第75話 油断 (ルイーズ・オデイエ視点)

 そして、リリアーナと二人、庭園の小径を歩いている。


 それじゃあ、一緒に行きますから、伝えたらすぐに戻りますよ、と言って部屋を出たのに、途中で見かけるのは白い騎士ばかり。

 


 制服を着ていると日中は暑さを感じるほど春めいたとはいえ、夜はさすがに冷えた。捜索中の騎士達が持つオレンジ色のランプの明かりが、澄んだ空気の中、遠方で小さく揺らぐ。


(まったく、第二騎士団うちの連中は、一体どこに隠れてんだか……)


 しょうがなく、ついに庭園まで出てきてしまった。


 だけどまあ、騎士だらけのこの屋敷に、犯人がまだ潜んでいるとは考えにくい。きっともう、とっくに逃げた後だろう。


 万が一、鉢合わせしたとしても、相手はたかが盗人。令嬢を守りながらでも瞬殺するくらいの腕の覚えはあった。


 もう一つの出口とやらを確認したら、さっさと戻れば良い。


「素敵な夜ですねぇ」


 寒くありませんか?と尋ねようとしたら、大判のストールを身体に巻き付けたリリアーナは頬を染め、うきうきとした様子で夜空を見上げ呟いた。


 女にしては背が高い自身の隣に立つと、リリアーナの細さと小ささは際立つ。


「令嬢、今日は何だか、嬉しそうですね」


「はい。今日は、良いことが沢山ありました。ずっと会いたかったパルマンティエ夫人に会えて、夜会も無事に乗り越えられました。もちろん、泥棒の件は残念でしたが、ランブラーの言っていた通り、怪我人が出なかったのは不幸中の幸いでした」


「良かったですね」


「はい。それもこれも、元を正せば皆様のお陰です」


 月夜の下、嬉しそうに横を歩くリリアーナの肌は、白を通り越して透き通って見えた。

 このまま、月の光と混ざって消えてしまいそうな錯覚すら、起こさせる。



「令嬢、わたし、令嬢が大好きですよ」


「まあ……! それは、光栄です。ありがとうございます。わたくしも、オデイエ卿が大好き……というか、尊敬しております」


 令嬢は驚いたように目を見開いた後、ほんのり頬を赤らめた。


「それは、光栄です」


「はい、オデイエ卿にそんな風に言っていただけるなんて、今日はやっぱり、すごく良い日でした」


 ……やはり、何がなんでも白獅子と青竜にだけは渡したくない。老獪な貴族達の腹の探り合いに付き合わされ、挙げ句、嫌みまで言われることもある他の仕事とは全然違う。

 ロンサール邸の護衛はまさしくピクニック気分であった。浮かれる。楽しい。


 ――その時、


 す……っと前方に影が動いた。


(誰だ―――?)


 一瞬、身構えるが、雲の切れ間に覗く満月が照らし出すその姿は、よく見知った人物のものだった。


 向こうもこちらに気付いて、穏やかな笑みを浮かべ、近付いて来る。


「これはこれは、お二人とも、こんな遅い時間に、どうされました?」


「……ええ、令嬢が、こっちにも出口があるって言うもんだから、一応確認を。」


 リリアーナが、何故かぼうっとしたように佇み、答えないので、代わりに返事をした。


 背にそっと、リリアーナの手が置かれる。


 月が雲に隠れ、辺りが薄闇と静寂に包まれた。


 リリアーナが、遠くを見るみたいな眼差しをその人物に向け、そろそろと口を開く。


「……あのう……失礼ですが……そもそも……どのようないきさつで、この屋敷にいらしたのでしたか?」


 月が陰り、木の下に入った相手の表情は読み取れぬまま、一歩ずつ近付いて来る。


「私ですか、私は――」

 

「!!」


 チカッ、と視界に銀の光が走る。


 咄嗟に剣を抜き、三本は払い落としたが、リリアーナを庇った左肩に激痛が走る。


 (一本、払い損ねた……!)


 左肩に突き刺さった二十センチほどの針を急ぎ引き抜いて投げ捨てると、傷口からぱっと鮮血が散る。


「オデイエ卿!!」


 リリアーナが悲鳴のような声で名を呼んだ。


「令嬢、いいですか? 屋敷まで振り返らずに真っ直ぐ走って、誰でもいいから、騎士を呼んでください。いいですね?」


 リリアーナは蒼白な顔で、瞳に涙を浮かべ頷くと、そのまま走り出した。


 自身から、舌打ちの音が漏れる。


(しくじった……!)


 おそらく、毒針だ。


 屋敷からは、だいぶ離れてしまったが、リリアーナが無事に戻るまで、絶対に足止めする。捜索中の騎士が持つランプは、どれも遠く、小さく揺らぐ。


 剣を構えながら、先程、リリアーナが言っていた言葉が過る。


『でも、不思議ではありませんか?

 今日は、第二騎士団の皆様だけでなく、第一騎士団の皆様までいらっしゃいました。

 おまけに、夜会の為にブランシュはあの大粒ダイヤの首飾りを付けていました。

 隠し扉の場所を知っていて、金庫の開け方までわかっているなら、他にもっと良い機会があったのではないでしょうか?』


 しくじった。


 すとん、とその理由が、胸に落ちる。


 ―― 知っていたのに……!


 完全に、しくじった。徐々に体に痺れが回りだす。もう、左腕には感覚がない。


 ふふっ! と目の前の男が可笑しそうに嗤う。


「これを一本しか食らわないとは、流石ですね。ルイーズ・オデイエ」


 ぞっとするほど冷たい男の声が、耳に響く。

 男はその視線をリリアーナの後ろ姿に向ける。酷薄に歪む唇から、不気味に吐息を漏らした。


「困った令嬢ですね。もうひとつの出口など……。思い出さなければ良いものを」


 令嬢はまだ、それほど離れていない。


 (毒が回るまでに、仕留める)


 心を静めて、奥にある水底に沈む力を掬い上げる。

 右手に握る剣に集中すると、琥珀色の陽炎がしゅうしゅうと右腕と剣を取り巻く。


 辺りの空気がピリピリと帯電したように、緊張を帯びた。


 銃を携帯していても、正騎士でそんなもの使う者はいない。気を込めた剣の方が、スピードも破壊力もずっと高い。


 さっきは隙を突かれたが、この程度の相手、敵じゃない――


 右腕があれば、行ける。

 

 「………っ!!」


 急所を狙って繰り出した剣は、手応えのないまま、空を切った。


 馬鹿な、と思う間もなく、感覚のない左側に、強烈な衝撃を受け、視界が横に弾け飛ぶ。


 蹴りを受けた、と気付いたのは、吹っ飛ばされ、地面に倒れ伏してからだった。冷たく湿った芝が肌に触れる感触に、全身がひやりと冷える。


(ダメだ、まずい)


 剣は手から離れて、地面に落ちている。

 倒れた自身には目もくれず、男はリリアーナの方に駆け出そうとする素振りを見せた。


 体を引き摺るように前に持ち上げ、その足首を、右手で掴む。


 ――絶対に、離さない。


 おそらく激しく動いたせいで早く回った毒は、右手まで痺れさせ始めた。

 リリアーナが別の騎士と行き会うまでは決して離すまい。渾身の力で握り絞める。


 顔にかかる赤い髪の隙間から、霞む視界を上に向けると、暗闇に隠されていた灰色の瞳がこちらを見下ろしていた。


 闇の中の氷雪を思わせる灰色の瞳に、仄暗い陽炎が、ぽっと灯る。


 その目を見た瞬間、ぞっと身の毛がよだった。


 昔、レクター・ウェインの目を初めて見た時と、同じ感覚――


(――ただのコソ泥じゃ、ない……)


 足首を掴まれたままの男が、吹っ飛ばされた拍子に落とした剣に腕を伸ばし拾い上げる様が、スローモーションのように映る。


 ――直感した。



 (ああ、これは、死ぬなぁ)



 まさか、このわたしが、こんなところで、こんな正体不明な奴にあっさりやられるとは。


 こうなっては、リリアーナが屋敷に走り着くまでに、誰か他の騎士に会えることを祈るしかない。


 ごめん、ウェイン卿。


 ごめん、アル。


 ごめん、みんな。


 向こうに行った仲間に、思ったよりも早く会えそうだ。



 ひゅっという空気を切り裂く音と共に、男が剣を振り上げた。



 ――諦めて瞼を閉じると、心がすっと軽くなる。





 頭がふわりと温かく柔らかいものに包まれて、ぎょっとして目を開けると、視界は緑色に染まっていた。



「お願い! お願い! 命までは、お願いだから!」


 自分を守るように覆い被さって懇願する、リリアーナの涙声。


 視界を染めるそれが、リリアーナが着ていた室内着の色だと気付くまで、数瞬の時が必要だった。



 ――何やってんの、さっき、逃げろって言ったでしょ!


 叫んだつもりの咽喉からは、微かな呻き声が漏れるだけ。

 呼吸をするのも苦しく、毒が回った体は、どこもほとんど動かせない。


 リリアーナは、自分の頭と胸に抱き付くように、覆い被さっている。


 男の足首から痙攣して震える右手を離し、左の肩章に手を伸ばす。


 その下から、そっと呼子笛を抜いた。



 そして、最後の力を込めて、思い切り、吹いた。




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