第54話 姉と従兄と上機嫌な公爵
「さあ、まずはロンサール伯爵の無罪放免を祝し、乾杯といこうじゃないか」
アラン・ノワゼット公爵は上機嫌な様子でアペリティフのグラスを傾けた。
グラスの底からしゅわしゅわと立ち昇る白銀の泡沫が、シャンデリアの光を弾いて煌めく。
ランブラーとウィリアム・ロブ卿は朝とは別人のように、落ち着き払った余裕の笑みを浮かべ、優美な仕草でグラスを傾けた。
その日の夜、伯爵邸のディナーホールには、朝とほぼ同じ顔ぶれが揃った。
騎士の数だけが減っていたが、いつものウェイン卿、ラッド卿、オデイエ卿、キャリエール卿の四人や、そこはかとなく気品漂うブランシュの護衛騎士たちの姿はいつも通りだ。
わたしは今、いつもの黒いドレスではなく、ブランシュに借りたドレスを着ていて、とても落ち着かない。
今朝、公爵と騎士たちがマルラン男爵の屋敷に向かった後、ブランシュはわたしの顔を眺め、アイスクリームがたくさん載ったパフェを前にした子供みたいに、うっとりと潤んだ瞳を細めた。
「本当にね……、リリアーナ。こんなことって、信じられないわ……。ねえ、そう思わない? お従兄様?」
ランブラーもわたしの顔をしげしげと眺め、満面の笑みを浮かべている。
「本当だよねぇ、ブランシュ。これはちょっと、とても信じられないじゃないか」
「ウフフ……」
「フフフ……」
顔を見合わせ、不穏な笑みを浮かべて何やら通じ合った二人は、わたしをブランシュの部屋に連れて行き、着替えさせようとした。
「リリアーナ。君、他のドレスは?」
ランブラーに聞かれ、持っておりません。と答えると、「え、何で!?」と驚愕の表情を浮かべたランブラーに、眉間に皺を寄せたアリスタが言い放った。
「リリアーナお嬢様は、十歳の時からこちら、一度も新しいドレスを買っておられません。今、着ておられるこのドレスもお嬢様が屋根裏の古い暗幕を使って、ご自分で仕立てられたものでございます」
「ま……まさか……!」
第一騎士団の騎士に突入されかかった時よりも真っ青になったランブラーは、ロウブリッターに命じて屋敷の細かい収支報告書を持ってこさせた。
「そんな……そんな馬鹿な……! リリアーナ、君、まったく金を使っていないじゃないか!」
ぺらぺらと紙をめくり、目を見開いて凝視していたかと思うと、がばり、とわたしに抱きついた。
「ごめん! リリアーナ! 僕は……僕は悪い従兄だった。これからは、心を入れ替えて、ここに住んで、君を実の妹だと思って、社交界の誰にも負けないくらい飾り立てるからね!」
「……はい、いえ、そんな、わたくしこそ、それに……」
社交界や着飾るなど、過分なご配慮ですから……と続けようとしたら、ランブラーは、にんまり、と微笑んだ。
碧い目の不穏な三日月ぶりに、言葉を失う。
「……僕、可愛い女の子の社交界デビューのプロデュースって、一度やってみたかったんだよね。だってほら、楽しそうじゃない?」
と言って、ふふふふ……と誰をも魅了する美しい悪魔みたいに笑った。
ブランシュはブランシュで、うっとりと遠い目をしながら、一人でぼそぼそと呟き始めた。
「……まさか、ねえ、ほんと……十二年も、我慢したんだもの……」
――何を?
と訊く前に、わたしを見て、にっこりと笑う。
「たっぷり、楽しみましょうね」
ちょこんと可憐に小首を傾げ、小指を立てた美しい手を口元に寄せる天使のようなブランシュの顔はうっとりと上気して、その目はやっぱり不穏な三日月だった。
――だから、何を?
という言葉は、生唾とともに、ごくりと飲み込んだ。
わたしを恐れている筈のメイド達が、今日はどういう訳か淹れたてのお茶と焼き菓子をワゴンに乗せ、次々とわたしの元を訪れる。
「アリスタだけでは、不足でございましょう? リリアーナ様、わたくしをお付きのメイドに指名してください」
「やだ、あんたはいつも忙しい忙しいってぼやいてるじゃない。リリアーナ様、わたくし、手先の器用さには自信がございます。ぜひ、わたくしを……」
「……はい、ご親切にありがとうございます。ですが、皆さん、お忙しいでしょう? アリスタが色々してくれて、お陰様で手は足りていますから……」
何度も熱々に淹れ直され、その度にありがたく口をつけ、紅茶でたぷたぷになったお腹を抱えてそう言うと、彼女たちは瞳を潤ませ、ふるふると震えた。
「アリスタ!! ずるい!! 知ってて黙ってたんでしょ!? 道理で最近、やけにご機嫌でリリアーナ様のとこに行ってると思った!!」
「はん! リジー、屋根裏に行くのなんて、ぜったい嫌だって言ってなかったっけ?」
「言ってない!!」
「言ったもん!!」
そして、決まってアリスタと喧嘩を始める。
困惑していると、長身で黒髪のウィリアム・ロブ卿がそっと近づいてきた。
「レディ・リリアーナ、伯爵の濡れ衣を晴らしてくださったこと、私からもお礼申し上げます」
わたしも立ち上がり、恐縮して返事をした。
「とんでもございません。わたくしは、自分のやりたいことを致しただけですから」
「それでも、貴女は、私にとっても恩人です。今後、この私で力になれることがありましたら、何なりと、おっしゃってください」
知的な黒い瞳を柔らかく細め、穏やかな口調で言う。
わたしと同じ黒でありながら、ロブ卿の髪と瞳はとても知的で、深遠な宇宙を呑み込んだように美しかった。ロブ卿のまとう優雅な雰囲気ゆえか、その瞳を見るとなんだか安心できた。
「ありがとうございます」
恐縮しながら答えると、それから……と言いにくそうに、眉根を寄せる。
「ランブラーがああなったら、もう誰にも止めることはできません。ですから、」
覚悟された方が良いですよ。とわたしの為に、仕立て屋を大至急で呼び寄せる指示を出しているランブラーを見やり、優しく言った。
§
そして今、わたしは胸下切替の上の部分は白、下の部分は紺のチュールという、エンパイアラインのドレスを身に纏っている。
広く開いた胸元に、肩にはパフスリーブの袖が申し訳程度にのっているだけ。なんだか首と胸がすぅすぅするし、顔周りが白であり、慣れないことこの上ないが、ブランシュの持つドレスの中では、これが一番、地味で素朴であった。
ブランシュとランブラーがやたらと勧めてきた、ピンクや水色や純白はあまりに神々し過ぎて、目眩がして倒れそうになった。「ど、……どうしても、どうしても、どうしたって、無理です……」と涙を浮かべて懇願したら、二人とも不満そうに眉尻を下げ、頬を膨らませ口を尖らせながらも、何とか渋々これで許してもらえた。
ブランシュの髪結いの侍女が結い上げてくれた髪は丁寧に纏められて、ところどころに白いミニバラまで飾られている。
全てが終わった時には、疲労困憊のあまり、ふらふらであった。
世の女性たちの美しさが、一朝一夕のものでない、苛烈な努力の上に成り立つものであることを身をもって体験し、この世の全ての美しい女性達に対し尊敬と賛美の念を抱いた。
「とっ……っても綺麗よ! リリアーナ!! 天使みたい!」
「完璧だね! 僕のリリアーナ。君の前では、天使や妖精だって霞んじゃうよ」
ブランシュとランブラーが上気した顔で満足げに頷き合いながら、そんなことを言うので、「これが、噂に聞く、身内の欲目、というものですか……」と内心、青ざめた。
そして、全てのやるべきことを終えて戻ったノワゼット公爵と共に、こうして、夕食の席に着いている。
公爵は、わたしを一目見るなり、ニコニコしながら、信じられないような言葉を口にした。
「とても綺麗だね、リリアーナ。そうしていると、君たち姉妹は、タイプは違うけれどそっくりじゃないか」
なんて紳士的な人なのだろう、あらゆる女性に対して失礼のないよう、幼い頃から厳しく躾けられてきたに違いない、と感動した。
公爵の後方には、いつものように騎士達が控えている。その中にウェイン卿もいるが、一行が戻ったのは夕食の始まる時間ぎりぎりだったので、言葉を交わす機会はなかった。
いや、もちろん、言葉を交わしたい、などという分不相応な願いを抱いたりしているわけではない。
――本当にもう、絶対に違う……!
昨日、ちょこっと親切にしてもらえたからといって、勘違いして親しげに振る舞うほど、こっちの陰キャ歴は浅くない。もう、生粋の真正の筋金入りの自覚ありの陰キャである。
うっかりチラ見などして、薄気味悪い思いをさせてしまわないよう、努めて視線も向けないよう己を律する。
しかし、食事の最中は逆に騎士のいる方角や給士達から、突き刺さるような視線を感じ、痛い。
『無理して似合わないドレス着ちゃって……がんばってるなあ……』『遠い東洋の国の伝統行事、七五三、とかいうやつか……』などと思われているだろうことは、想像に難くない。
心頭滅却し、心を無にして、視線に耐えた。
公爵は、終始、とても上機嫌だった。
素晴らしいコースを締めくくる、苺のミルフィーユにラズベリーアイスを添えたデザートを食べ終えた後、事の顛末を話しはじめた。
「あれから、うちの騎士を引き連れてすぐにマルラン男爵の屋敷に向かいました。
男爵はしらを切り通そうとしましたが、騎士達がロレーヌという侍女を取り囲み『ロンサール伯爵の嫌疑は晴れた。もう全部わかっている』と言ったところ、狂ったように泣き叫び、すべてを白状しました。
マルラン男爵はストロベリーブロンドとエメラルドグリーンの瞳に異様なほど執着する異常者だったようです。
しかし、女性達に何かしているのではないかと、夫人にうすうす感付かれ、問い詰められたので、夫人を始末しようと計画したようですね。
夫人の方も、どうにもおかしいと思いながら、証拠はないので、まずは憧れのランブラー・ロンサール伯爵に相談しようとしたのでしょう。夫人にとって、君は白馬の王子様だったんだろうね」
水を向けられて、ランブラーが苦笑する。
「マルラン男爵は、ロレーヌを脅して、リリアーナがさっき言っていたような方法で夫人に毒を盛らせた。夫人が亡くなるには至らず、一命を取りとめたのは何よりだった。さっき病院から連絡が来て、どうも命は助かったようだよ。じきに回復するようだ」
ランブラーが、ほっとしたように頬を緩めた。
やはり、心配していたのだろう。
「それから、誘拐された三人の女性たちだが……」
わたしは、息を呑んだ。
「全員、無事に保護されたよ」
公爵がにっこり笑って言ったので、胸がいっぱいになり、溜め息が零れた。
「マルラン男爵が借りていた川沿いの倉庫に監禁されていた。男爵のやつ、監禁したまでは良かったが、騎士団が屋敷に頻繁に出入りし、どうにも動きづらくなったので、食事を運ばずに飢え死にさせようと計画していたらしい……。
しかし、ロレーヌが夜中にこっそり食事を運んでいたそうだ。今は三人とも王立病院に入院しているが、じきに退院できるだろうと聞いた。さっき、クルチザン地区に使いをやったから、今頃はもう、君の友人の少年と再会できているはずだよ」
ホープのことを思って、心から安堵した。
『リリー、ここに居て。お母さんが戻るまで、リリーと一緒に居たい』
そう言って握ってくれた手の温もりを思い出す。
お母さんが戻ったなら、きっともう、大丈夫。
わたしの役目は、終わったのだ。
――ホープ、良かったわね。わたしを必要としてくれて……ありがとう。
もう会えない友達に、心の中で、そっと礼を言った。
それから、わたしは線の細い、いつも具合が悪そうだったロレーヌのことを思った。新入りのわたしにも親切に接してくれた、優しい女性だった。
そんなことに協力させられて、死ぬほど恐ろしかったろう。
「ロレーヌは……どうなりますか?」
問うと、公爵は優しく頷いた。
「ロレーヌは、……可哀そうだが、無罪というわけにはいかないだろう。しかし、脅されてやったことでもあるし、夫人は何とか助かった。三人の女性の命が救われたのもロレーヌのお陰といえる。できるだけ、罪が軽くなるように働きかけるよ。拘留中も体に負担がかからないよう、配慮させよう」
公爵の優しい声に、ほんの少しだけほっとする。いつか、時間はかかるかもしれないけれど、生まれる子と共に幸せになってほしかった。
「マルラン男爵の方は……、おそらくもう二度と、生きて外の世界を見ることはないだろうがね」
最後の方は、氷のように冷徹な声だった。
「それにしても……、白獅子の連中と青竜の連中のあの顔……」
ふ、とノワゼット公爵は遠い目をして笑みを浮かべた。
白獅子とは、白い制服に獅子の紋章の第一騎士団、青竜とは、浅葱の制服に竜の紋章の第三騎士団のことだと思われた。
「マルラン男爵邸で捜査していた青竜の連中の前でマルラン男爵を拘束したときの、奴らのあの愕然とした顔……。それから、グラハム・ドーン第一騎士団団長には、明日にでもロンサール伯爵に謝罪に来るよう、言っておいたよ」
言いながら、大変ニコニコされて、満足そうである。
ランブラーは、「はあ、いやもう、別にどうでもいいですけど」と呆れた風に答えているが、オデイエ卿はじめ、キャリエール卿や他の騎士の方々も、ぷぷぷ、と至極嬉しそうに笑いを堪えている。
ウェイン卿とラッド卿は、いつもながら無表情である故、どう思っているのかわからないが、騎士団の間には、ライバル関係のようなものが存在するようである。
何にしても、ホープのお母様の無事が分かって、マルラン男爵が逮捕され、ランブラーの濡れ衣も晴れた。
公爵様は、すこぶる機嫌が良い。
何と言っても、夢にまで見たブランシュのきらきら輝く微笑みが、すぐ目の前にある。
加えて、ランブラーまでが、家族のように優しい視線を向けてくれる。
――これから、すべてのことが上手く行くように思えた。
愚かにも、わたしは浮かれて、忘れていた。
こういうときこそ、足元に気を付けるべきだ、ということを。
眩暈がするほどの『幸福』の後には、必ず深い闇が待ち受ける。
落とし穴はいつだって、頬を緩め踏み出したその先で、暗い口を開けて嗤っているのだ。
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