第77話 消える (レクター・ウェイン視点)
東の空が、淡い花びらを散らしたように染まる。
暗い青紫だった景色が、白い明るみを帯び、新緑の木々が光を弾き輝く。日の出を告げる野鳥達が、つがいを求めて恋の歌を謳い始めた。
―― 夜が、明けた。
それを、これほどの焦燥感を持って迎えたことが、あっただろうか?
呼子の音を聞いて、真っ先にオデイエの元に駆け付けたのは、第一騎士団の白い騎士だった。
かすかに、オデイエの意識は残っていた。
毒に侵され痺れる指で、指し示したのは、木立の奥。
後から来た騎士にオデイエを任せ、急ぎ向かったその先に、リリアーナの姿はなかった。伯爵邸の敷地から出られる門は、その方角には存在しない。
くまなく探したが、足跡ひとつ、痕跡ひとつ、見当たらない。
第一騎士団と第二騎士団の手の空いている騎士が全員招集され、屋敷中を捜索した。
茂みの中。枯れ井戸の底。石の影。小屋の中。木々の上に至るまで、考え着く場所のすべてを捜し尽くした。それなのに――
(そんなところに、いるはずが、ないだろう……)
池の上にボートを浮かべ、長い棒を水底に突き刺して回る白い騎士を見やり、苛立ちがこみ上げる。
(そんなところに、いるはずが、ない)
だが、それなら、
――それなら、貴女はどこにいる?
§
「公爵が呼んでる」
ラッドに言われ、オデイエが運ばれた客間と続きの間へ向かう。
目の下に隈を作ったブランシュ・ロンサールが思い詰めた様子で、その肩を公爵に抱かれていた。
「オデイエは?」
尋ねると、公爵がオデイエの寝かされた隣室のドアへ視線だけを送る。
「医者の話では、深く眠っているだけで、命に別状はないそうだ。まだ目覚める気配はないが、医者と看護師が付きっきりで診てるから、心配ない」
「リリアーナは……?」
色を失くして真っ青になったブランシュが尋ねるが、静かに首を横に振る。ブランシュは両手で顔を覆った。
「嘘でしょう……」
「大丈夫だ、必ず無事に見つけるから」
ノワゼット公爵が、励ますようにブランシュの肩を引き寄せる。
「門は全て、随分前から封鎖してただろう? それなら、必ずこの敷地の中にいるはずだよな?」
ランブラー・ロンサールの問う声が聞こえてきた。
部屋の中央に据えられた大きなテーブルの上には、伯爵邸の間取り図。
その周りを、額を押さえ苦悩の表情を浮かべたロンサール伯爵、グラハム・ドーン公爵と第一騎士団副団長のガブリエル・ラバグルートと数人の騎士がぐるりと取り囲んでいた。
ロンサール伯爵邸の敷地内、全ての部分に斜線が引かれた間取り図。
しらみつぶしに捜索し、捜索終了した箇所に斜線を引く。昨夜から、人海戦術で続けた結果、出来上がったのが目の前の間取り図だった。つまり、
――敷地内のどこにもいない。
「なんで、見つからないんだ……?」
ロンサール伯爵の声音には、焦りと苦悩が滲んでいた。
「騎士の人たちは、気配が読めるんでしょう? 実際に姿が見えなくても、誰かが隠れていたら分かるって、前に言っていたじゃない?」
ブランシュがノワゼット公爵に向かって、問い詰めるように早口で口を開く。
「ああ、そうだ。わかる。生きてさえいれば、必ず分かる筈なんだが……」
どれほど神経を研ぎ澄ませても、リリアーナの気配は感じられなかった。
近くに生きた人間がいれば、気配で察することができる。
一度会った人間なら、近付けば、その存在を感じられる。
訓練で気配を消すことができるようにもなるが、リリアーナにはできない。
ならば、これだけの数の騎士が屋敷の敷地を隈なく探していれば、必ず見つかる筈だった。
――生きてさえいれば……と考えかけて、ぞわりと足が竦む。
足元から、不安がざわざわと虫のように這い上がってきて、心臓を縛ろうとする。
(なんで、庭になんか出た?)
……悪い夢を、見ているようだった。いや、ずっと、夢を見ていたのかもしれない。あの人は、月から降りて来た精霊のようだった。この世のものじゃないようだと、ずっと思っていた。……だから、取り返されてしまったのか……?
そこまで考えて、不安の霧を振り払おうと、頭を振る。
(考えろ……オデイエから言い出し、外に出たとは思えない。それなら……)
夜は更け、外の気温は低かった。泥棒騒ぎまで起きている中、何故、庭に出ようと思い立った?
(……リリアーナが、庭に出ようと言ったのか? オデイエはそれに反対せず、付き添った。……何故だ?)
何かが、閃きかけて、すぐに消えてしまう。焦れったい。
(危険はない、とオデイエは考えた。念のため、自分で確認しておこう……何があったら、そう思う?)
……そうだ。
初めて会って、言葉を交わした時、俺は疑っていた。評判が悪くて、黒ずくめで、人嫌いな女。疑わしい、油断するまい、と思った。何しろ、毒の本まで借りていたのだから。
――妙な本を読むな、と思った。
だから気になった。あの日、王立図書館で、リリアーナが借りた本。
『皆さま、雨に濡れられてお寒いでしょう?』
やけに急いで借りていた。あれは、俺達が自分を殺そうとしていると知っていたのに、気遣ってくれていたのだろうか。
陽は完全に顔を出し、やけに眩しい光が、窓から差し込んでいた。
あの時、借りていたのは、確か……
(……フランシーヌとかいう娘が主人公の恋愛小説。もう一冊は……)
「……冗談じゃ、ないわよ……」
その場の全員が、震えるような低い声の方を向く。
碧い瞳の奥に意志の強い光を宿すブランシュが立ち上がり、図面を見つめ呟いた。
「……リリアーナが、消える筈ない。わたしの妹なのよ? 何か見落としてるのよ。今頃きっと、どこかで助けを待ってる。……絶対に、連れ戻すわ」
ロンサール伯爵が、頷く。
「そうだな。もう一度、よく考えよう。オデイエ卿に怪我を負わせた奴に、連れ去られたのは間違いない」
ノワゼット公爵が真剣に眉根を寄せる。
「屋敷にいないことが間違いないなら、もう外に出たという他、考えられない。しかし、出口は封鎖していた。それなら、考えられることは、何だ?」
「一、まだこの敷地内にいて気配を隠して潜んでいる。二、門を何らかの方法ですり抜けた。三、他に誰も知らない出口がある。ってとこですか?」
ロンサール伯爵の言葉に、全員が頷く。
白獅子の副団長、ガブリエル・ラバグルートが、斜線だらけの図面を見つめ、眉間に深い皺を刻む。
「一、まだこの敷地内にいる。は、おそらく難しいと思う。レディ・リリアーナは、気配を操れないだろう?……その……もし、無事なら、隠すのは難しい筈だ」
「二、門を何らかの方法ですり抜けた。はどうだ? 有り得るか?」
「それは絶対にない、と言い切れる。流石に、俺達をそこまで嘗めてもらっちゃ困る。
レディ・リリアーナどころか、猫やネズミの子一匹、外には出していない」
「ということは、三か……。他に、出る方法があるのか……?屋敷の外に」
もうひとつ、外に出る方法。
あの時、リリアーナが王立図書館で借りていた本。
――あれは、
「……地下水道だ」
全員の視線が、こちらを向く。
題名は、確か、
――『旧市街・王都に眠る地下水道の歴史』
その場にいた全員が、頷き、地図に向かう。
「なるほど……数百年程前に作られ、今は使われていない地下水道が、王都の下に張り巡らされている。それが、この下にも通っているなら……」
「地下水道か……繋がってそうな場所っていうと……これか……?」
「「涸れ井戸か……!」」
何人かの声が重なる。
部屋にいた数人の騎士が、庭園に向かうのを見送り、ノワゼット公爵が、鳶色の瞳を細めて口を開く。
「宝石が無くなったと気付いた時点で、犯人はまだ、理由は不明だが、屋敷に留まっていた。
その後、オデイエを襲い、リリアーナを連れ去った。つまり、犯人は招待客ではあり得ない。招待客の全員が帰ったのは、確認したんだからな。
もし、リリアーナの他に、屋敷にいる筈の人間で、居なくなった奴がいたとしたら……」
ドーン公爵が、後を引き取った。
「そいつが、真犯人ってことだ」
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