第60話 女神の断罪(レクター・ウェイン視点)
去り際、リリアーナはほんの一瞬、こちらを振り返った。
これは全部悪い夢で、何もなかったみたいに微笑みかけてくれないだろうか――
虫のいい願いを込めて見つめても、もう、何もかも手遅れで取り返しがつかないのだと、分かっていた。
瞬きとともに視線はすっと外され、ウィリアム・ロブに支えられながら、二度と手の届かないところへ消えて行く。
リリアーナが屋敷に戻ったのを見届けると、ブランシュ・ロンサールは背筋を伸ばし、こちらを見渡した。
傾国の、とまで云われる美しい顔に氷の彫像のごとき表情を浮かべ、凛とした声で話し始める。
「公爵様、……わたくしは以前、申しましたよね? 妹を、リリアーナを大切に思っていると。今は嫌われて拗れているけれど、いつかまた和解して、昔みたいに仲良くしたいと」
「い、いや……、ブランシュ、僕は、」
公爵は、自分の犯した失態の大きさに気付いたのだろう。
随分青ざめているが、俺も似たような顔をしているんだろうな、とぼんやり思う。
ブランシュは怜悧な眼差しで公爵を見据えたまま、続けた。
口調は静かだが、内に激しい怒りを含んでいることは、はっきりとわかる。
「それなのに、リリアーナを……なんの証拠もなく、あの子がただそれらしいという理由だけで、傷付けようとされたのですか?」
公爵は、青ざめて頷いた。
「すまない、ブランシュ、僕は、あの時は君が毒を盛られたと思って――」
ブランシュは、公爵から視線を逸らし、俺の方へ向けた。
「ウェイン卿、貴方も、わたくしの妹のリリアーナをドブネズミと呼んで、傷付けようとされたのですか?」
自分に向けられた質問に、ただ頷いた。
言い訳の余地などなかった。
――グラミス伯爵夫人の馬車があの場所で停まっていなければ、あの日、――
「リリアーナを……殺してしまうおつもりだったのですね?」
ブランシュは低く震える声で呟くと、周りの騎士を見渡した。
オデイエは真っ青になって唇を震わせているし、キャリエールは恥じるように俯いている。ラッドは眉間に苦悩を刻み目を閉じていた。
その様子を見て、ブランシュ・ロンサールは全てを悟ったに違いない。
「そうですか。それなら、言うべきことは、ひとつですわね」
氷のような碧い瞳が、すっと細められた。
「今すぐ、ここから出て行っていただけますか? 卑劣な、ドブネズミの皆様」
背筋を伸ばして顎を上げ、これ以上ないほど蔑んだ瞳で罪人達を見下ろすその姿は、なるほど、皆が言うように、女神そのものに見えた。
「ブランシュ、……本当に、すまない、」
公爵は真っ青になって、謝罪の言葉を口にしようとした。
「公爵様が謝罪をされるべきは、わたくしではございませんわ。でも、そうですわね。明日、当家のメイドの不始末に対する謝罪の手紙と一緒に、婚約破棄書をお届けいたします。少しでも悪いとお思いなら、サインをお願いできますか? 公爵閣下」
ブランシュは背筋を伸ばしたまま、表情を全く変えずに言った。
その瞳は氷のように、冴え冴えと輝いていた。
ブランシュの傍らに立つ、ランブラー・ロンサールが口を開いた。
「ノワゼット公爵、それから騎士の皆さん。
……僕は今回の件で、貴方方にはとても世話になったと思っている。しかし、これは、ちょっと許容できない。申し訳ないが、今日のところはお引き取りいただきたい」
眇められたロンサール伯爵の目は、これ以上ない程の、嫌悪感に満ちていた。
§
あれから、自分の醜さを思い知った庭園での告白の後、もし、あの日あの時間に、グラミス伯爵家の馬車があの場所で立ち止まっていなかったら、と何度も考えた。
少しでも希望を見出したくて、何度も何度も考えたが、結末は一緒だった。
怯えたように乗り込んだリリアーナを乗せたまま、王立図書館に向かっていたはずの馬車は、途中で道をそれ、人気のない森の奥へ進んでゆく。
不思議なことに、行き先が違うことに気付いているはずのリリアーナは、何も聞かず、騒ぎ立てもしない。
ただじっと、馬車の窓から外の景色を眺めている。
やがて、馬車が森の奥で止まると、落ち着いた様子で馬車のタラップを下り、深い森の中に降り立つ。
日が高いと言うのに、鬱蒼と生い茂る木々の枝葉に遮られ、日の光はそこまで届かない。
色のない静寂に包まれた灰色の森の中で、四人の黒い騎士達は黒いドレスを身に纏う彼女を取り囲む。
それから俺は、
『貴女が毒を入れたのか』
と訊いただろう。
彼女が『違う』と言って、命乞いしてくれたなら、きっと計画は中止された筈だ。
最初から乗り気でなかったラッドが、やめよう、と言い出しただろうから。俺だって、それなら、流石にやめただろう。
しかし、フードを目深にかぶったリリアーナは、口元にひっそりと微笑を浮かべ、そっと答える。
『はい、お察しの通りでございます』
何故なら彼女は、あの幼いメイドをおぞましい殺人者から守るため、身代わりになることを決めているのだから。
俺は、その胸に剣を突き刺すことを、躊躇っただろうか。
その手が微かに震えていることに、その瞳が恐怖で潤んでいることに、気付いただろうか。
いや、きっと、躊躇なく剣を抜いて、その心臓を差し貫いたに違いない。
声を上げる間もなく絶命した彼女は、剣を引き抜くと鮮やかな赤をぱっと散らし、音もなく崩れ落ちる。
華奢な身体を冷たく湿る地面に横たえ、もうぴくりとも動かない。
優しい言葉を紡いで誰かを救うはずだった唇は色を失い、優しい光を宿して誰かを癒すはずだった瞳は光を失って、ただの物になる。
俺は何の感慨も抱かずに、その場にリリアーナを残し、立ち去っただろう。
――ああ、これで、とりあえず
§
公爵邸に与えられている私室に戻ると、吐き気がこみ上げて、洗面室に駆けこんだ。
すべてを洗い流してしまいたくて、蛇口を目一杯ひねる。
濯いだ顔を上げると、鏡の向こうで醜く光る赤い瞳と目が合った。
彼女だけが『綺麗だ』と言ってくれた瞳を見て、ずっと昔に投げつけられた言葉が蘇る。
『化け物』
『悪魔』
『人殺し』
ああ、あれは全部、
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