第2話 父

 当時、五歳だったわたしは、父が姉に注ぐのと同じ愛情をわたしには注いでくれないことを知っていた。


 いや、その言い方は相応しくない。

 父には、わたしの姿が見えていなかった。

 光を浴びた湖のような碧い瞳に映してもらいたいとどれほど願っても、その眼差しはいつも、わたしを通り越してしまう。父の前では、幽霊か透明人間になった気分になるのが常だった。


 幼いわたしには、理由がさっぱりわからなかった。


 ――がんばりが足りないんだわ。


 父に気に入ってもらえるよう、精いっぱい努力した。淑女らしいマナーを早く身に着けられるように。勉強も頑張った。家庭教師や大人たちのいうことをなんでも聞いた。


 そうしたら、いつか美しい父と天使のような姉のいる、あのキラキラ煌めく世界に入れてもらえるに違いない、そう信じていたのだ。


 ――そしてこの日は、ついに父の方から話しかけてもらえた、記念すべき日。


「ついておいで」


 食事の後、父に連れられて行ったのは、広大な屋敷の最上階にある屋根裏。中でも一番端っこにある部屋だった。


 もとは使用人の相部屋だったのだろう。バスルームや洗面台の他、簡易キッチンらしきものもついている。

 窓とカーテンは締め切られ、家具も何もない。やけに広々として、寒々しい印象の湿っぽい部屋だった。

 さっきまで明るい東棟のホールにいたせいか、そこはやけに薄暗く、陰鬱に感じられた。


 父であるロンサール伯爵は、腰をかがめ、もの珍し気に辺りを見回すわたしと目線を合わせた。


 わたしも慌てて背筋を伸ばし、父の瞳をまっすぐに見つめ返す。


 父は美しい人だった。うっとりするくらい綺麗に透き通った碧い瞳はいつも憂いを湛えていたが、その時はより一層、悲しみに陰っていた。


「リリアーナ、とても残念なことだが、お前は、わたしの娘ではない」


 咄嗟に言われたことの意味が分からず、ぽかんと口を開いたわたしに向かって、父は続けた。


「我がロンサール家が、世間で何と言われているか、知っているか?」


 ふるふると首を横に振った。


「……何でも、ずっと昔に月から降りてきた精霊がいて、その子孫だとか噂されているそうだよ。

 まあ、馬鹿げた噂だが、そんな噂が立つほどに容姿に恵まれている一族、という意味らしい。

 その馬鹿げた噂のお蔭か、ロンサール家は有力な家門と婚姻を結び、繁栄してきた。

 それに、お前の母、キャサリンも……とても美しかった。まるで本当に、月から降り立った精霊のように……」


 母の名を呼んだ父は、愛しい人を懐かしむように目を閉じた。深い悲しみの色すら、どこか神がかった父の美しさを霞ませることはできない。


「それなのにどうだろう? リリアーナ、お前のその闇色の髪と瞳は。

 幼いお前にはまだわからないだろう。わたしのこの苦しみが。

 キャサリンはもうこの世にいない。お前と命を交換して、逝ってしまったからね。

 わたしは……わたしは、お前のその醜い顔を見る度に、気が狂いそうになる。もうこれ以上、耐えられそうにない」


 まだ五つだったわたしには、言われている意味が理解できなかったが、自分が大好きな父をひどく悲しませていることはわかった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、おとうさま。わたし、これから もっといい子になって、おべんきょうも がんばります。そうして、いつか、このかみも、おねえさまみたいな、きれいな金色になれるように、目だって、あおくなれるように、がんばります。だから、」


 悲しまないで、と言う前に、父はもっと悲しそうに顔を歪め、首を振った。


「そうなったら、どんなにいいだろうね。可哀そうなリリアーナ。けれどそれは、どうやったって、無理なんだ。

 ……だから、お前は今日から、この部屋で暮らしなさい。必要なものはここに揃っているし、食事だって心配はいらない。

 ただひとつ、絶対に守るべきことは、今後一切、わたしとブランシュや外の者の目に触れてはいけない。

 誰とも関わらず、その醜い顔を誰の目にも触れさせず、ここで暮らすんだ。

 どうしても外に出たい時は、人を絶望させる、その黒い髪と瞳は、隠しておくように。

……わかったね」


 これから先、大好きな父と姉に会えなくなることは死ぬほど辛いことだったが、悲嘆に暮れる父をこれ以上、悲しませたくなかった。


「わかりました。おとうさま。わたくし、おやくそくします。これからはぜったいに、おとうさまとおねえさまに、ちかづきません。だから、かなしまないでください」


 いつのまにか、わたしの頬は涙で濡れていた。


 父は最初で最後に、そっと抱きしめてくれた。

 あたたかくて、やさしい抱擁だったと思う。


「可哀そうなリリアーナ、お前は何も悪くない。わたしにだって、それはわかっている。お前が飢えなくとも済むように、食事は運ばせる。ここから追い出したりはしない。一生、ここで安穏と暮らせばいい。お前はそれでも、キャサリンの産んだ娘なのだから……伯爵家の面子は、守らなければならないからね」


 父は立ち上がると、背を向けて歩き出した。


「さようなら、リリアーナ」


「はい。おとうさま。わたくしのために、ごはいりょくださって、ありがとうございます。どうか、おげんきで」


 その背中に向かって精一杯の『淑女の礼』をするわたしを残して、一度も振り返らぬまま、父は出て行った。



 そして本当に、亡くなってしまうまで二度と、目を合わせることも言葉を交わすこともなかった。




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