第57話 身に余る夢
「公爵のところにお連れします。……もうこれ以上、嘘は結構です」
ウェイン卿は冷たく蔑んだ目をして、わたしを見下ろした。
最初に馬車に乗った時と全く同じ、その温かみの欠片もない瞳を見た瞬間、全部わかった。
(……なんだ、あるじゃない)
大丈夫、と思う。
ずっと、半信半疑だったでしょう?
期待なんてしていない。ちゃんとわかっていた。
(……あるじゃない。何もかも全部、うまく行く方法が)
気紛れみたいに優しく細められた赤い瞳も、歩き疲れたわたしの手を引いた大きくて温かい手も、低く柔らかく耳に響いた声も、全部全部、嘘かもしれない、夢かもしれないと、ちゃんと覚悟していた。
(あー、良かった。それなら、もう大丈夫)
それなのに、意図していないのに、胸の深いところがぎゅっと締め付けられて、溜め息が零れた。
心のどこかで、つい希望のようなものを抱いてしまったのだろうか。
結局、五歳のあの日から、少しも進歩していないんだから。
(――だけど)
それでも、今日一日に起きたことは、あまりにも夢みたいな出来事だった。
ノワゼット公爵は、これからは隠れないで好きに生きて良い、と言った。嘘だったとしても、嬉しかった。
ブランシュと、まるでずっと普通の姉妹だったみたいに着せ替えごっこをした。おまけに従兄のランブラーまでが、わたしを家族のように扱ってくれた。
あまりにも出来すぎていて、途中、何度もこれは夢かも知れない、と疑った。
(ウェイン卿には、やはり感謝しよう)
例え真相を暴くための嘘だったとしても、林の中でわたしに優しく語りかけ、フードを外してくれなかったら、こんな夢のような一日は訪れなかっただろう。
例えそれが、嘘という魔法で造られた一日限りの幻でも、最後に、身に余る夢を見せてもらえた。
これからずっと、今日のことを思い出せば、幸せな気持ちでいられる気がした。
――だけど、もう、目は覚めた。
夢を見る時間は終わったのだ。
「……そうですね。公爵様は、まだお休みになっておられませんか?」
わたしの質問に、ウェイン卿は怪訝そうに眉を寄せたが、答えてくれた。
「……書斎で、ロンサール伯爵とロブ卿と一緒におられます」
「それならもう、今からすべてお話しします。公爵様とウェイン卿のお二人だけに、お話しさせていただけますか? どうせ、明日でも今日でも、たいして変わりませんから」
投げやりに聞こえたのか、ウェイン卿の冷たい瞳が、急に気遣うように陰る。
この人は、やっぱり優しい人なのだ。全部が嘘ではなかったのかも知れない。
だけど、もうどちらでもいい。
期待なんてしない。
もう、いらない。
優しいものは怖いから。
わたしは知っているから。
父に初めて話し掛けられた『海底』での朝の後、学んだ。
誰にも、何にも、期待してはいけない。
期待が大きければ大きいほど、落ちる底は、深く、暗い。
「令嬢……?」
ウェイン卿の手が、そっと伸ばされる。
ぱしっ、と反射的に振り払ってしまう。
驚いたその顔を見て、思わず口走ってしまった。
「やめてください。貴方だって、嘘つきなのは同じでしょう?」
あーあ、言ってしまった。
これだから、一時の激情に流されるのは恐ろしい。
言わなくても良いことを口走って、すぐに後悔する羽目になる。
「どういうことですか?」
ウェイン卿が少し狼狽しているようにすら見える。
あれ、目から水がぽろぽろと零れてくる。
おかしい。泣くつもりなどないのに。この状況で涙を流すなど、卑怯だ。
ほら、ウェイン卿は驚いて、わたしに差し出すハンカチをポケットから取り出そうとしている。
(やっぱり、優しい人だなあ……)
――大好きだった。
(だけど、もういらない。この想いも全部、何もかも、もう捨てる)
わたしは自分のハンカチを取り出そうと、ポケットを探った。
ウェイン卿が差し出してくれたハンカチには首を振り、自分のハンカチを目に当てる。どうせもう、洗濯して返す機会もないのだ。
「令嬢、やはり今日のところは、お部屋にお送りします」
気のせいか、焦りを含んで響くその声にも、首を横に振る。
「落ち着いたら、すぐに参りますから」
あっちに行っていてほしい、という意味だったが、ウェイン卿はその場に立ったまま、動かない。
「……とりあえず、座りましょう」
ウェイン卿の手が肩に触れた感触に、身が竦み、びくりと震える。その反応に驚いたのか、すぐに手は離され、屋敷近くのベンチを指し示す。
――離れてくれる気は、なさそうである。
諦めて、促されるままベンチに腰かけた。
座ると少し落ち着いて、涙は無事に止まってくれた。
ウェイン卿はベンチの前に立ち、離れようとはしなかった。もう逃げたりしないのに。
「……誰かを、庇っているのですか?」
ウェイン卿が、ぽつりと呟いた。
あまりにも的を得ているので、驚いて顔を上げる。
ウェイン卿は真剣な眼差しで、わたしを見ていた。
どうせ、全て言ってしまうつもりだった。こくりと頷く。
「……そうですか」
固く、緊張した声が問いかける。
「名前を、仰ってください」
「………」
わたしは、唇を噛んで俯く。
言おうと思っても、喉の奥に引っ掛かって出てこない。
「………ブルソール、ですか?」
………え?
ブルソール? ブルソールって誰………?あ、もしかして、ブルソール国務卿?
ぽかんと目を見開いて見上げたわたしを見て、ウェイン卿はびっくりしたような顔をした。
「違うんですか?」
「………違います」
そんな偉い人と、わたしに接点などあるはずない。
ふるふると首を振ると、ウェイン卿はほっとしたように息をついた。
「それじゃ、一体誰が……、それは、令嬢が庇う価値がある相手でしょうか? 令嬢が苦しんでいるのを知りながら、名乗り出もしない」
「本人も、知らないのです」
「………は?」
ウェイン卿の顔が怪訝に曇った。
わたしは、赤い瞳を真っ直ぐに見上げる。
(この交渉だけは、成功させる。絶対に)
つい今しがた、ウェイン卿は最初に馬車に乗った時のような、凍えるほど冷たい目でわたしを見た。
――それなら、きっと上手く行く。
「あれは、ただの事故だったのですから」
しばしの沈黙があった。
「……事故?」
わたしは、語り始めた。
あのとき、わたしが知り、隠し通すと誓った真相を。
「あの日、公爵様と姉の夕食に毒を入れたのは――、アリスタです……アリスタ・グレイです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます