第59話 何もかも

「すぐそっちに行くから! 動かないでそこにいて!」


 それだけ言うと、ブランシュはバルコニーから部屋の方へと駆け出した。

 ブランシュを待つ間も、ウェイン卿はわたしの手首を握っていた。


(逃げるんじゃないかと、心配しているの……?)


 そう思って、ふと気付く。

 逃がさないためにしては、そっと触れるその指に、力は込められていなかった。ただ触れているような持ち方は、簡単に振り払えてしまいそうだ。


 不思議に思って顔を見上げると、ウェイン卿は言いかけた言葉を飲み込み、口を閉じたまま、項垂れるように目を伏せている。

 月光のせいか、もともと白皙の顔が、やけに青白く見えた。


「リリアーナ!」


 しばらくして、ブランシュが息を切らせて走ってきたかと思うと、ウェイン卿から切り離すように、わたしを抱き締める。

 ウェイン卿の手は思った通り、あっけないほどあっさりと離された。


 寝着の上に金糸で刺繍が施されたガウンを羽織ったブランシュは、わたしの背にしっかりと手を回しながら、耳元で囁いた。


「リリアーナ……どうしよう、貴女は、わたしの妹なのに……」


 その声が、思いがけず震えていて、ブランシュのことが心配になる。


 希望と誇りの姉。ひとりぼっちの屋根裏で、ブランシュの記事を読んでいる間は、幸せだった。ずっとずっと、キラキラ光る美しいものに囲まれた、優しい世界にいて欲しいと願っていた。


 今のひどい話を、全て聞かれてしまったのだろうかと、自分の迂闊さが腹立たしくなる。こんな話を始める前に、ちゃんと周りに気を配るべきだった。



 ブランシュの後を追って、慌てた様子でカマユー卿が駆けて来るのが見える。

 ブランシュの部屋の前で護衛として立っていたら、血相を変えたブランシュが突然、庭に向かって駆け出したので、驚いて追いかけて来たのだろう。


「レディ・ブランシュ! どうされました? アイユが公爵を呼びに行きました。レディ・リリアーナ……? どうしました? ウェイン卿、何か、あったんですか?」


 カマユー卿が怪訝な表情を浮かべて尋ねたが、ウェイン卿は何も聞こえていないみたいに、黙ったままじっと立ち尽くしていた。


 ブランシュは、わたしを抱き締めながら、優しい手つきでわたしの髪を撫でていた。暖かい体温と優しい柔らかさに包まれ、さっきまで悲しみで溢れ混乱していた心が、ふわりとほどけて溶ける。


 ブランシュの肩に顔をうずめて目を閉じると、もう止まった筈の涙がぽろりと一粒、零れ落ちた。


 ブランシュの肩越しに、屋敷から公爵達が駆け出してくるのが見えた。

 公爵の他に、オデイエ卿とキャリエール卿、ラッド卿にアイユ卿やエルガー卿。その後ろには、ランブラーとロブ卿の姿もある。



 ――わたしは、失敗したのだ。


 絶対にこの交渉だけは成功させようと思ったのに。こうなってはもう、どうしようもない。

 アリスタは、屋敷を頸になる。

 名ばかりの伯爵令嬢であるわたしには、アリスタの一家を助ける術がない。

 わたしは、アリスタが地獄に落ちて行くところをただ指を咥えて見ていることしかできない。

 さっきからの緊張のせいもあり、足が震え始めた。ブランシュは、わたしを抱き締める腕にぎゅっと力を入れた。


「ブランシュ、どうしたんだ? 何があった?」


 公爵が駆けつけながら、ブランシュを気遣った。その場のただならぬ雰囲気を察して、怪訝な視線をウェイン卿に向け、声を掛ける。


「レクター、何があった?」



 ランブラーが心配そうに碧い瞳を曇らせて、ブランシュとわたしの側に近付いた。


「ブランシュ、リリアーナ、どうしたんだ?ウェイン卿、何か問題でもあったのか?」


 その場に駆け付けた者は皆、ウェイン卿が説明の為に口を開くと思っていただろう。しかし、口を開いたのはブランシュだった。


「……わたくしが、眠れずにバルコニーで風に当たっていると、リリアーナが屋敷から出てくるのが見えました。

 それから、ウェイン卿がリリアーナに近づいて、何やら問答した後、リリアーナをそこのベンチに座らせて話し始めました。

 二人はよほど取り乱しているのか、わたくしには気付かず、話し声ははっきりと聞こえました」


 溢れる感情を抑えきれず、震えて響くその声の調子に、どきりとする。


「公爵様とわたくしの食事に毒が入ったのは、ただの事故でした。

 若いメイドが、ハーブを摘むつもりで、誤って水仙の葉を摘んだのだろうということでした。……当家のメイドが公爵様のお食事に毒を入れてしまったこと、深くお詫びいたします」


 ブランシュが、公爵のことをいつものアラン、ではなく公爵様、と呼んでいる。その声に含まれるただならぬ気配に、公爵も周りも気付いたようだった。

 ブランシュは、わたしの肩をしっかり抱き締めたままだった。


 公爵の鳶色の瞳が、不安げに揺らいだ。


「ああ、そうか、……いや、それなら、別に、」


「それから、リリアーナが、驚くようなことを言っていました。公爵様とそこにいるウェイン卿が、リリアーナを……わたくしの妹が毒を入れたに違いないから、ドブネズミを始末しようという話をなさって、実際に四人の騎士を差し向けたと言うのです」


 ブランシュの碧い瞳は、真っ直ぐに公爵を見つめていた。

 公爵の顔が、みるみる蒼褪めた。まるで、さっきのウェイン卿のように。


「何だって……?」


 隣に立つランブラーが低い声を出した。この背にそっと伸ばされて触れた、掌の温もりが伝わる。



 永遠とも思える長い間、誰も何も答えなかった。


 ただ、半分欠けた月がやけに明るく照らす庭園に、風が揺らす木々の音だけが静かに流れる。


 ブランシュは公爵の顔をじっと見つめていたが、やがて、何かを悟ったかのように、そっと嘆息を落とした。


 抱き締める手をほどくと、わたしの肩に優しく手を置く。

 柔らかく微笑むブランシュの目に、涙は浮かんでいなかった。


「リリアーナ、貴女は何も心配しなくてもいいわ。アリスタのことも大丈夫だから、後のことはわたしに任せて、貴女は部屋に戻って休みなさい。ロブ卿、リリアーナを部屋まで送ってやってもらえますか? 途中で、アリスタを呼んでやってください。お願い致します」


「わかりました。レディ・リリアーナ、さあ、行きましょう」


 その知的な瞳を顰めて公爵を見ていたウィリアム・ロブ卿が、ブランシュに言われて、わたしに柔らかく微笑みかけた。そして、優しい手つきでわたしの腕を取ると、背をそっと支えてくれる。


 ロブ卿に促されるままに庭園を去る時、ほんの一瞬、後ろをそっと振り返ると、ウェイン卿はひどく途方に暮れた顔をして、こっちを見ていた。


 まるで、親とはぐれて帰り路のわからなくなった子どものような、心細そうな、悲しそうなその様子に、胸を突かれる。

 

「戻ってきて」


 ほんの一瞬、赤い瞳にそう言われている気がして、足を止めそうになって、だけど、そんな馬鹿な、と思い直した。


(ウェイン卿が、わたしと一緒にいたいなんて、思うはずない)


 ウェイン卿には、立派な居場所がある。どこにもないのは、わたしの方なのだから。


(なぜ、そんな顔をするのか、わからない――)


 死を願うほどに、わたしを嫌っていたでしょう?


(でも、わたしは、あなたが大好きだった)



 ――何もかも、思うようにはいかなかった。



 それどころか、滅茶苦茶にして終わらせてしまった。


 せめて、明日の朝、ここを出て遠くに行こう。


 もっともっとずっと前に、そうしておくべきだった。




 心の中で、さようなら、と呟いた。





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