せる様になる。ただ、それだけのもの。
騎士の仕事に就いていなければ、特に役に立つようなものでもなかった。
「それでも、本当にすごいです。この世にこんな不思議な力があるだなんて、この目で見るまで信じられませんでした。……夢を見ているみたいです。」
美しい令嬢に尊敬ともとれる眼差しを向けられて、胸の辺りがふわふわとくすぐったくなる。
「気に入ったなら、今度、ウェイン卿にも訊いてみたらどうですか? 騎士の力について知りたいと仰ったら、もっと凄いものをお見せすると思いますよ。普通は集中して、体の奥底から掬い出してくる力なのに、ウェイン卿のは普段から溢れてるくらい強力ですから」
この令嬢に尋ねられ、顔を輝かせて丁寧に説明する姿が目に浮かぶ。
目を三日月形に細めて言ってみたが、リリアーナはティーカップの中に視線を落とすと、何か思い出すみたいに遠い目をした。
「まあ、そうでございましたか……」
「…………」
……残念ながら、訊いてくれる気はなさそうである。
先週、令嬢に全て知られていたことを知った後のあの男の落胆ぶりは、第二騎士団を震撼させた。
あの、レクター・ウェインが! 血も涙もない、と思っていた副団長が! 人間らしい感情を持っていた!! という衝撃である。
いつも無表情で何の感情も見せなかったあの男が、令嬢の一挙手一投足を目で追い、ほんの一瞬、目が合っただけで、喜びで顔を輝かせている。
令嬢と出会ってから、これまでその辺の置物くらいにしか思っていなかっただろう仲間の騎士に対しても、気に掛けるような言動を見せ始めた。
戦争で仲間を多く失ってから、二年が経ってもまだ、騎士団内には重苦しい空気が流れていた。
ところが、ここ最近のこの明るい空気はどうだろう。
――この奇跡を、この令嬢は知るまい。
こうなったら、何がなんでも成就させたい、というのが、第二騎士団の騎士全員の悲願であった。
「令嬢」
「はい?」
「本当に、くれぐれも、ご自分の身を大事にしてくださいね。第二騎士団の命運は、令嬢が握っていると言っても過言ではありませんから」
にっこり笑って、念押ししておく。
令嬢は、よくわからない、と言いたそうな訝し気な顔をした。
「……皆様は、とても、仲がよろしいのですね」
「そうですかね? そうだとしたら、それは令嬢のお陰です」
「……はあ……」
わけがわからない、と言いたそうに頭を傾けると、またさらりと黒髪が揺れる。
その様子もまた、抱きついて撫で回したくなるほど可憐であった。白獅子と青竜になんか、決して渡すまい、と決意を新たにする。
ところで……、とリリアーナは口を開いた。
「泥棒はどうして、今日、犯行に及んだのだと思われますか?」
「……令嬢、そんなことはわたし達に任せて、今度は、本当に絶対に、危ない真似はいけませんからね」
「はい、もちろん、わかっております」
ふわりと微笑み、全く信用できない返事をしたリリアーナは、考えるようにカップの中の紅茶を眺めている。
「でも、不思議ではありませんか?
今日は、第二騎士団の皆様だけでなく、第一騎士団の皆様までいらっしゃいました。
おまけに、夜会の為にブランシュはあの大粒ダイヤの首飾りを付けていました。
隠し扉の場所を知っていて、金庫の開け方までわかっているなら、他にもっと良い機会があったのではないでしょうか?」
「うーん、今日は門が大きく開いていましたし、人の出入りも多かった。パーティーの招待客に紛れて、入りやすかった、とかじゃないですか?」
言いながら、本当にそうだろうか?と思った。
レディ・ブランシュが今日、首から下げていたダイヤモンド、あれがあれば、普通の人間なら間違いなく一生遊んで暮らせる。
門でも玄関でも、第一騎士団の白い騎士が二重の確認をしていた。どこかに、入りやすい隙などあっただろうか?
ロンサール伯爵はああ言ったが、やはり、招待客の誰かが犯人だった可能性が高いように思えた。
「あ」
「どうしました」
「あの、今、思い出しましたが、この屋敷には、正門、裏門、通用門以外に、もうひとつ、外に出る方法がある筈なのですが、騎士の皆様にお伝えした方が、良かったでしょうか?」
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