第98話 約束

 伸ばされた手が頬に触れ、硬い親指がなぞる。赤い瞳は、愛おし気に細められている。


(……あれ?)


 愕然とするわたしを見やり、ウェイン卿はぱっと手を離し、「しまった」という表情を浮かべた。


「すみません……嫌でしたか?」


(あれれ?)


 落ち込んだ子供のような目をして問われて、慌てて答える。


「いいえ、そんなことは!」


 むしろ一生の記念に致します、と続けかけた痛い台詞を呑み込む。


 ウェイン卿は、ほっと安心したような表情で、かつて見たこともない晴れやかな笑みを浮かべた。


 わたしの手を取り両手で優しく包むようにした後、指と指を絡めて握る。

 驚いて見上げると、わたしを見つめる瞳が慈しみに満ちていて、胸がぎゅっと熱く高鳴る。


(ん? これ……なーんか、違和感、あるくなくない……?)


 そこはかとなく、何かが噛み合っていないような……?


「ところで、……気になっていたことがあります」


「は、はいっ!」


「以前……夜更けに、林の方に行こうとされていましたよね。お一人で……俺は、貴女にひどい態度を取りました。あれは、どこに行こうとされていたんでしょう?」


 あの夜、告白しなければならないことを思い悩み、あの老人に会いたくなったことを思い出す。

 しかし、夢か幻で逢った老人に救いを求めて会いに行こうとしました、とは、なかなか言いにくい。


「……ああ、いえ。それも、本当に、くだらない理由ですから」


「はい」


 適当に誤魔化そうと思ったのに、ウェイン卿はわたしの目を真摯な表情でじっと見つめ続け、誤魔化されてはくれなかった。


 それから? という目をしている。


「あのー……本当に、びっくりする位、くだらない理由ですが、それでも、お聞きになりたいですか?」


「はい」


 ウェイン卿は、ほっとしたように目元を緩め、頷いた。


「あの……あの夜は、不安な気持ちに押しつぶされそうで、それで」


 いつか林の中で見た、不思議な老人の白昼夢の話をした。

 それから、その後、老人ともう一度、夢の中で会ったことも。

 目が覚めたら三日も経っていて、と言うと、繋がれた手にぎゅっと力が籠もった。


 話しながら、あの老人は、夢で見た幻ではなく、本物の魔法使いだったのかもしれない、と思う。


 ――変わり映えしなかったわたしの人生が廻り始めたのは、あのおじいさんに出会ってからだった。


「……というわけで、もしかしたら、あの林に行けば、もう一度会えるかも知れない、などと思いまして……本当に、馬鹿げた、くだらない話でしたでしょう……?」


 話し終わると、ウェイン卿はわたしの目をじっと見つめていた。その眼差しが真剣そのもので、思わず緊張して背筋を伸ばす。


「俺は、さっき貴女に何も無理強いしないと言いましたが、これだけは、約束してください。これからは、心配事がある時は、必ず俺を呼んでください。それから、林へもどこへも、絶対にお一人では外出されないように」


「……はあ」


 でも、ウェイン卿はお忙しい身の上。

 しょうもない理由で呼びつけるなど、できるはずもない。


 見透かしたように、ウェイン卿が瞳を眇める。


「一応、確認しますが、俺が忙しそうだから悪いなぁ、とか思っていませんよね?」


「まあ……よくおわかりになりますね……!」


「なんとなく、貴女の思考回路が読めるようになってきました」


 柔らかく笑う。


「……俺は、貴女に頼られたいと思っています。むしろ、俺のいないところで、……こ、……婚約者の貴女が、一人で夜の林に行ったり、王都のはずれまで歩いて行ったり、危険な場所に潜入していたりするかもしれないと考えると、心配で頭がおかしくなりそうです」


 途中、なぜか照れたように頬と耳を赤く染めながら、真剣な顔で言われて、私はこくこくと頷いた。


「は、はい! わかりました。お約束します」


「あと、もう一つ」


「はい」


「…………」


 そのまま、ウェイン卿は考え込むように黙ってしまった。

 しばらく沈黙してから、言いにくそうに、目を伏せて、ぽつり、と呟く。


「……ケーキが、お好きなんでしょうか?」


「……はい? ケーキ、でございますか?」


「はい、『ブルームーン』のケーキです」


『ブルームーン』は今、王都で一番人気のあるコンフィズリーらしい。

 先日、ロブ卿が持ってきてくださって、とても美味しかった。


「はい、先日、初めて頂きましたが、とても美味しかったです」


 ウェイン卿の眉間に深い皺が刻まれる。


「……初めて……?」


「はい」


 なぜか、物憂げに目を伏せてから、瞳を眇める。


「……ケーキは、今度から、俺が持ってきます」


「……はい?」


「それで、構いませんか?」


 神妙に問われて、まったく意図はわからなかったが、慌てて頷いた。


「は、はい、承知しました」


 ウェイン卿は、また嬉しそうに、晴れやかに笑った。


 その顔を見ると、体中ぜんぶ、幸福感でいっぱいになった。


 とりあえず、何がなんだかよくわからない理由によるものだったとしても、このわたしが……ウェイン卿と、婚約……? しかし、


(さっきから、何かがおかしい……?)


 ウェイン卿の眼差しと態度ときたら、これじゃ、まるで、まるで――


 悶々としていると、ウェイン卿がわたしの顔を覗き込むようにしながら、優しく瞳を細めた。


 最高の最高のそのまた最高に素敵な、笑い方だった。


 繋いでいない方の手を、目の前の輝きに付いて行けず、ぱちぱちと瞳を瞬かせるわたしの顔に向けて伸ばすと、愛おしげに髪と頬に触れ、壊れ物を扱うみたいに、そうっと撫でた。


「必ず、大切にするとお約束します――」


(……あれ?)


 あれあれあれあれあれ?


 赤い瞳は、まっすぐにわたしの目を見て続けた。



「――愛してます」





「……はああっ?」




 何ですって?







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