第101話 家族(ランブラー・ロンサール視点)

 ランブラー・ロンサールは執務室の椅子に深く腰掛け、マホガニーの机にグラスを置いた。ランプに照らされたグラスの中で、琥珀色の液体が揺らぐ。


 上着の内ポケットから古びた銀のロケットを取り出し、パチン、と小さな金属音を立て、蓋を開けた。



「やっぱり、レディ・リリアーナによく似てる」


 グラスを片手に後ろから覗き込んだウィリアム・ロブが、優しく声をかける。


「……そうだね」


 実際、初めてリリアーナの顔を見た時は衝撃を受けた。


(生きて、たのか……?)


 そんなはずはないと、すぐに我に返った。


 ロケットの中で微笑む少女は、僕の妹だ。


 名前はドロシー。


 たった八歳で逝ってしまった。




 父が母と結婚した時、祖父は父を勘当した。


 蝶よ花よと育てた、名門ロンサール伯爵家の次男が、下働きのメイドと結婚したいと言い出したんだから、まあ至極当然な話である。


 父は名声と金と権力よりも愛を選び、二人は田舎にある母の実家で暮らすことになった。

 母の両親はすでに亡くなっていたけど、二人は幸せだったと思う。

 喧嘩してるとこなんて見たことないし、お互いを想い合っていた。


 かすがいにも恵まれた。


 父そっくりの金髪碧眼を持つ僕と、母と同じ黒髪に榛色の瞳の三歳下のドロシー。

 父は田舎で事務の仕事につき、母はお針子をして生計を立てていた。

 小さな家の小さな庭で野菜を育て、貧しいなりにも慎ましく幸せに暮らしていたと思う。


 あの頃は、くだらないことで毎日笑ってた。

 腹には物足りない食事でも、ほっぺたが落ちるほど美味かった。

 あの日々のお陰で、幸福度と裕福度は比例しないという真実に、僕は比較的早くに気付くことができた。



 僕が八つの時。仕事帰りの父が、見ず知らずの小さな女の子を庇って、馬車に轢かれた。

 ベッドに運び込まれた父は言った。


「何かあったら、兄さんを頼れ。兄さんは、きっと力になってくれる」


 それだけ言い残すと、あっさり亡くなってしまった。



 母と僕と妹の三人だけになってしまって、母の瞳には一生消えない陰りが宿り、小さな家に溢れていた笑いは少し減り、食事はさらに質素になったが、それでも何とかやれていたと思う。

 お針子の母の収入はギリギリだったけれど、村の皆が親切にしてくれたから、暮らしていくことはできた。


 思えば、ずいぶん助けてもらったと思う。皆、元気でやっているだろうか?

 僕は村一番の神童と呼ばれるくらい頭が良かったから、いつか立派な仕事に就いて、母と妹に楽をさせてやるのが夢だった。



 不幸はある時、突然訪れた。


 ドロシーが倒れたのだ。


 僕が十一歳で、ドロシーはまだ八歳だった。


 村の医者は言った。


「この病気は、村では治せない。王立病院で診てもらわないと」


 うちにそんな金はなかったが、村の皆がカンパしてくれて、王立病院で診てもらうことができた。名医と呼ばれる男は言った。


「手術をすれば、治せるかもしれない」



 ただし、それには法外な金が必要だった。



 僕は母に連れられて、父の実家であるロンサール伯爵家の壮麗な門を初めてくぐった。

 庭園は、ドロシーの好きな、ウサギを追いかけた少女が不思議な世界を旅するって話の絵本の挿し絵そっくりに完璧に手入れされていた。

 ドロシーにも見せてやりたいもんだな、と柄にもなくちょっと感動した。きっと喜んだだろう。


 

 更に上を行く驚きが、屋敷を間近に見上げた僕を襲った。外から見る限り、一体、部屋がいくつあるのか、想像することもできないくらいデカかった。

 馬車ごと入れそうなだだっ広い玄関ホールには、天井から垂れ下がったシャンデリアのクリスタルが集めた光を弾いて溢れ、その場の全ての物が天国を思わせるほど煌びやかな輝きを放っていた。


 母が名乗り、用件を伝えると、執事は神妙に眉を寄せて頷き、伯父であるロンサール伯爵の執務室に通してくれた。


 父を勘当した祖父は、とっくに亡くなっていたらしい。


 伯父は今まさに僕が座っているこの椅子に腰かけ、机上に積まれた書類に視線を落としていた。


 母が名乗り、頭を下げた。

 弟さんを奪って申し訳なかった、とか、奥方様のことお悔やみ申し上げる、とか言っていたと思う。


 そして、ドロシーの為に金を貸して欲しい、と頼んだ。



 僕は実際、楽観視していた。


 何しろ、父の最期の台詞は『何かあったら、兄さんを頼れ。兄さんは、きっと力になってくれる』である。父子関係はともかく、兄弟関係は良好であったと容易に想像できる。


 それに、ロンサール伯爵の権勢ぶりは、屋敷の様子を見る限り、相当なものだと思われた。国王陛下の覚えめでたく、領地は豊穣。ダイヤモンド鉱山まで持ってるってのは、大袈裟な話じゃないらしい。


 ドロシーの治療費くらい、痛くも痒くもないのは間違いない。



 母の話が終わると、ロンサール伯爵はようやく書類から顔を上げ、ふらりと立ち上がった。

 顔立ちは父さんによく似ているのに、瞳はどこか虚ろで、雰囲気は全然似ていなかった。


「それで……? そのドロシーとかいう子とこの私に、……一体、何の関係があるんだ?」


 それっきり、こちらを振り向きもせずにドアの方に向かった。


 あの時の母の絶望に満ちた顔を、僕は生涯、忘れないだろう。


 僕は、伯父に追い縋った。

 何と言っても、僕は伯爵の実の弟である父の生き写しだと言われていた。

 普通に考えて、心が動くものだろう?


 僕は伯父の行く手に跪き、頭を下げた。


「伯父上! お願いします! 妹を助けてください!」


 何度も繰り返した。

 気付くと、母も僕の隣で、同じように頭を下げていた。

 膝と額と掌に、大理石の床の冷たさがひんやりと伝わってきた。そのうち、身体の他の部分の温もりまで床に奪われ、手足が痺れ感覚がなくなるまで、何度も繰り返した。


(この床、見た目は綺麗だけど、触れると氷みたいに冷たいな)


 心の中では、ぼんやりとそんなこと考えていた。


 ロンサール伯爵は、しばらく僕と母を見下ろしていたが、やがて、何も見えなかったみたいに避け、屋敷の奥に消えて行った。



 後に残された僕と母に、執事は気の毒なものを見る眼差しをむけ、瞳を瞬いては何度も口を開きかけ、しかし結局、何も言わずに閉じた。



 母と僕が項垂れて屋敷を出るとき、執事が追いかけてきて、これを妹さんに、と袋を持たせた。

 中身は、値段だけは馬鹿高そうな、腹の足しにもならない美しい細工の砂糖菓子だった。


 ……馬鹿にしやがって。


 これまで感じたことのない怒りが、沸々と胸の内に湧き上がった。


 屋敷を出て門に向かう途中、美しい庭園の木陰の一角で、沢山の侍女にかしずかれ、ままごとに興じて楽しそうに笑う、伯爵の幼い娘達の姿が目に入った。


 姉の方は五つくらい、妹の方は二、三歳に見えた。


 ドロシーより幼くて、元気に笑ってた頃のドロシーを思い出した。


 姉妹の着ている染み一つない純白の美しいドレスには、見るからに高級そうな刺繍や手織りのレースがふんだんに使われていた。


(……そのドレス一着分の金があれば、ドロシーは助かるかもしれない……)





 二か月後にドロシーは逝き、その後すぐ、母は軽い風邪にかかったと思ったら、あっという間に悪くなった。

 亡くなる間際、母は僕の頭を撫でながら、優しく笑った。


「ごめんねぇ……ランブラー。お母さんが、お父さんと結婚なんか、しなきゃ良かったね……」


 母の瞳に映っていたのは、苦しみから解放されることを知った、安らぎだった。



 §



 僕は、村の教会で世話になりながら猛勉強して、十五歳の最年少で王宮政務官の試験に合格した。


 そこで、同期のウィリアム・ロブと出会った。

 初めは、何もかも見透かすような目と涼しい顔をして、気にくわないやつだと思っていたが、色々あって、次第に打ち解けるようになった。


 たまに、王宮で伯父とすれ違うこともあったが、互いに視線を交わすことすらなかった。


 やがて、戦争が始まると、まったく驚いたことに、この僕にロンサールの爵位が転がり込んできた。


 ――知ったことか。


 伯爵家になんか、生涯関わりたくなかったが、陛下の命令だから、仕方なく爵位だけは継承した。


 一度見かけたきりの甘やかされた従姉妹のどちらかが結婚でもすれば、その夫にさっさと譲ってやろう、と思っていた。



 それが……



 ――まさか、こうなるとは。



 人生ってのは、何が起こるか、わからんもんである。



『お従兄様の幸せを願わないはずがありません』


 リリアーナは、ドロシーと瓜二つの優しい顔をして、僕に向かってそう言った。

 もっと早く助け出すことが出来たのに、そうしなかった僕に、恨みを抱きもせず。


 馬鹿みたいだが、あの瞬間、僕は救われた。


 自分だけ生き残り、自分だけ王宮政務官になり、自分だけ貴族になり、何不自由ない暮らしができるようになった。



(ごめんな、ドロシー)


 ――兄ちゃんだけ、幸せになったりしないから。


 だけど、あの瞬間、ああ、そうか、もういいのか、と思った。


 ドロシーじゃないとわかっていても、ドロシーが言いに来てくれた気がした。



 リリアーナが自分は伯爵の子じゃない、と言った時、嘘だろう? と思った。


 ドロシーとリリアーナは、瞳の色は違うが、面影がそっくりだった。どっちも母親似だが、母親同士は間違いなく他人。一見すると似ていないと思われる父方の血が、二人に共通の面影を落としたとしか思えない。ってことは、絶対に僕とも血が繋がっているはずだ。


 もし万が一、血が繋がってなくとも、リリアーナは僕の恩人だ。屋敷から追い出そうなんて、考えるはずもない。


 あのとき、執務室でレクター・ウェインがリリアーナを本心から案じている様子を見て、このロケットの写真を見せた。


「それについては、腑に落ちないことがある。…………これ、おかしいと思わないか? ずっと昔に亡くなった、僕の妹だ。そっくりだろ?」


 そう言って、ドロシーの写真を見せると、レクター・ウェインは目を見開いて驚いた様子を見せた後、言った。


「……調べさせてもらえませんか?」



 そして、あの夜会の日にストランドからパルマンティエ夫人を連れて来て、昔を知る他の使用人達の居所も調べ上げてきた。

 パルマンティエ夫人の証言のお蔭で、リリアーナを絡めとって長く苦しめ続けてきた糸は、ようやく絶ち切られたと言っていいだろう。


「リリアーナに、君のお蔭だと言っとくよ」


 レクター・ウェインは首を振って目を伏せ、言わなくていいです、と言った。

 罪滅ぼしのつもりなんだろうが、リリアーナを好きなんだから、自分の手柄だと喧伝して気を惹けば良いものを、律儀で不器用な奴だ。あれじゃ、きっと生き辛いだろう。


 まあでも、婚約を伝えに来た時のリリアーナの様子を見ると、本当に相思相愛だったようだ。

 ウィリアムは最初っから断言してたけど、僕はそうかあ? と半信半疑だった。


 レクター・ウェインの方は見るからにベタ惚れの様子だったが、リリアーナの方はさっぱりわからなかった。

 まったく、こいつは人の心が読めるんじゃないか? と時々怪しむ。


 そういうことなら、リリアーナの幸せの為にも、全力で応援してやろう。



 そして、僕もパルマンティエ夫人から、事の次第を聞いて、全てに得心がいった。


 ――あの時、伯父には母の声も僕の声も、届いていなかった。


 だからと言って、完全に許すことはできないが、もう恨むのはやめておくことにする。


 何と言っても、最高に可愛い妹を二人も、僕に残してくれた。

 そのことについては、感謝してやらねばなるまい。



 きっと、今頃、父さんと母さんとドロシーは同じところにいて、うだうだ悩んでばかりだった僕がやっと前を向き始めて、笑っているに違いない。


 もしかしたら、そこには伯父と伯母もいるかも知れない。

 会ったことはないが、ブランシュみたいな性格とリリアーナみたいな容姿だったという美しい伯母に叱られて、しゅんとなっている伯父の姿を想像してみたりする。




「そう言えば、昨日、マルラン元男爵夫人のお見舞いに行ったんだろう? 様子はどうだった?」


 ウィリアムがグラスにブランデーを注ぎながら問いかける。


「ああ、元気そうだったよ――」




 ――『お加減はいかがです?』


 見舞いの花束を手渡すと、元・マルラン男爵夫人は人の良さそうな顔を赤らめ、申し訳なさそうに俯いた。


『あのう、……ロンサール伯爵様には、わたくしのせいで、とんだご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした』


『いいえ。どうってことありません。ご自身が大変な目に遭われていながら、僕のことまで心配してくださるなんて、お優しい方ですね』


 元・男爵夫人は、ぽうっと頬を染めた。

 ……こういうとこが、誤解を生むんだろうけど、まあ、普通にしているだけなので、しょうがない。


『まあ、そんな。でも、そうですわね、わたくし、よく人からそう言われますの。貴女はちょっと優しすぎるわって』


『ええ、よくわかります』


『まあ……。あ、そう言えば、わたくしのメイドのロレーヌですが。元夫にまんまと利用されて。ですけど、よくよく聞いたら、わたくしがこうして助かったのは、ロレーヌが毒を言われた通りに入れず、量を減らしたからだったらしいですの。ですから、わたくし、陛下にあの子の刑が少しでも軽くなるよう、嘆願いたしました』


『そうでしたか』


『それで、ロレーヌが無事に出て来られたら、あの子は元通りわたくしの元に引き取って、子の面倒もこの屋敷で見るつもりでおりますの。もちろん、それが当然ですわ。だって、気付いてやれなかった、わたくしにも責任がございますものねえ……』


 しんみりと、元マルラン男爵夫人は目を伏せた。


『貴女の優しさとお心の広さには頭が下がる思いです。この先、お困りの際には、いつでもお声掛けください』


 微笑むと、人の良さそうな夫人の丸い顔は、またぽっと赤く染まった。



「……ってことで、ロレーヌはたぶん、早い内に出て来られるだろう。何たって、被害者である男爵夫人が減刑を願い出てる」


「そうか。まあ、ランブラーのファンは、気立ての良い女性が多い。予想通りだったんじゃないか?」


 ロケットをぱちん、と閉じると、ウィリアムは深い夜色の瞳を細めた。



「……ドロシーのこと、レディ・ブランシュとレディ・リリアーナには言わないのかい?」


「言わないよ。とりあえず、そのうち言うけど、今はやめとく。あの二人、この話聞いたら、大泣きする。一週間は泣き続けた挙げ句、修道院に行って一生祈り続けるとか言い出しかねない。それは困る、絶対に困る」


 何しろ、あの二人ときたら、僕がちょっと疲れた素振りをみせるだけで、まるでこの世の終わりみたいに心配するのだ。


「そうですね」


 ふふふ、とウィリアムが笑うので、僕もおかしくなる。


 ウィリアムが柔らかく微笑んで、深遠な宇宙みたいな瞳で、僕をじっと見つめる。



「良かったね、ランブラー」



 まあ、そうだね、と僕も笑った。










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