第56話 猜疑心 (レクター・ウェイン視点)

 風の匂い。口にしたものの味。誰かのちょっとした表情や仕草。

 何がきっかけかわからない。突然ふと、忘れていたはずの記憶が呼び起こされどうにもならない時がある。


 体の奥底に沈みこんだ筈の、疑い、妬み、不安、怒りといった汚い澱のようなものが、呼び起された記憶に攪拌され、浮き上がる。


 ――それがたまたま、この時と重なった。

 

 あのメイド、マルラン男爵邸で拘束した、ロレーヌとかいう娘。


 ――いやだ! だって、仕方なかった! こうしなきゃ、あたし……! こんな子、いらなかった! あいつが…っ、あいつが無理やり! なんで、なんで! あたしがこんな目に!! いやあっ、いやだ!

 

 それなりに美しかったのだろう顔は、ひどく歪み、狂ったように泣き叫んでいた。


 ――哀れだな、と思った。


 誰かを、思い起こさせた。遠い昔に沈めた記憶の中の。


 いや、それもこれも全て言い訳で、結局、自分はそういう人間なのだ。

 誰のことも信じられない、灰色の世界を生きる人間。


 もし、誰の人生にも訪れる、何か大切なものを掬い取れたかもしれない最後のチャンスというものがあったとすれば、きっとこの時だったのだと思う。


 残念なことに、そういう一生に一度、という大事な時に限って、馬鹿な真似をして取り零す。


 そしてもう、どれほど後悔しても失った時間は巻き戻せないように、機会は二度と巡ってこない。



 §



「まぁだ、そんなこと言ってんですか?」


 マルラン男爵を王宮の牢に繋いだ帰り、俺達四人を呼び止めたノワゼット公爵は、キャリエールに呆れた声で返された。


「いやあ、だってさあ、なんか隠してるような気がするんだよね、レディ・リリアーナ。ほらアレ、今世紀最高の策略家の勘ってやつ?」


 タブロイドに書かれて以来、気に入ったらしい異名を引用しながら、誇らしげに親指を立て自身を指し示しす公爵に四人の騎士は冷ややかな視線を浴びせた。


「いや……ないでしょ。公爵、ご自分が荒み切ってるからって、世の中斜めに見過ぎです」


「どっからどう見ても、清廉潔白にしか見えませんが」


「ほらほら、ウェイン卿も睨んでますよー」


 オデイエ、ラッド、キャリエールが続け様に返すと、公爵は頭を掻いた。


「まあ、いいじゃないか。ちょっとカマかけてみるだけ。別に傷つけたりしないから。きょとん、で返されたらそれまでにするよ」


「……………」


 四人の騎士に冷たい視線を向けられながらも、公爵は自信ありげな微笑を浮かべ頷いた。



 §



 夜の帳が降りる中、リリアーナが裏口から人目を忍ぶように出てきたとき、まさか、と思った。

 動転して、胸がぐっと押さえつけられたようになって、吐息が零れた。


『念のため、逃げ出さないように見張っておけよ』


 公爵がそう言った時、流石にそんな必要はないでしょう、と答えた。それでも、そこにいたということは、猜疑心が俺にもあったのだろう。


 彼女がこんな事件に関わっているはずはないと、信じていた。他の人間とは違うと思った。それなのに、裏切られた。騙された。振り回された。



 公爵がカマをかけたとき、何のことだか意味が分かりません、と言うに違いないと信じていたリリアーナは、見ているこっちが驚くほど、動転した。

 その人形のように整った美しい顔には、はっきりと、『真相を知っている』と書かれていた。 


 ――衝撃を受けた。


 誰かに頼まれたのか? 王宮に巣食う老獪な奴らの顔が、次々に浮かんだ。この屋敷にいる悪意の主と、仲間だったのか? 実の姉が苦しんでいるときも、何も知らないような顔をして。


 湧き上がるべきは、怒りの感情である筈の状況で、全く愚かにも、俯き項垂れる様子を見て、駆け寄って守ってやりたい――などと思う己に、もっと愕然とした。


 ――馬鹿か?


 騙されたのだ、まんまと。


 昨日、一緒にノワゼット公爵の前でフードを外し、顔を見せ、誤解が解けたかに思えた時も何も言わなかった。

 真実を告白する機会は、何度もあったのに。


『明日、お話しいたします』


 そう言ったではないか。


 それなのに今また、逃げ出そうとしている。


 ――逃がさない。もう、騙されたりしない。


 リリアーナは月明かりの下、夜の庭園を俯きながらゆっくりと進み、林に通じる裏門へと向かって行く。裏切りの具現のごときその姿すら、片割れ月の青白い光を纏って、幻想的に光り輝いていた。


 泳がせて後をつけるべきだと、分かっていた。

 あの悪意の主と、落ち合うつもりかも知れない。

 指示を出した人間と、会う可能性もある。


 しかし、裏切られたという衝撃と、腹の底からふつふつ湧き上がってくる暗い感情を、到底、抑えることなどできなかった。

 裏門にたどり着いた彼女は、手前に静かに門を開こうとした。

 開きかけたそれを、背後から近づき、力任せに押さえつける。

 がちゃん、と鉄製の門が勢いよく閉まる音が、夜の庭園に大きく響く。


「どちらへお出かけですか? 伯爵令嬢」


 我ながら感じ入るほど、嫌な感じの声が出せた。


 リリアーナは振り返り、驚いた顔をした。


 いつも通り黒い外套を着ているが、フードは下ろしていた。明るい半輪の月に照らされ、その顔はよく見えた。見開かれた大きな目と、小さく開かれた形の良い唇すら可憐で、余計に苛立ちが募った。


 この美しい顔があれば、人を欺くのはさぞ簡単だったろう。


 まんまと騙された俺を見て、嘲笑っていただろうか。


「……あ、あの、少し、散歩に……」


 喘ぐように、可憐な声で嘘を紡ぎ出した。こんな夜更けに、一人で林に散歩になど、行くわけがない。


 ――この期に及んで、くだらない嘘。まだ騙せると思われている。


 何もかも、腹立たしくて、不愉快だった。


 期待なんかするから、こんなことになった。誰のことも、信じるまいと思っていた。そうしておけば良かったのだ。


「そうですか。しかし、約束が違いますね」


 俺は、うっすらと笑って言った。この顔を見て、リリアーナは怯えたように半歩下がる。


「本当に、ただ、寝付けなくて」


 しかし、馬鹿みたいに、リリアーナは繰り返した。


 俺は彼女を冷たく睥睨し、口を開いた。


「公爵のところにお連れします。……もうこれ以上、嘘は結構です」


 リリアーナは、黒水晶のような瞳をゆっくりと瞬かせた。


 初めて見た時、吸い込まれそうだ、と思った瞳だった。


 やがて、何かを諦めたようにその目を伏せると、そっと、浅い息を吐いた。


 その途端、ふと思う。


(この数週間、この目と耳で見聞きしたことが、全て偽りだったなんてことが、あるだろうか――?)



 ――そして、ようやく気付く。



 何か、とてつもない間違いを犯したのは、こっちの方だったんじゃないか――?




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