第76話 呼子(レクター・ウェイン視点)

 (……不覚……)


 伯爵邸近辺、人気のない林の中。

 レクター・ウェインは、片手を大木の幹に置き、もう片手は額を押さえ、悩み抜いていた。


 大きく、溜め息をつく。


 ……そもそも、今日ここに来た目的は、謝罪だけはしよう、であった。後はもう、そっと遠くから幸せを見守ろう、そう思っていたのだ。



 ランブラー・ロンサールに先に行っといてくれ、と言われ、部屋のドアを開けた途端、白いドレスを身に纏ったリリアーナの姿が目に入った。


 記憶の中、何度も思い描いた姿より、もっと白く透き通る肌。もっと艶やかな黒髪。もっと美しい横顔。もっと可憐なその姿を目にした途端、息が止まった。


 瞳を煌めかせて、ふわりとした頬を可憐に染め、瞳を潤ませて、楽しそうに何か話していた。

 その視線が交わる先で見つめ合うのは、ウィリアム・ロブだった。



 胸が、内側から切り裂かれたかと思った。



 俺には、一度たりとも向けられたことのない、どれほど焦がれようと、この先も決して向けられることのない、楽しそうな笑顔。嬉しそうな表情。


 先に俺達に気付いたウィリアム・ロブの視線を辿り、リリアーナは、こちらを向いた。



 ――覚悟は、していた。


 (蛇蝎の如く、嫌われている)


 大丈夫だ。睨まれ、蔑まれ、罵られたって、自業自得。


 人として大人として男として、せめて、きちんと筋道立てて、何故あんな計画を立て、こんな羽目に陥ったか説明し、誠心誠意、言葉を尽くして謝罪しよう。


 ところが、リリアーナの瞳に映っていたのは、愕然とした怯えだった。

 今にも倒れそうなほど血の気を失い、真っ青な顔。



 見た途端、打ちのめされた。



 乙女かよ、硝子の心臓かよ、と胸中で己を罵ってみたが、全くの無駄であった。

 思春期真っ只中の少年の如く、情けなくも俯いて黙り込むという体たらく。


 怯えた彼女の様子に気付いて、ウィリアム・ロブが白く華奢な手をそっと握るのが目に入った。


 ほんの少し前、俺はその隣を歩いて、手を繋いだ。

 あの時に感じた、息もできないほどの幸福感は、まだ胸の奥に残っている。


 ところが、今はもう、その華奢な手を握るのも、細い肩を抱くのも、隣でハンカチを手渡し慰める権利も、全て、他の男のものになっていた。


 ――いや、しょうがない。


 自分のしたことを考えろ。こうなって当たり前だ。何度も自分に言い聞かせた。



 だが、どうしたって、羨ましくて堪らなかった。


(俺だって)


 ――あんな風に、出会えていたら。


 有力な貴族の家系でありながら、穏健派の学者一門。敵もいない。超難関と言われる試験を突破した王宮政務官。従兄の親友で、いつでも屋敷に出入りし、彼女に会える。おそらく読書好きで、話だって合うんだろう。静かな物腰で、出会う人間のほとんどから好かれて、悪く言う人間一人いない。


 帽子で顔を隠したリリアーナが、朝食の席で初めて挨拶していた場面を思い出す。悪評や噂に惑わされず、立ち上がって丁重に挨拶を返していた。


 最初に会った時、自身がとった態度とは、大違いだった。


 気が利いて、花やケーキといった、彼女の好きそうなものを贈り、喜ばせる術を知っている。彼女が苦しい時に、その手をそっと取って、励ますことができる。


 何より、彼女を傷付けようなどと、考えたこともない。


 絶対に敵わないことは、存分に理解できた。


 もはや近付くことすら叶わず、遠くからぼんやり見つめるだけの俺の視界の中で、リリアーナは渡した。


 光が溢れるみたいな微笑みを浮かべて、ウィリアム・ロブに、ハンカチを――


 遠目にでも紳士物だとわかる真っ白いハンカチには、刺繍が施されているに違いない。ウィリアム・ロブを想いながら、ひと針ひと針、刺した刺繍が。


 それを目にした途端、立っていられないくらいの衝撃を受けて、柱に手をついた。



 ――終わった、と思った。



 ウィリアム・ロブは、貴公子然とした笑みを浮かべてハンカチを受け取り、何か言ったように見えた。途端にリリアーナは恥じらうように頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。


 眩暈がした。


 あんな目も眩むような顔でハンカチを手渡され、その場に跪いて求婚しない男が、この世に存在するとは思えなかった。


 俺だったら、間違いなくそうする。絶対する。


 これから視界の中で繰り広げられるであろう、死刑宣告にも等しい展開を覚悟し、気が遠くなりかけた。


 ところが、あの色男は感激に身をうち震わすでもなく、涼やかな微笑を浮かべながら、ハンカチをさらりと胸ポケットに仕舞ったのだ。


 ――嘘だろう! と心が叫んだ。



 胸の内に、炎が燻り始めた。



 自業自得だろうと何だろうと、耐えられないものは耐えられない。


 秀才だか侯爵家だか未来の宰相だか何だか知らないが、あんな文弱な優男にだけは負けたくない。あいつよりも絶対、間違いなく、俺の方が、彼女を好いている。



(……そういえば、何だってあんな場所で休んでいたんだろう?)


 一人でそっと大広間を抜け出すのを見て、心配になって後をつけた。

 人はそれをストーカーと呼ぶ、という一般常識からは、一旦、目を背けることにした。


 白いドレスは月の光を纏い、物憂げにベンチに腰掛ける姿は、この世のものとは思えなかった。

 月から迎えが来て、奪い返されてしまいそうな錯覚に襲われ、思わず声をかけた。


 彼女は、俺から遠ざかりたいと願っていた。

 表面的には丁重に接してくれるが、どれほど鈍くてもそれくらいは容易に察せられた。

 

(そう思われて当然だ。どこの誰が卑劣な殺人鬼と一緒に居たがる? 仕方ない、完全に悪因悪果)


 しかし、リリアーナは軽蔑なんてしてない、感謝している、とまで言ってくれた。


 それなら、もう形振り構っている場合ではない。気が逸った。


『令嬢、俺は、貴女が好きです』


 想いを告げた途端、


「……は?……何言ってんの?」


 みたいな顔をされた。


 当たり前であった。


 人形のように整った顔は、呆れたように固まってはいたが、平然としていた。あっさりと拒絶される気配を察し、慌てて、ただの友人で良いから、また会ってほしいと頼み込んだ。 一縷の望みをかけて、ほとんど無理やり、側にいさせて欲しいと頼んだ。断れないだろう優しさにつけこんで。


 驚きながらも、予想通り、「はあ、まあ、そういうことなら……」という様子で、了承してもらえた。


 許されて会話ができたことで、つい浮かれ、エスコートをしたいとまで申し出たのは、我ながら早まりすぎであった。慙愧に絶えない。どう考えても、無謀だった。



 ウィリアム・ロブにうっとりと見惚れ、腕に手を置く姿を見ると、胸がムカついて吐きそうになった。

 足早に立ち去りながら、今後は、決して焦るまい、と自身に誓った。



 ……にも関わらず、白獅子公爵のグラハム・ドーンがあの華奢な手を取ろうとするのを見ると、とても我慢できなかった。リリアーナは眩し気な眼差しをドーン公爵に向けていた。


 ――この遊び人の白獅子が、と危うく剣を抜きかけたが、寸でで思い止まった。


 代わりに横から掬い取ったはまだしも、まさか、口づけまでしてしまうとは……一生の不覚。


 その時の、愕然としたリリアーナの顔を思い出す。


(友人でいいから、と言っておきながら、手に口づけるか? 普通。

 いや、しないだろ……、するかな……? 金髪三人組あたりはしそうだが……どうだろう? 変に思われただろうか?)



 これはもう、『この上なく失礼』『感じ悪い』『卑劣な人殺し』。その上、『変質者』の烙印まで押された確率が、かなり高い。


 もはや、これより下、落ちるところはあるまい、と思われた。


 目を瞑って、痛む額に強く手を当てると、口から勝手に大きな嘆息が落ちる。



 これから先、彼女が俺に好意を抱いてくれる可能性は、限りなくゼロに近い。


 ……絶望的だと、分かっている。


 愚かすぎて、つける薬もない、と自分でも思う。


 だが、どうしようもないのだ。


 諦められるものなら、忘れられるものなら、とっくにそうしている。


 それでも、まるで熱病に罹ったかのように、身の程を知らぬ望みだと頭ではわかっていても、どうしようもなく惹かれてしまって、もう、自分でもどうにもならない。



(……もう、二年も前から、この屋敷に出入りしていたのにな……)


 ほんの時折、見掛けた姿を思い出す。

 黒いフードで顔を隠し、屋根裏の窓辺にそっと立って、訪れる客たちを見ていた。


 視線を感じて、見上げて睨みつけたことを覚えている。だめだ……阿呆すぎて、死にたくなってきた。


 二、三度、声の届く距離にいたことすらあった。


 俯きながら身を隠すように外套の襟を握り締め、急ぎ足で階段を上がっていた。



 あの時、声をかけていたら、今頃、何か違っただろうか。



 ――花が零れるみたいに嬉しそうに笑って、俺を、見ただろうか。



 



 ピー―――――――――……


 遠くから届く呼子の音。


 思考から引き戻され、はっと顔を上げた。


 最後にこの音を聞いたのは、二年以上も前。


 ――庭園の、木立の方角か……?


 以前、リリアーナとアリスタが歩いていた辺り。


(……誰が吹いた……?)


 戦場ならともかく、伯爵邸の庭でたかだかコソ泥の探索中に、騎士を呼び集める事態に陥るか……?



 ふわりと頬を撫でる、生ぬるい風。


 嫌な予感が、胸を過る。




 §



 白い騎士が二人、屋敷の方向から、馬に跨り疾走して来る。

 一騎が速度を緩め、一騎はそのまま風のように駆け抜けてゆく。


「君のところの女性騎士だ! あっちでやられてる! 医者を呼んでくる!」


 指し示してそれだけ叫ぶと、再び加速して門の方へ走り抜ける。



 ――まさか。



 あのオデイエが、やられるはずがない。

 



 白い騎士数人に取り巻かれるように倒れているオデイエに駆け寄る。


 血の気を失った生気のない顔。地面に広がる乱れた赤い髪。ぐたりと横たわる黒い制服姿を目にしてもなお、この目を疑った。

 先に着いたキャリエールが蒼白な顔で名を呼んでいるが、閉じられた瞼は、僅かな反応もない。


 その左肩に負ったらしい傷を、白い騎士がハンカチで押さえていた。夜の闇の下でも、それに滲む染みが血であることは分かる。


 芝の上、月に照らされ鈍く光る銀色の針。



 第一騎士団の騎士が、口を開いた。


「意識はないが、息はある。毒針でやられたらしい」


 周囲を見回す。


 まるで現実感はなく、声や音が遠くから聞こえてくる。


 一緒にいるはずの、彼女はどこだ?

 なぜ、一緒にいない?

 屋敷にいるのか?


 きっとそうだ、そうに違いない。


 今頃、騒ぎに気付いて不安そうに、ブランシュと一緒に熱い紅茶でも淹れてもらっているんだろう。


 オデイエだけが、何か理由があって、庭に出た。そうに違いない。

 なぜ、オデイエが庭に出たのか、彼女に聞こう。

 何か、知っているかもしれない。


 今から、すぐに――



 白い騎士が、続けて口を開いた。


「それから、レディ・リリアーナが見当たらない。今、屋敷内と庭園を捜索中だ」





 

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