第96話 チャンス

 人気のないベンチの前まで来ると、優しい手つきで、そっと降ろされる。


 促されるまま腰を下ろすと、ウェイン卿は自身の右手を差し出して、わたしの右手の下に重ね、目の前に跪いた。掌の重なった部分が、じわりと熱を持つ。


(えーと……? これ、なに?)


 ウェイン卿はひどく思い詰めたように眉を寄せ、視線を下げたまま、口を開いた。


「令嬢は、……わたしのことがお嫌いでしょうか?」


「……はあっ? まさか! そんなわけありません!」


 はっきり言って、ずっと前から恋している。


 しかし、言わないと決めたのだ。この恋が叶う筈がないことは、初めからわかっていた。

 この想いは、生涯胸に秘め、墓場まで持って行く。



 ウェイン卿は、小さく息をついた。

 少し迷ったように黙ってから、苦しそうな顔をする。


「では……慕われている方は、おられますか?………………ロブ卿でしょうか?……あの、レオンとかいう男でないことを祈りますが……」


 途中からはとても小さな声で、風の音にかき消されて、よく聞き取れなかった。

 

「いいえ。お慕いしている方はおりません」


 ウェイン卿はそっと息を吐く。



(もういっそ、貴方が好きです、と言ってみる?)


 ――へー、そうでしたか。いつからですか?


 ――はい、かれこれ二年も前からずっと、物陰からこっそりと気付かれないように見つめ、あれこれ妄想にふけっておりました。


 ……正真正銘、ホラーである。


 この場でストーカー容疑で斬り倒されても文句は言えない。


(……だめだ、言えない。絶対に言えない)


「それなら、令嬢、どうか、わたしと――」


「いいえ!」


 不穏な流れを察して、慌てて遮った。


 ――これ以上は、ダメだ。


 これ以上は、引き返せなくなってしまう。今までのだって、本当は駄目だった。ギリギリの瀬戸際。いや、もうオーバーしている。


 今だって、離れると思うだけで、寂しくて、会いたくて、顔が見たくて、声が聴きたくて、どうやったらいいかわからなくて、泣きそうになるのに。


(だけど、それでも、)


「ノワゼット公爵が仰っていたことでしたら、ウェイン卿ほどの方には、わたくしよりももっと、相応しい方がいらっしゃるかと存じます」


 急いで言うと、ウェイン卿は目を開いたまま、固まった。


 ――ウェイン卿の婚約者になりたい、なんて分不相応な望みを、抱いたりしない。


 ブランシュの妹であるわたしを哀れに思ったノワゼット公爵に命じられて、やむなく婚約したのだとしても、ウェイン卿はきっと、わたしを丁重に扱ってくれるだろう。


 ――束の間、わたしは目眩がするほどの幸福に酔いしれる。


 ずっと昔、父に初めて話し掛けてもらえた『海底』での朝のように。



(……でも、いずれ、甘い夢は覚める)



 ウェイン卿に心から愛する人ができた時、わたしはウェイン卿の重荷になる。その時は、きっと迷わず身を引くだろう。


 ――だけど、その頃にはもう、この人の幸せを、心から喜べなくなっている。


 苦しみに悶え、悲しみに暮れ、相手の女性を妬み、その不幸を願う。


 ……そんな風になるのだけは、嫌だから。



「……ウェイン卿とご婚約される方は、きっと誰よりも幸せになられるでしょう。ですが、わたくしは駄目です。そのようなこと、決して望みません!」


 口から出てきた声は、意図せず湿っていた。


 ウェイン卿は、目を見張ったまま、みるみる青ざめた。ゆっくりと目を閉じると、重ねていた右手を離し、立ち上がる。


 触れていた手が離れた瞬間、胸にぽっかり穴が空いたみたいな気がして、泣きたくなった。


 ウェイン卿の顔を見上げると、真っ青な顔をして、自嘲するみたいに薄く笑う。


「……きっと、そんな風に言われるだろう、とは思っていました」


 思った以上の打ちひしがれように、気が焦る。

 

 わたしと婚約すると、ノワゼット公爵から、よっぽどすごい便宜を図ってもらえる筈だったらしい。


(そこまでして欲しいものって、……一体なんだろう? 爵位? 領地?……かな?)


「あのう……、と、とりあえず、お座りになりますか?」


 ウェイン卿はふらふらと隣に腰掛け、青ざめたまま俯いた。


「あの……大変なお世話になっておきながら、肝心な時にお役に立てず、申し訳ありません……」


 ウェイン卿は自身の膝に肘をついて両手を組み、その上に項垂れた顔を乗せて、自嘲気味に微笑んだ。


「いえ……こればかりは、どうしようもないことですから」


(……身に余る、最高の夢を、見せてもらったな……)


 じわりと視界が滲むので、慌てて瞬きを繰り返しながら、最後に礼を言おうと、口を開く。


「昨日も、一昨日も……こうして、お近くでお話しできたこと、忘れません。本当に、今まで、ありがとうございました」


 ウェイン卿は、額を押さえる手をびくっと震わせたかと思うと、更に俯き、独り言のように小さく呟いた。


「……そうか、これで、……終わり?」


 ずっと、冷静沈着を絵にかいたような人だと思っていた。いつだって無表情で、決して喜怒哀楽など表すまいと思っていたウェイン卿の色々な顔に、近頃、やたらと遭遇する機会に恵まれている。


 誰にも弱味を見せたりしない人だろうと勝手に思っていたから、哀愁に沈むその様子には、穴の空いた胸がずきずきと痛んだ。


「……ウェイン卿でも、そんな風に落ち込まれることが、おありなのですね……?」


 思わず、口からついて出た言葉を聞いて、ウェイン卿は額を押さえたまま、寂し気に微笑した。


 その様子にさらに胸が痛くなって、思わず、「やっぱり婚約しても構いませんよ」と言いたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。

 それが、お互いの為だ。


 ここだけは、ほだされまい。


「はい、まあ、さすがに……覚悟はしていたつもりでしたが」


 そのまま、しばらく黙っていたかと思うと、俯いたまま、そっと口を開いた。


「……わたしは、落ち込んだりしなさそうに見えますか?」


「……あのう、もちろん、良い意味でですが、あまり、感情を表に出されない方なのだろう、と勝手に思っておりました」


 ウェイン卿は綺麗な瞳に哀愁を漂わせ、苦笑した。


「……わたしの印象は、なにもかも最初から最悪だったでしょう?……あれから、それほど時間も経っていないのに、婚約してほしいとは……、自分でもどうかしていると思います。……それでも、……わたしは、公爵が無理やり作ってくれたこのチャンスに縋るしか、ありませんでした」


 自嘲気味に呟くその顔が、後悔と悲しみに暮れているように見えて、胸に堪えた。


(……公爵様から、よっぽど凄いチャンスを貰える予定だったらしい……)


 筆舌に尽くしがたい程の世話になっておきながら、こんな時にお役に立てぬとは。申し訳なさが込み上げる。


(婚約は無理でも、なんとか、励ましたい……)


 最初の印象は最悪どころか、鴉を助けている場面だった。

 はっきり言って、気が遠くなるほど素敵であった。しかし、洗いざらい言ってしまうと、ストーカーが発覚すること必至。


 今、言われている最初の印象とは、グラミス伯爵夫人とお会いした日のことだろう。


「そんなことはありません。公爵様からわたくしの処分を命じられていらしたのに、セシリアさまのお宅では、あやうく大怪我をするところを、庇っていただきました。クルチザン地区でも、腕を掴まれそうなところを助けていただきました。ずっと、お強いだけでなく、お優しい方だと思っておりました。ウェイン卿ならきっと、これからも何度も素晴らしいチャンスに恵まれるに違いありません!」


 ウェイン卿は目を細めて、悲しげに笑った。


「……貴女から、……最初に話し掛けられたのは、図書館へ向かう馬車の中でした。あの時、わたしは耳を傾けてすらいませんでした。……叶うなら、過去に戻ってやり直したいと……あの日、馬車の中で、貴女から問いかけられる前にまで戻れたなら、せめて、あの時からやり直せたならと、何度、願ったかわかりません」


 ウェイン卿は苦しそうに、理解できないことを言った。


(……そ、そんなに? そんなに、気にしていたの?)


 ――せ、誠実だなぁ……!


 騎士として、紳士として、あるまじき態度だった、と悔いているのかもしれない。


「あのう……、わたくしは、本当に、全く気にしておりませんので、どうか、お気になさらないでください。わたくしにまつわる噂や、我ながら怪しすぎる振舞いを思えば、あれは当然の対応です!」


 ウェイン卿は打ちひしがれたままに、そっと微笑む。


「……貴方と婚約できるのは、どんな男なんでしょうか……? 貴女が、誰を選ばれたとしても、できれば、それでも」


 ウェイン卿はまだ何か言いかけたが、わたしは驚いて言った。


「婚約なんて、一生、どなたともするつもりはありませんが……?」


「……はあ?」


 ウェイン卿は、瞠目して固まった。


「わたくしの悪名をご存じでしょう? お相手の方にご迷惑をおかけします! わたくしは、ランブラーが屋敷に居ても良いと言ってくれたら、そうしたいと思っておりますが……まあ、修道院に入るなり、今後の身の振り方は、これから考えます」


 言いながらウェイン卿を見ると、ぽかん、と口を開けてわたしを見ていた。その顔色が青ざめておらず、いつも通りに戻っていたので、ほっとする。


「……それは?……つまり? 相手が、俺だから婚約したくない、ってわけじゃないってことですか?」


 あ、また「俺」って言った、と思いながら、はい、もちろんです、と深く頷くと、ウェイン卿は神妙な面持ちで考え込むように黙った。


「…………」


 ひとしきり黙った後、何か決心したようにわたしの目をまっすぐに見つめる。



「それなら、やっぱり、俺と婚約しませんか?」






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