第100話 当て馬
石張りの床をふわふわと踏みしめながら、指を絡めるようにウェイン卿と手を繋ぎ、外廊下を歩いている。
(雲の上を歩いているみたい)
ウェイン卿が、あのウェイン卿が……
……わたしを、好き……?
しかも、しかも――
さっきのあれは何ですか……!!
(あれは、あれは、……あんな風にするものなの!? 息する間もなく、あんなに何度も繰り返すもの!? あんなに長い時間するもの!? 小説を読んで想像してたのと違った。身体が溶けるとこだった。溶け死ぬとこだった。心臓はもうちょっとで爆発するとこだった)
放火魔かと思ったら、正体は爆破系テロリスト……!
隣を歩く爆弾魔を見上げると、こっちを向いてふわっと笑う。
白銀の睫毛の間に覗く、熱の籠もった赤い瞳。唇や歯をするりとなぞった感触がフラッシュバックして、背中に痺れが走って、心臓は再び爆発しかける。
「令嬢、大丈夫ですか? 足取りがふらふらしています」
「いえ……まったく、大丈夫ではありません」
顔がさらに熱くなるのを感じながら首を振ると、破顔して笑う。
「それは困りましたね」
「はい」
「これからは会う度、何度もするのに」
「はい!?」
ウェイン卿は嬉しそうに目尻を下げる。
にっこり、の向こうに、外廊下を歩きこちらに向かってくるウィリアム・ロブ卿の姿が見えた。
慌てて、間違いなくだらしなく緩みまくっているこの顔が、キリッと見えるよう居ずまいを正す。深夜のバーで孤独にグラスを傾けながらも背後に油断なく気を配る殺し屋になったくらいのつもりで、顔面の筋肉を引き締める。
「レディ・リリアーナ、ウェイン卿、おはようございます。レディ・リリアーナ、体調はいかがです? ご無事で何よりでした」
ロブ卿はいつも通り優しい笑みを浮かべ、洗練された身のこなしで腰を折る。
繋ぐ手は離した方が良かろうと引いたら、ぎゅっと力をこめられた。
「おっ、おはようございます! ロブ卿、ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
右手は握られたまま、左手でスカートをつまんで礼をする。
ウィリアム・ロブ卿の視線が繋がれた手に注がれた気がして、またさらに頬が熱くなる。
ウェイン卿がずいっと一歩、前に踏み出した。
「ロブ卿、おはようございます。先ほど、レディ・リリアーナに婚約を承諾していただきましたので、これからロンサール伯爵に報告するところです」
その口調が強く聞こえて驚くが、ロブ卿はいつも通り、柔らかく微笑んだ。
「それは、おめでとうございます。良かったですね。レディ・リリアーナ」
「は、はい! ありがとうございます!」
「ウェイン卿も、おめでとうございます。末永くお幸せに」
「……は?」
どうしてか、ウェイン卿は訝し気に首を傾けた。ロブ卿は何もかも見透かすような深淵な瞳を柔らかく細める。
「ああ、それから、先日は、ハンカチを貸してくださって、ありがとうございました。ちゃんと、ランブラーに返しておきましたからね。レディ・リリアーナ」
「まあ、いいえ。わたくしが泣いてしまって、ロブ卿のハンカチを汚してしまったせいですもの。その節は、ありがとうございました。そのまま持っていてくださって構わないと、ランブラーは申しておりましたのに。ご丁寧に、ありがとうございます」
「……はあっ?」
どうしてか、ウェイン卿の口から素っ頓狂な声が飛び出した。
ロブ卿ったら、きちんとした人である。ハンカチくらい、ランブラーは返さなくても気にしないだろうに、改めてお礼を言ってくれるなんて、律儀な人だ。
そう言えば、あの時、ロブ卿に新しいハンカチを貸してもらえないかと頼まれて、ハンカチを手渡す時、ロブ卿は囁いた。
『レディ・リリアーナ、そのドレスよくお似合いで、お綺麗ですね。先程、……ウェイン卿も見蕩れていたようですよ』
それを聞いて、思わず赤面しながら、ロブ卿には、この恋心に気付かれているかも知れないと思っていた。
自分では上手く隠しているつもりだったが、ノワゼット公爵にも勘付かれていたようだし、あの様子では、ブランシュも気付いている。
どうやら、わたしは自分で思うよりずっと、分かりやすかったらしい。
何故か愕然とした風に固まっているウェイン卿に向かって、ロブ卿は微笑む。
「私は、レディ・リリアーナの友人ですよ。役不足とは知りながら、少々、……例の、馬役を務めさせていただこうと思い立ちまして。でも、あまり必要なかったかも知れませんね。ですが、私も――」
――なかなか、いい仕事をしたでしょう? と輝くように優しく笑った。
ウェイン卿は、しばらく口をぽかんと開けていた。そして、
「はい、とても」
と答えたウェイン卿の耳は、赤く染まっていた。ウィリアム・ロブ卿がウェイン卿に優しく笑いかけている。
ウェイン卿のロブ卿と仲良くなりたいという願いは、あっさり叶いそうである。
「良かったですね、お二人とも。ああ、そうそう、甘いケーキを持参致しましたので、おめでたい報告が終わったら、お二人で召し上がってください。甘い話でもなさりながら」
はあ、それは、どうも……とウェイン卿がしどろもどろに応える。
ふと、視線を感じて、遠くの木立に目をやると、木陰の薄暗いところに、夢で会った黒いローブの老人が、鷹のような目を細め、笑っていた――
――ように見えたけれど、やっぱり気のせいだろう。
瞬きをしてから目を凝らすと、もう、誰も居なかったから。
強い風が吹き、新緑に芽吹く木立から、ばさっと大きな羽音を立て、鴉の群れが飛び立つ。
羽音につられて、ウェイン卿とロブ卿も空を降り仰いだ。
「空が、笑っているようですねえ」
抜けるように高く澄み渡る青空に、鴉の群れは笑顔の模様を描いて飛んだ。
§
応接室の窓から、レクターとリリアーナが手を繋いで戻ってくるのが見える。ウィリアム・ロブと外廊下で何か話している。
どうやら、この僕の作戦は今回もまた上手くいったらしい。
ラッドとオデイエとキャリエールも気付いて、小さくガッツポーズをしながら顔を見合わせて満足気に頷き合っている。
レクターの方はどっからどう見てもまるわかりだったが、リリアーナの方は、全くその気がなさそうに見えた。
ダメもとの無理やりで婚約の流れを作ったが、あれで上手くゆくとは、よほど熱烈に愛を囁いて求婚したのだろう。
全く、チェスの手筋や敵の謀略は手に取るように読めるのに、女心だけはさっぱり謎である。
隣に座るブランシュの世界で一番美しい横顔を見る。
僕も幸福だし、万事、丸く収まったってとこかな?
ランブラー・ロンサールがテーブルの上に置かれた宝石が入った箱を見つめながら口を開いた。
「ところで、ノワゼット公爵、これ、どうします? ブルソール国務卿の不正の証拠ってやつ」
箱に手を伸ばし、宝石の下から書類を取り出した。
ぱらぱらとめくって目を通す。
「……これは、すごいね。狡猾なやつのことだ。蜥蜴のしっぽを切りまくるだろうけど、これがあれば……」
レオンとかいう男、たしかに有能なようだ。
今までどれほど手を尽くしても、奸智に長けたブルソールの尻尾は掴めず、何度も煮え湯を飲まされた。
「いいなぁ……」
思わず、口をついて出る。
(いいなぁ、このレオンとかいう男、欲しいな……)
……仲間もまとめて面倒見るから、こっちに転ばせらんないかな?
(無理かなぁ……流石になあ……)
思考を読んだかのように、オデイエがじろりと睨んでくるので、気付かない振りをする。
――いや、でも、
(そのうち、リリアーナに接触してくるだろうから、レクターに言っておこうっと!)
最近、やたら感情を顔に出すからなぁ。ものすごーく嫌そうな顔されそうである。
ふっと笑うと同時に、ぱたんと書類をとじて、テーブルの上に置いた。
「これはグラハム・ドーンにやろう。あいつは例の一件で、奴にいつか一矢報いたいと思ってるだろうから。今回は色々世話にもなったしね。もうすぐ戻ってくるだろう」
……また失恋しちゃって、ちょっと可哀そうだし。と内心で呟く。
ランブラー・ロンサールが、ああ、と納得したように頷いた。
目の前に座るこの男も、王宮では誰にも本心を悟らせず、如才なく振る舞っていたが、最近は素のようなものが垣間見える。
今までは、王宮で行き会っても表面的に挨拶を交わすだけだったが、これからは長い付き合いになりそうだ。
「そう言えば、騎士団の皆さんは所属が違うといがみ合ってますよね。そうかと思えば協力する時もあるし。以前から、めんどくさ、……いや、気になってて」
……少しばかり、心の声が漏れ気味な時もあるが、ブランシュの未来の夫として、家族扱いされていると前向きに受け取っておく。
「なんだ、伯爵は知らなかったのか? じゃあ、ちょっと説明しよう……」
上着の襟を合わせ、姿勢を正す。
周りの配下の騎士達もまた、眉根を寄せ、口元をひき結んで、姿勢を正す。
「ああ、はい、それじゃ」
「うん、第一、第二、第三、それぞれの騎士団の間には、根深い因縁の歴史があるんだ。話は長くなるが、そもそもの因縁は五百年前の青薔薇戦争の時代に遡――」
「あー、やっぱいいです。だいたい分かったんで」
ランブラー・ロンサールが輝くように笑ったのと同時に、ドアが開き、仲が良さそうに手を繋ぐレクターとリリアーナが現れた。
「まあ!」
ブランシュが、感嘆の声を上げた。
――屋根裏の魔女、恋を忍ぶ――
第一部・おしまい
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
このあとの三話は、ランブラー・ロンサール視点とトマス・カマユー視点による伏線回収しながらの番外編のようなものとなります。
その後、登場人物入り乱れ、新たな事件に巻き込まれる第二部を連載中です。
そちらもお楽しみいただけましたら、この上なく幸いです。
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