第97話 説得

「……はい?」


 今、何か聞き間違えた?


 ウェイン卿は、真剣な眼差しを向ける。


「婚約者のいない適齢期の貴族女性の生活は、目が回るほど忙しいものです。レディ・ブランシュがノワゼット公爵と婚約を決めるまで、どんな生活を送っていたか、ご存じでしょう? ゆっくり過ごす暇も、図書館に通う暇も、本を読む暇すらありません。それは、貴女の本意ではないでしょう?」


 言われて、わたしはこの二年の間のブランシュの様子を思い浮かべた。

 毎日、玄関ホールに山のように積まれていた招待状と贈り物と花束。頻繁に訪れる男性貴族。

 

 毎日のように、ブランシュは着飾って昼食会に赴き、夕方に帰宅したと思ったら、イブニングドレスに着替え夜会へと出向いて、夜も更けてからようやく戻っていた。流石に疲れた顔をしている時もあり、人知れず心配していたのを覚えている。


 はっきり言って、引き籠り歴十二年のわたしに務まるとは思えない、超の付く過密スケジュールだった。


「……まあ、まさか! ブランシュとわたくしは違いますから、あのようなことには、ならないかと存じます」


 軽く笑って応えると、ウェイン卿は、瞳を眇め、きっぱりと断言した。


「いいえ、必ずそうなります」

 

 迷いなく言い切られて、不安に襲われる。


(そ、そうなの……?)


 ブランシュとわたしは月とすっぽん、と言うとすっぽんに申し訳ないくらい違う。あんな風になるはずない。


 しかし、ランブラーが正式にわたしの後見人になった以上、誘われた夜会に出席しなければ、ランブラーの面目を潰すことになる……?


 ウェイン卿が、耳元で、低い声で静かに囁く。


「図書館は、『罪作り』な場所なんでしょう? 行けなくなるのは、お嫌ではありませんか?」


「……独り言は、ちゃんと聞いてらっしゃったんですね……」


 恥ずかしい独り言をぶり返され、恨みがましく軽く睨むと、ウェイン卿は目を細めて瞬いた後、ふっと意地悪そうな笑みを浮かべた。


「はい、それはもう。あの台詞は、強烈でしたから」


「……はあっ?……い、意外と意地がお悪い……!」


 ウェイン卿は、さっきまでの青い顔はなりを潜め、してやったり顔である。

 しかし、意地悪にすら、甘く高鳴る胸。こっちはこっちでどうかしている。

 

(忙しすぎて、図書館に、行けなくなる……?)


 ――いやいやー、そんなわけない……


(……いや、でもまてよ……)


 そもそも、ランブラーとブランシュは、社交界の人気者である。二人に気を遣って、渋々だけど、わたしも招待される……?そして、それを断ることは、失礼にあたる……?


 夜会にのこのこ出て行ったとして、どう振る舞ったらいいんだろう? ダンスも踊れない。何を話したらいいのかもわからないコミュ障。社交界に友達もいない。エスコートしてくれる人もいない。毎回、ランブラーかロブ卿に頼むの……?


(……あれ? 困るな、これ、わりと困るな……)


 沈痛に考え込んでいると、隣から悪魔の囁きが聞こえてきた。


「ですが、既に婚約さえしていれば、何の問題もありません。無理して夜会に出る必要もなければ、山のような招待状も花束も届かないでしょう。さすがに、世の男たちも、そこまで恥知らずな真似はできないでしょうから」


「……そういう、ものですか……?」


 おそるおそる尋ねると、ウェイン卿は美しい笑みを浮かべて、ダメ押しとばかりに、畳みかけてくる。


「そういうものです。ですから、俺と婚約すれば、すべて解決します」


「……いやぁ、でも」


「俺は、貴女がしたいと思われるまで、結婚を無理強いしないと約束します。他にも、貴女が望まないことは、何ひとつ、無理強いしません。貴女は、それで、煩わしいことから逃れられる。貴方は自由に、やりたいことをしてくださって構いません。それなら、貴女にとって、そう悪い話ではないでしょう?」


 口許は微笑んでいるけれど、ウェイン卿の眼差しは真剣である。ほんの少し、揺らぎかけた心を押し留める。


「いえ、ですが、やはり、ウェイン卿に、……将来、他に好きな方ができたとき、」


 言いかけた途中で、はあ? みたいな顔をされる。


「そんなことはあり得ませんから、考える必要はありません」


 きっぱりと、言い切られた。


(……誰のことも好きにならない自信がある、ってこと?)


 ――だけど、わたしは知っている。


 恋は、雷に打たれたように、落ちてしまうもの。


 そうなってはもう、抗えない。

 己の意思の力では、どうにもできないのだ。


 ――でも……と声が囁く。


(もし、本当にそうなら)


 本当に、婚約してからずっと、ウェイン卿が誰のことも、好きにならなかったら。


 ――ずっと、ウェイン卿の傍にいられる……?


(って、だめだ……! 現実は、そんなに甘く微笑んだりしない)



「……あの、ですが、わたくしは、ずっと引き籠っていましたから、社交能力に欠けます。ウェイン卿の婚約者などという大役は、とても務まらないかと存じます」


 ウェイン卿は呆れたように瞳を眇める。


「……俺の知る限り……さっきの手紙からしても、貴女の社交能力は、ありすぎるくらいだと思いますが……。どちらにしても、婚約者としてこう振る舞ってほしいなどと、貴女に要求するつもりはありません。貴女は、貴女の好きなように過ごしてくだって構いません」


「……はあ……」


 それほどまでして、こんなわたしと婚約したいとは、一体、ノワゼット公爵からどんな便宜を図ってもらえるんだろう。


「俺と婚約するに際して、他に弊害はありますか?」


 赤い瞳は、迫力を込めて一層、眇められる。


「え、ええと、弊害……? そうですね、わたくしはダンスの踊り方も存じませんので、夜会などに出る場合に差し障りが……」


「貴女が踊りたくないなら、踊る必要などないでしょう。夜会も出たくなければ出る必要ありません。ですが、貴女が夜会に出て踊ってみたい、と望まれるなら、もちろん協力します」


 ウェイン卿は真剣な目をして、気迫たっぷりに、すぱすぱと切り返してくる。なんだか、押し問答の様相を呈して来た。


 その口調は早口で、まるで、余裕がなく必死であるようにも聞こえた。


「……はあ、なるほど……」


 ……そこまで仰るなら、と言いかけて、慌てて言い直す。


「いえ! あのっ、それに! 馬の乗り方も知りませんし」


 どうだ! 騎士を生業にされる人にとっては、致命的な欠点であるに違いない! と思ったが、ウェイン卿はまたしても、すぱっと返してきた。


「馬には、俺と一緒に乗ればいいでしょう? どこにでも、お連れします」


「……あのっ! そう! わたくしは、すごーく評判が悪いです。魔女だとか黒魔術師だとか、もっと恐ろしいことまで言われているのをご存じでしょう? わたくしと婚約などされては、ウェイン卿の評判にも、傷が付いてしまいます」


「俺の評判も十分最悪ですが、気にしたことはありません。貴女の評判については、俺は全く気にしませんが、貴女が気にされるなら、何とかします」


 何とかします、と言った時の赤い瞳が不穏にぎらりと光った気がして、ひやりと心臓が冷える。


(まさか……とは思いますが、新聞記者を捕まえて、○○したり、△△したり、□□したり……されませんよね!?)


「いえ! あんな噂、全く気にしておりません! むしろ、わたくしのことをあれほどミステリアスに、力強く描写してくださって、感動して何度も読み返すほどでした!」


 ウェイン卿は、秀麗な顔を綻ばせて美しく笑う。


 深い笑みの奥に闇を感じるのは、気のせい?


「それじゃ、何も問題ありませんね」


「……いえ、あのー、でも、」


「他にも、何か問題がありますか?」


「あの……わたくしが、……ここで、このような形で婚約を了承することが、本当に、ウェイン卿の為に、なりますか?」


 赤い瞳は、優しく細められ、柔らかな吐息が落とされる。


「はい、それはもう、間違いありません」


 その瞬間、わたしの心は、ぐらり、と揺らいだ。


(本当は、駄目だって、わかってる……)


 ここで頷いたら、十中八九、後悔することになる。だけど……


 ――ここまで言ってくれるのなら……



(……例え、束の間の夢でも)



 ……人生最高の幸福に酔いしれなさい、と天から告げられている気がした。




 息を吸って、もう一度、考える。


 それから、顔を上げて、赤い瞳を覗き込んだ。



「……では、そのように、致します」


 ウェイン卿は、その目を見開いた。おそるおそる、ゆっくりと口を開く。


「……それは、……つまり……、婚約、してくださる、ということですか?」


「はい」


 ウェイン卿の顔が、ほんのり赤くなっているように見える。


「ほ、本当に?」


 そう聞かれると、自信がなくなってくる。


 ――本当の本当に、これが貴方の為になるんですよね?


「はい」


 ウェイン卿は、しばらくの間、目と口をぽかんと開けて、わたしを見ていた。



 それから、晴れやかに破顔して笑った。


 その顔は、あまりにも素敵で、くらくらした。


「有り難うございます」


 ウェイン卿の大きな手が上げられて、そっと近づく。


 

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