第61話 夜の色(レクター・ウェイン視点)

 どうやら、一目惚れというものをしたらしい、と気付いたのは、つい一昨日のことだ。


 あの吸い込まれそうな瞳と目が合った瞬間、雷に打たれたように世界が真っ白に染まった。その後は、寝ても覚めても瞼を閉じる度、夜色の瞳ばかりが思い出される。


 どういう訳か、姿が見たくて、声が聞きたくて堪らず、公爵が伯爵邸にいるタイミングを見計らい、何度も足を運んだ。だが、いつ行っても不在。会えないと、ますます思いは募る。


 ようやく、クルチザン地区で偶然に再会した途端、灰色に淀む世界に光が差した。


 優しく微笑みかけられると天にも昇れそうで、声を聞くだけでくすぐったくて、その姿を見るだけで心が弾んだ。

 寂し気に微笑まれると、その肩に触れたくてたまらず、遠慮され拒絶されると、息の仕方もわからなくなる。

 俺以外のものを見つめていると、苦しくてたまらないのに、目を離すこともできない。


 自分でも、訳が分からなかった。これはなんだ?


 夕暮れ色に染まった林の中で、向かい合って話した時、リリアーナは優しい声で言った。


『ウェイン卿は素晴らしい方ですから、きっと、これからは彩りある、光の中を進まれると思います』

 

 あの時、どうしても、あの瞳が見たくてたまらなくなった。


 無礼な振る舞いだと承知していたが、我慢できずに手を伸ばし、フードを外した。

 晴れた夜空のように煌めく瞳、しっとりと薔薇色に透ける頬と唇。滑らかに輝く真珠のような肌に、緩く波打つ絹のような黒髪が一筋、影を落としていた。


 その姿は、月から降りてきた精霊のようで、この世にこれほど美しいものがあるのか、と思った。


 ――それで、ようやく分かった。


 公爵が、レディ・ブランシュのこととなると、子どもに還ったかのように冷静さを欠いた振る舞いをするのが、まったく不可解だった。自分だけは、ああはなるまい、と確信していた。


 平常心を保つことには自信がある。今まで、一度だって誰にもそんな想いを抱いたことはない。あんなものは無駄な感情だ。色恋に惑う己など、想像することすら難しい。



 だが、落ちるときは、あっさりと落ちた。



 俺のことなど、眼中にないとわかっていた。

 どれほど焦がれて見つめても、彼女はこちらを見ない。ほんの時折、見返してくれたとしても、せいぜい一度か二度で、それもほんの一瞬。

 俺と話すときの強張った様子から、それなりに、嫌われているだろうと覚悟していた。


(――それもまあ、仕方ない)


 生まれ落ちてからこの方、自分のことなんか、大嫌いだった。

 誰からも、肉親にまで厭われたこの醜い赤い瞳も、傷つけるだけしか能がないところも。嘘と偽善だらけの最低な世界のことも、憎んでいた。


 それでも……、もし、あの瞳に映れたなら。

 いつか、世界を優しく映すあの夜空みたいな瞳に俺も映れたなら、俺の世界も変わるかもしれない。彼女から、優しく笑いかけられるような人間になれたなら、自分のことを、ちょっとはマシなやつだと思えるんじゃないか。


 次に会えた時、優しい言葉をかけたなら。何とかして、護衛という名目でも傍にいられたなら。いつか、あの瞳に映してくれるだろうか。笑いかけてくれるだろうか。


 伯爵邸の書斎で、リリアーナは公爵の前でフードを脱いだ。

 俺を見つめる瞳は、不安げに揺らぎ、星屑を散らしたように輝いていた。その澄んだ瞳を見た瞬間、決めた。


 (世界中が彼女の敵だとしても、俺だけは、味方になる)


 ――そう決めた、筈だった。


『公爵のところにお連れします。……もうこれ以上、嘘は結構です』


 言った途端に悲しげに俯いたリリアーナを見て、我に返った。


 しまった、何をやってんだ、俺は。


 救ってもらっただろう?


 あの世界から、救い出してくれた。




 初めて人を殺したのは、十二の時だ。


 

 喉元を剣で貫くと、俺の首を狙い伸しかかってきたハイドランジア兵は、瞬く間にこと切れた。殺気立ち血走っていた目はぐるりと回転して白目を剥き、剣を振りかざしていた体は、糸が切れた操り人形のように崩れた。

 ほとばしる生暖かい血を顔面に浴び、前髪から滴る赤い雫を見ながら、俺は笑った。


 ――ざまあみろ。


『レクターを行かせりゃいい』


『生かしといて良かった。この薄汚い化け物が役立つ日がくるなんて。なんでも置いとくもんだよ』


『こいつなら、死んだって、痛くも痒くもない。むしろ助かるじゃないか』


 俺よりずっとデカイなりで見下ろしながら、兄達は口々にそう言った。

 王都から、国境軍への加勢を命じられた、父であるウェイン子爵は頷いた。


『そうだな。ちょうどいい。お前のその目は、生まれついての人殺しの目だ』


 ――ざまあみろ。


 お前らの思い通りになんか、ならない。


 お前らが俺の死を望むなら、絶対に死んでやらない。


 殺して、殺して、殺して、生き延びてやる。


 実際、その身体能力の高さから危険視され、弾圧を受け数が激減し殆ど見られなくなった、かつて北方の赤い悪魔と呼ばれた紅眼の民族の血は、伊達じゃなかったらしい。

 面白い程あっけなく、俺の前に立ちはだかった奴らの体は頽れ、その命は消え去った。


 ――ざまあみろ。


 俺は、死んでやらない。



 そうやって生き延び続けていたら、気付いたら王宮騎士に取り立てられ、数えきれぬほどの勲章を与えられ、副団長にまでなっていた。


 国中の貴族が集まった戦勝祝賀会で、兄達は俺と目が合うと青ざめて、機嫌を取るみたいに媚びたへつら笑いを浮かべた。

 かつて、大きくて威圧的だった奴らは、虫けらみたいに小さく見えた。


 ――くだらない。何もかも、くだらなくて、最低だ。



 だが、

 

『ウェイン卿が、ご無事に戻られて、良かったです』


 彼女が、俺が生きるのを望んでくれるなら――


 生まれてはじめて、生きたい、と思った。


 世の中には、光と色彩があった。


 人は、そう捨てたものじゃなかった。




 その不安そうな肩に向かって手を差し出すと、リリアーナはそれを振り払った。

 

『やめてください。貴方だって、嘘つきなのは同じでしょう?』


 ――何のことだ? 訳がわからない。俺は、貴女を騙したりしない。


 おまけに、リリアーナは泣き出した。

 その涙を見た途端、頭が真っ白になった。

 絶対に、泣かせるまいと思っていたのに。

 慌てて、ハンカチを差し出したが、それすら拒絶された。

 


 リリアーナは、一人になりたがっていた。


 一旦離れるべきだろうか?


 ――貴方なんて、もういらない。


 ほんの一瞬、こちらに向けられた瞳は、そう語っていた。


 ――もう見ない、もう笑いかけない、もう近付かない、もう、期待なんてしない。


 そんなのは絶対に、嫌だった。だが――


 もう、取り返しがつかないのではないか、という不安が過った。

 いや、今からだって、誤解を解けば何とかなる筈だ。

 ――だって、もう無理だ。

 光を知ってしまって、今更、あの灰色の世界には戻れない。


 どうすればいい、どうしたら、泣き止んで、また微笑んでくれる? こっちを見てくれる?



 肩に触れると彼女は怯え、その細い肩を震わせた。

 慌てて手を離し、ベンチを指し示し促すと、座ってくれた。

 少し落ち着きを取り戻した様子を見てとって、僅かに安心した。


 ――この場で、話を聞こう。


 それがどんな内容でも、ブルソールと繋がっていて、公爵を殺すために毒を盛ったと言われたって、必ず守ると言えばいい。

 公爵に直談判でも何でもして、聞き入れてもらえなければ、連れて逃げたっていい。

 

 絶対に、誰にも傷付けさせたりしない。


 ところが、真相は拍子抜けするものだった。使用人のミスによるただの事故。

 リリアーナが屋根裏に囚われていた理由もわかった。彼女を苦しめた前伯爵を許せないと思ったが、まずはさっきの無礼を詫びて、それから、心配いらないと言って、貴女が望むなら、アリスタのことぐらいどうとでも――そう、口を開きかけた時、リリアーナは俺を真っ直ぐに見た。


『ウェイン卿に、お願いがあります』


 希望が見えたようで、安堵した。


 それがどんな頼みであろうと、叶えてみせるに決まっている。命をかけたっていい。そうすれば、俺が味方だとわかってくれるだろう。さっきの馬鹿げた振る舞いも、最初に馬車に乗せた時やこれまでの最低の態度だって、水に流してもらえるに違いない。


 ――だが、彼女の願いには、絶望しかなかった。


『ですから……わたくしが毒を入れたことにして、わたくしを始末して、それで、お終いにしていただきたいのです』


 ――意味が、分からなかった。


 理解できた瞬間、この手で彼女を刺し貫く様が脳裏に浮かび、体が震えた。

 何を言ってるんだ?

 俺は、絶対にそんなことしない。

 傷付ける筈がないだろう。だって俺は――


『するわけがない、なんて、仰らないでしょう? グラミス伯爵夫人の馬車があの場所で停まっていなければ、あの日、わたくしを始末なさって、終わりになる筈だったではないですか』


 目の前が、真っ暗になった。


 ――なぜ?


 なぜ、それを知っている? 知っているはずがない。そうだ、あの時、誰もいなかった。ちゃんと、部屋の周囲にまで、神経を研ぎ澄ませて、確認したのだから――


『嵐の夜、言っていらしたではありませんか。公爵様とお二人で、きっとわたくしが毒を入れたのだと。「毒を入れた者が誰で、どんな事情があろうとも、生まれてきたことを後悔させる」と。わたくしのような妹は、ブランシュの為にはいない方が良いから、ドブネズミを始末すると』


 その時、ようやく、何もかも、最初から間違えていたことに気付いた。


 知られていた知られていた知られていた、そればかりが頭の中でぐるぐると渦を巻いた。今すぐ跪いて、許しを請わなければと思うのに、喉の奥が潰れたみたいに、声も出せなかった。


『ウェイン卿にとっても、公爵様にとっても、それが最良の結末でしょう?……本当は、真実なんてどうでも良かったのですから』


 違う、と言いたいのに、声は喉の奥でつかえる。


 リリアーナは、もう、俺を見なかった。

 怖いほど蒼白な顔をして、何もかも諦めて感情が抜け落ちたような微笑を浮かべていた。


 月光を浴びたそれはまるで、この世のものでない幻みたいで、これまで見た何よりも清廉で、美しく見えた。


『騎士団団長が毒を盛られたのに何もしなければ、沽券に関わります。だから、わたくしを消して、噂を立てようと思われたのですよね』


 夜色の瞳は、何もかも見透かし、輝いていた。


 血の気の失せた真っ白な顔をして、このまま倒れて、その命が消えてしまいそうで、怖かった。

 何よりも恐ろしいのは、彼女に生きることを諦めさせたのは、この俺自身ってことだった。

 手を差し出し支えたくて堪らないのに、この汚れた手には、その資格がないことに気付いて、握り潰した。


 

 月夜に吹く澄んだ風のような、その声を聞きながら、思った。



 ――やっぱり、この俺に奇跡なんか起きるはず、なかったな。



 晴れた夜空のように優しい瞳に映れたなら、世界は、変わるはずだった。


 いつか、信頼の眼差しを向けてもらえたなら、こんな自分でも好きになれる気がした。


 春先に咲き初めた花のような微笑みを向けてもらえたなら、空だって飛べるんじゃないかと思った。



 さっき、屋敷から出てきたリリアーナは、ひどく不安げに見えた。


 あれはきっと、天が恵んでくれた、最後のチャンスだった。


 優しく声を掛ければ、その瞳に映れただろうか?



 僅かに残っていた最後の一雫は、もう、取り零してしまった。



『若いメイドのちょっとした間違いだったというよりも、リリアーナ・ロンサールが人知れず消える方が、世間は喜ぶでしょう。

 その方が、公爵様とウェイン卿にとっても――』


 彼女はそこで、ふいに口を噤んだ。


 何を言おうとしたのか、その続きが、その声が、耳の奥で聞こえた。


『都合が良いんでしょう?』


 ――だって、はじめから、わたしが犯人かどうかなんて、どうでも良かった。


 あえて噂を立てるために、自分と三人の騎士の姿を使用人に見せてから、わたしを紋章付きの馬車に乗せた。


 そして、わたしをこの世から消そうとした。


 ただ、自分の面子を守る為だけに、わたしを殺そうとした。


 あなたはそういう人よ。


 おぞましい、卑劣な、人殺し。


 好きになんてなるはずがない。


 ぜったいに愛したりしない。


 それどころか、ずっとずっと、その顔を見るたびに不快で、恐ろしくて、逃げ出したかった。


 何があっても、これから先もずっと、あなただけは選ばない――




 彼女は立ち上がり、俺の前から立ち去ろうとした。


 その手を、思わず掴んだ。


 リリアーナは不思議そうに俺を見て、この醜い瞳を綺麗な瞳に映すと、気遣わしげに顔を曇らせた。


 やっぱり、底無しに優しいんだな、と思った。


 いつだって、話しかけるとそっと微笑み、柔らかな言葉遣いで返してくれた。

 毒だって、それなら俺達に食わせれば良かったのに、自分が口にしようとした。

 優しい言葉で、俺を助けてくれただろう?

 だからまさか、知られていたなんて、思いもしなかった。


 大丈夫か? そんなんで。この世は、平気で人を傷つけ利用しようとする、おぞましい、俺みたいな奴だって沢山いるのに。もう、俺は守ってやれないのに。いや……きっと、大丈夫か。

 隠れることを止めた貴女の周りはこれから、貴女を守ろうとする人で溢れる。


 ――大丈夫じゃないのは、俺の方だ。


 もう、傍にいる方法がなくなってしまった。

 言わずにいてくれたのに、俺が全部、言わせてしまった。


 今更、何を言っても手遅れだと、もう希望などないと、あの灰色の世界に戻るしかないと、分かっている。


 狂おしいほどに焦がれた、あの春の日差しみたいな笑みを向けられる日は来ないと、分かっている。



 だけど、この手を離したら、二度と、その姿を見ることもできないだろう?





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