第3話 わたしの秘密と美しい姉

 屋根裏で暮らし始めたばかりの頃、わたしはまだ、希望を捨てていなかった。


 部屋の窓から、父と姉のブランシュが笑いさざめきながら、季節の花に彩られた散歩道を歩くようすが見下ろせた。


 自分もいつか、二人と並んで庭の散歩道を歩ける日が来ることをうっとりと夢想した。


(お父さまだって、ちゃんと言うことを聞いて、しっかりお利口にしていれば、きっといつか許してくれるわ)


 屋根裏に与えられた自室に閉じ籠り、どうしても庭や図書室に行く時は、マントのフードを目深にかぶる。父を悲しませる醜い髪と瞳をすっぽり覆って、人と顔を合わさないよう過ごした。


 事情を知らない姉のブランシュは、時折、屋根裏のドアを叩いた。


「リリアーナ、体調はどう? お父さまから重い病気になったって聞いて、とても心配してるのよ……。元気になったら、またいっしょに絵本を読みましょうね」


「リリアーナ、もう元気になった? いっしょにお茶を飲まない? 珍しい茶葉があるの。甘い苺クリームみたいな香りがするのよ。マカロンもあるのよ。好きでしょう? フランボワーズのマカロン。ね、お願い」


「リリアーナ、お散歩しない? つる薔薇のシュネービッチェンが綺麗に咲いてるのよ。お天気も良いし、ねえ、一緒に……。お父さまが、……もう、リリアーナのことは忘れなさいっていうの。どうして……?」


 この屋敷に於いて、父の命令は絶対だ。


 父の言いつけを守り、決してドアを開けず、丁重に断り続けた。

 ブランシュは毎回、駆け付けた使用人に窘められ、泣きながら連れ戻されて行った。


 ブランシュがやって来る回数は、日を追い、月を追い、年を追う毎に少しずつ減ってゆき、やがていつしか訪れなくなった。



 母の時代からいた使用人たちは、幼いわたしを憐れみ、優しく接してくれた。

 屋根裏で暮らし、父とブランシュに会えなくても、彼女たちのお陰で幸せだった。

 今にして思えば、父の目を盗み無理をして助けてくれていたのだと思う。


 薄暗く、がらんとしていた屋根裏部屋は、彼女たちがあっという間に居心地よく整えてくれた。

 こんなものしか用意できなくてごめんなさい、と言いながら、運び込んでくれた家具や衣類。

 いつだって清潔に保たれた部屋。

 窓辺に飾られた、瑞々しい季節の花。

 食事やおやつは、これまでと変わりない、バランスの整った、好きなものばかり。

 簡素なキッチンに鍋やフライパンを備えつけ、一緒に焼き菓子を作ってくれた。

 冗談を言って、いつも笑わせてくれた。

 すぐにここを出られる日がきますからね、と言って、礼儀作法や刺繍を教えてくれた。


 時が経つごとに、沢山いた親切な使用人は、ひとり、ふたりと辞めて行った。


 最後に残った、亡くなった母よりも年上だと思われる二人は、優しい瞳をうっすら潤ませて言った。


「リリアーナ様、もしかしたら、わたし達もいつか、お世話ができなくなるかもしれません」


「その時の為に、お一人でも暮らしていけるように、色々なことを、お教えしておきます」


 一人は、古参の侍女。もう一人は、家庭教師。


 取り巻く状況が悪い方に進んでいることを察して、不安に陰るわたしの顔を見て、二人は取り繕うように言った。


「あくまでも、念の為、ですからね。あまりご心配なさらないで」


「悲しいことは、すぐにお終いになります。だから、そんなことには、きっとなりません」


 優しく物知りな二人は、色んなことを教えてくれた。

 屋根裏に来てくれるのは、朝の早い時間と眠る前のほんのひとときだけだったが、算数、国語、歴史、外国語から掃除や洗濯、裁縫の仕方まで、沢山のことを教えてくれた。

 二人と過ごせるわずかな時間はひどく楽しくて、わたしは出された課題にも夢中で取り組んだ。


 彼女たちのお陰で、今日、わたしは生きている。

 やがて十歳になる頃。ある日突然、彼女たちは部屋を訪れなくなった。


 恋しくて、元気かどうか知りたくて、感謝の気持ちを伝えたくて、『どうか彼女たちに送ってください』とメモを付け、図書室の机の上に置いた二通の手紙は、翌日、ごみ箱の底でくしゃくしゃになっていた。

 わたしはそれを拾い上げ、丁寧に皺を伸ばして今も持っている。


 ――もう一生、会えることはないのだろうとわかっているのに。



 代わりにやってきた新しい使用人たちは、父にそう命じられているのか、わたしがまるでそこにいないかのように振る舞った。

 食事だけは一日に三回、屋根裏部屋の前に置かれた木製の台の上に置かれている。けれど、それ以外の用事で部屋を訪れる者は誰もいない。


 誰かと口を利くことすらなくなり、わたしは、とうとうひとりぼっちになった。


 幸運だったのは、自分のことは自分でできるようになっていたことだ。


 

 それからしばらく経った夜更け。

 その頃は、万が一にも父やブランシュと顔を合わせないよう、夜中か明け方、こっそり部屋を出ていた。


 屋敷の図書室は小さな村の図書館ほどの規模はあると思われた。

 数えきれないほどの蔵書が、広い部屋の四方の壁一面をずらりと埋め尽くす。


 わたしに出入りが許されていたのは、屋根裏部屋と図書室と庭園だけだったが、図書室の本を自由に読めることで、随分救われた。

 本を読んでいる間だけは、屋根裏ではなく、本の世界の住人になれた。

 その中では、自由で、幸せで、孤独でもなく、何にでもなれた。


 夜明け前、まだ屋敷が寝静まっている時間。暗がりの中、ランプを手にゆっくり本を選んでると、ふいに床の上できらりと光る何かが目に入った。

 屈んでよく見ると、ロンサール家の家紋が繊細に施された銀色のロケット。ずっと昔、父の胸元に見たもの。


 拾い上げると、蓋はひとりでにぱちんと開いた。落ちた拍子に留め金がずれていたのだろう。

 中には、美しい女性の肖像画が入っていた。

 ぼんやりと古ぼけた絵の中ですら、その人は見目麗しく輝いていた。


 ――母だ。


 一目でわかった。

 ブランシュが成長したら、きっとこんな風になるのでは、と思った。


 肖像画や写真は全て、父が哀しみが増すと焼いしまっていた。わたしは母の顔を知らなかった。それでも、一目でわかった。


 記憶に残っている筈もないのに、愛しさと懐かしさが胸にこみ上げて、涙が勝手に零れ落ちた。


 ロケットの中の母は、父とブランシュと同じ、金色の髪をしていた。


 それでようやく、父がわたしを憎む理由がわかった。


『お前はわたしの娘ではない』


 あれは、何かの含みを持たせたのではなく、言葉通りの意味だった。

 両親ともに金色の髪をしているのに、わたしのような黒髪の娘が生まれる筈がない。


(わたしは、……父の娘ではなかった)


 父はあの時、母はわたしと命を交換して逝った。と言っていた。母はわたしを産んだせいで亡くなったのだ。


(父の娘でもないのに、母の命を奪った)


 急に息苦しくなって、胸が押し潰されるように痛む。

 銀のロケットを机の上に置き、ふらつく足取りを支えるように壁に手をつきながら、その場を離れた。


 父に愛される日が決して来ないこと、父とブランシュの煌めくさざめきの中には決して入れないことを、ようやく理解した。


 その日から、屋根裏の窓から垣間見る父とブランシュの光を纏う幸せな姿は、手の届かない存在への憧れそのものになった。

 



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