第29話 身の程知らず
馬車は、伯爵邸への道のりを風のように駆け抜けていた。
ウェイン卿は、御者の腕前も大したものらしい。鞭の音は軽く、馬車はそれほど揺れもしていないのに、窓の外の景色は魔法にかけられたような速さで流れて行く。
ロイ・カント卿の家で先ほど起こった出来事のことを思えば、これから様々な報告と手配に追われるだろうから、ウェイン卿が急ぐのも無理はない。
――それなのに、さっきはぐずぐずして悪いことをしてしまっただろうか?
――いや、もしかしたら。
(今から、ドブネズミの始末をしようと、急いでいるのかもしれない……)
騎士団副団長……世間知らずのわたしにも、多忙を極める役職、ということくらいはわかる。
わたしなどには想像もつかない、目まぐるしい日々を送っているに違いない。
きっと、たかがドブネズミの一匹くらい、もうさっさと駆除して仕事を一つでも減らしたい、と思っているだろう。
――やっぱり、乗るべきではなかった……!
――何としても、歩いて帰るべきだった……!
(ノーと言えるようになる薬、欲しい……!)
……だけど……
――さっきは、どうして助けてくれたんだろう……?
セシリアが掴んだポットをこちらに向かって振りかぶるのが見えた瞬間、当たる! と確信した。
わたしの誠に残念な反射神経では、もはや避けることは不可能だった。
顔面にポットが激突することを覚悟して、目を瞑って衝撃に備えた。
――それなのに、
気が付くと、ウェイン卿に抱えられるようにして、床に伏せていた。
まさか、ウェイン卿がわたしを庇ってくれるとは思いもよらず、心の底から仰天した。
ほうっと、溜め息が零れる。
(やっぱり、本当は優しい人なんだろうな……)
いつ見かけても、無表情で冷たい目をしているけれど、それはきっとわたしに対してだけ。
以前、鴉を助けていたように、本当は傷付けられそうな生き物を放っておけない、博愛主義の人なんだろう。
(……助けてもらったお礼、普通は何かしたりするものなのかな……?)
馬車の座席にドレスの汚れを移してしまわないよう、自分の大判ハンカチを座席に広げていた。クッションにかけたハンカチが目に入り、ふと胸に浮かぶ。
男性の身の安全を願って、女性が刺繍を施したハンカチを送る習慣があるらしい。
刺繍なら、時間だけは有り余っていたから、少し練習したことがある。大したものはできないが、ある程度のものなら――
そこまで考えて、あの夜の冷たい声が、頭の中で響く。
『ドブネズミは、始末しておきます』
いやいやいや、ないわー……と我に返る。
(いっくらなんでも、始末しようとしているドブネズミから物をもらって、喜ぶ人がいるわけない……!)
第一、身の程をわきまえなくてはいけない。魔女と呼ばれる女から渡された不吉極まるハンカチを、誰が好き好んで身に着けるのよ……?
――痛い、我ながら痛すぎる。
恥ずかし過ぎて、両手で顔を覆う。
――まったくもう、これだから、わたしのような孤独な女はタチが悪い。
恋は時に自分を見失わせ、理性を奪い、暴走させる。
通常、そうやって周りが見えなくなった時、友人や家族などが、「いや、ちょい待て、ちょっと落ち着け」と制止してくれるものなのだろう。
――しかし、わたしの周りには人が皆無。
己を律して、しっかり制御しなければ、とんでもない勘違い女になり、周りに迷惑をかけまくること必至。
――気を付けよう、本っ当に気を付けよう……!
(絶対に、絶対に、この迷惑な想いは墓場まで持って行く。一生、誰にも、悟らせない。 その為には、近づかない。話しかけない。目も合わせない。ハンカチ贈るなんて、とんでもない……!)
誓いを新たに、胸に刻む。
そういった行為は、世に数多いる見目麗しく可憐な女性達が行うからこそ、歓迎されるのだ。
ウェイン卿もきっと、誰か魅力的な女性からハンカチを贈られたなら、わたしに向けるものとは違う、優しい目と優しい声でお礼の言葉を囁く。
そこまで考えると、無性に惨めな気分になって、泣きたくなってきた。
この場に沼があったなら、今すぐ肩ぐらいまで沈みたい。
……だめだ、浮上するために別のことを考えよう。
そうだ、さっきはどうなることかと思ったが、セシリアが何とか助かってくれて、良かった……。
(だけど、余計なことをしてしまったなぁ……)
わたしがいなければ、騎士の誰かが異変に気付いただろう。
きっと、悪名高く怪しいわたしに気を取られたせいで、気付けなかったのだ。
(わたしがでしゃばったせいで、あやうく大変な事態に陥るところだったな……)
――ここのところ、セシリアのことが気になって、よく寝付けなかった。
今朝も、いつも通り早起きして洗濯と掃除をした。
――なんだか、たまらなく眠い。
先ほどから間断なく押し寄せる疲労感に抗うのも、もう限界だった。
――馬車の心地よい振動に誘われるように、いつしか、うとうとと瞼が重くなった。
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