第62話 伝わらない
――修道院に行く他、道はない。
ロブ卿は、項垂れるわたしを部屋まで送るとき、何も聞かずにいてくれた。
わたしの顔色が悪いと言って心配するアリスタが、就寝の準備を手伝ってくれ、蜂蜜入りのホットミルクを置いて部屋を出て行ってから、荷造りの仕上げをする。
北方の国外れにある修道院から届いた返事には『来たかったら来ても良い』と書いてあった。『寄付をしてもらえれば、良い待遇をする』とあったが、気にしない。
一番下っ端でも、一番悪い部屋でも、一番酷い待遇でも何でも構わない。
――兎に角、何でも良いから一刻も早く、もうここを去りたい……!
冷たいかと思ったら、ほんの時折、ふいに優しい光を宿して心を惑わせる、あの赤い瞳をもう二度と見なくて済むところなら、どこだっていい。
(明日の朝、ランブラーとブランシュに事情を話して、挨拶を済ませたら出て行こう)
二人と会話らしい会話をしたのは、今日が初めてと言っても良いくらいなのだから、反対なんかされるわけない。
ランブラーとブランシュは優しい。さっき、アリスタのことも心配いらないと言ってくれた。二人に頼んで行けば、アリスタのことを悪いようにせず、上手く取り計らってくれる気がする。
小さなトランクに荷物を全て詰め、蓋をぱちんと閉めたところで、ノックの音が響く。
恐る恐るドア開けると、そこに立っていたのは、ほっそりした体に大きな枕を抱えたブランシュだった。
「さあ、リリアーナ、一緒に寝ましょう!」
可愛らしく小首を傾げ、明るくそう言うなり、すたすたと部屋に入ってくる。
古びた屋根裏に寝着にガウンという姿でいても、月の女神みたいなブランシュの輝きは、少しも褪せていなかった。
唖然とするわたしをよそに、ブランシュは屋根裏の固いベッドの上に枕をぽふっと置く。
「ブ……ブランシュ、ここで寝るの?」
「そうよ。わたし、一度、屋根裏部屋で寝てみたかったのよね。天窓から夜空が見えるんでしょう? 素敵じゃない?」
目を丸くして立ち竦むわたしに向かって、にっこりと微笑んで言う。
「じゃあ、わたしは長椅子で――」
「だめ! 一緒に寝るのよ! お願い!」
強く言われて唖然とするわたしの腕を、ブランシュが優しくひっぱって、ベッドに座らせ、自身も隣に腰かけた。
「二人で眠るなんて、すごく久しぶりじゃない? わたしが七歳で、リリアーナが五歳の時以来よね。ベッドに入ってからも遅くまでずっとお喋りして、叱られたのを覚えてる?」
もうどこにもない、眩しくて遠い、昔の話。
あの頃、父にはわたしが見えなかったが、屋敷はまだ、優しい場所だった。
懐かしいけれど、今はそれよりも、聞きたいことがある。
「あの……アリスタは……?」
どうなるの? と言う前に、ブランシュは優しく瞳を細めた。
「大丈夫だって、言ったでしょう? この屋敷は使用人に優しいことで人気の職場なのよ。あのくらいで、頸になんかしないわ。今まで通り、ここで働いてもらう」
安堵のあまり、嘆息とともに頬が緩む。
ブランシュは、ほっとしたように頬を緩めた。
一緒にベッドに入り、二人並んで天窓の向こうに瞬く星空を眺めながら、ブランシュはずっと話し続けた。
小さい頃、厳しかったけれど、時々、町の子どもが食べるようなお菓子をこっそりくれた家庭教師の口癖のこととか。
一緒にハイキングに行ったときに料理人が作って持たせてくれた、卵とレタスがたっぷりはいったサンドイッチとさくらんぼのクラフィティは絶品だったとか。
幼い頃、一緒に木登りをしたけど、今は大きくなりすぎている林檎の木の話とか。 他愛のない話をずっとしていた。
ブランシュの声は優しくて、聞いているだけで心地よくて、わたしは、そうね、とか、うん、とか返事をしながら、とても幸福な気持ちになった。
――いつしか眠りに落ちるまで、ブランシュの優しい声は、ずっとずっと聞こえていた。
§
そして翌朝、わたしはランブラーとブランシュと、庭の木陰に置かれた小振りの丸テーブルを囲んで、朝食を摂っている。
(……そろそろ、修道院に向けて出発したい)
国外れの辺境にある修道院なので、朝一番に町に出ても、乗合馬車を乗り継いで、着くのは四日後の夜遅くになる。旅賃は、マルラン男爵邸でフランシーヌとして働いた時、日雇いの給与としてもらった幾ばくかで、なんとか凌げる筈だった。
別れの挨拶をしようと、口を開く。
「あの……、先程申し上げました通り、前々から考えていたことですから、そろそろ、」
「あ、そういえば、リリアーナ、あれもう見た?『ベロニカ』とかいう歌劇、最近、若い女の子の間で人気らしいねぇ」
ランブラーが、カリカリに焼いたベーコンを優美な手つきで上手に切り分けながら言った。
「……いえ、観ておりませんが」
「そっか、じゃあ、来週にでも一緒に行こう」
「……あの、それで、いただいたご恩も、返せないままでしたが」
「お従兄様、わたくしも一緒に行きますわ。リリアーナ、お揃いのドレスを仕立てて行きましょうね! リリアーナの清楚な雰囲気には、白が似合うけど、水色や桃色もきっと似合うと思うの!」
ブランシュが、淹れたてのミルクティーのカップを優雅な手つきで持ち上げながら言う。
「そうだね。いっそのこと、全部の春色で試しに仕立ててみたら? きっと、どれも似合うよ。リリアーナは、何色が好き?」
「……………」
二人には朝食の前に、わたしが屋根裏に暮らしていた事情を詳しく説明し、わたしが父の娘でないこと、ランブラーと血が繋がりがないこと、長々とお世話になってしまったが、ここを出て修道院に入りたいと考えている旨を話した。
ランブラーは眉根を寄せ、真面目な顔をして頷き、よくわかった、と答えた。
俯いて話を聞いていたブランシュのいる方向から、「あんの……おたんこなすび親父が……!」とぼそっと呟くような幻聴が聞こえたかと思うと、ブランシュは顔を上げ、いつもの女神様みたいな優しい笑みを浮かべて、よくわかったわ、と頷いた。
ところが、さっきから一向に話が噛み合わない。これは、もしかしなくとも――
――全く、伝わっていない。
「あの! 先程、申し上げました通り」
「まさか!」
ランブラーが大きな声を出すので、びっくりして従兄を見る。
「まさかと思うけど、僕と血が繋がってないくらいのことで、本気でここを出て行く気じゃないよね?」
「やだ、まさか。お従兄様、だって、リリアーナは正真正銘、わたしの妹なのよ。出て行くわけないわ」
ぽかんと口を開いて言葉もないわたしに、ブランシュが畳みかける。
「どうしても行くというなら、わたしも一緒に修道院に入るわ!」
ブランシュが、にこりと笑って有無を言わせぬ口調で言った。
「まさか!」
今度は、わたしが大声を出す番だった。
「そうかぁ……そうなったら、僕は寂しくて生きていけないから、もう王宮の仕事は辞めて、爵位返上して、ここも引き払って、二人のいる修道院の近くに小屋でも買って、畑でも耕して余生を送るよ」
「自給自足生活ですわね、お従兄様。近頃、そういうのも流行っているらしいですわね」
「そうだね。それはそれで楽しそうだよね。僕、こう見えても昔、野菜とか育てていたこともあるんだよ。茄子とか、ちょっとコツがいるんだよね」
「わたしも、修道女ってどんなものか、ちょっと気になっていたの。一度しかない人生だもの、色々経験してみるものアリよね。楽しみだわ」
二人はにこにこ笑いながら通じ合っているが、わたしはもちろん、青ざめる。
「あの……まさか……、そんなことは、」
「リリアーナが、ここにいてくれたら、しないよ。でも、もし本当に修道院に入るなら、そうするしか道はないなあ」
爽やかに微笑むランブラーに言い切られて、わたしは口を開けたまま、
「寂しいも何も、お従兄さまと朝食を摂ったのは、昨日と今日の二回だけではないですか!」
という至極真っ当な台詞を呑み込んだ。
(行かせてもらえないと、困るのに……)
じわり、と涙が滲むのが、自分でも分かった。何度も瞬き、乾かしながら、考える。
――修道院に入れないと、ものすごく、困るのだ。
もう、あの人に合わせる顔もないのだから。
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