第30話 勘違い

 レクター・ウェインは急き立てられるように馬車を走らせ、ようやくロンサール伯爵邸のエントランスで馬を止めた。


 素早く御者席から飛び降りると、切迫した様子でキャリッジの扉を開ける。


 座席のクッションに敷かれた白いハンカチの上に、リリアーナが華奢な体を横たえているのが目に入り、ぎくりと胸が鳴る。


(……まさか、具合が悪くなったのか……?)



 もたれたはずみで、帽子が外れかけている。いつも隠されている顔が、間近にはっきりと見えた。


 体調が悪そうなわけではなく、ほんのり赤みの差した健康そうな顔で、すやすやと心地よさそうに寝息を立てているのを見て、ほっと胸を撫でおろす。


 ――ハンカチを敷いているところを見ると、先程、『馬車を汚してしまいますので』と言っていたのは、そんな馬鹿な、と呆れたが本気だったのか? どこの世界に馬車掃除の使用人に気を遣う貴族令嬢がいるんだ?



『すぐそこは歩き慣れた通りですから』とも言っていたが、腕に怪我まで負い、あんな庇護欲をそそる身なりで歩いていたら、誰かに声を掛けられるに決まっている。


 ――世の中は不心得者だらけだっていうのに……。


 まさか、いつも騎士どころか付添い人も連れず、一人で出歩いているのか? 後見人のロンサール伯爵は一体何を考えてるんだ? 今度王宮で見かけたら、言ってやらねばなるまい、と思っていたら、気付かぬうちに険しい顔をしていたのか、リリアーナの頬が強張っていた。


(……失敗した……。怖がらせるつもりは、なかったのに)


 先ほど、セシリアの家でリリアーナの顔を初めて見た時は、なぜか体に衝撃が走って、世界が一瞬、真っ白に染まった。


 記憶にある限り、これまでどんな事態に遭遇しても、動揺などしなかった、と思う。しかし、今日は我ながら驚くほど、動転してしまった。


 自分でも理由がさっぱり不明だったので、ひどく驚いたからだ、と己の中で結論付けた。


『リリアーナ・ロンサールは傷のある醜い顔を隠している』


 と誰もが言っていた。


 ところが、リリアーナの顔は傷もなければ、醜いとも言えないものだった。


 巷であれほど醜いと囁かれるくらいなのだから、どこかにその片鱗が見える筈だと目を凝らしたが、非の打ち所一つ、見つけられない。


 セシリアを気遣わし気に見つめ、涙ぐんで潤んだ瞳は、黒水晶のように澄んでいた。新雪のような肌には、傷どころか染み一つない。あれほど艶やかな漆黒の髪は生まれてこの方、見たことがなかった。


 今、間近で見るすやすやと眠るリリアーナの顔は、魔女や毒婦、という印象とはかけ離れている。


 白磁のように透き通る肌に、驚くほど長いまつ毛が影を落とし、唇と頬はバラ色に透けている。その寝顔は、無垢な幼な子のようだった。


 ――完全に間違えた、と認めざるを得なかった。


 公爵とブランシュに毒を盛ったのは、リリアーナではないだろう。


 先程、皿の破片が当たったと思われる腕の傷跡が目に入る。


 白い肌にくっきりと赤く線を引いたように走る切り傷と打ち身の跡を見た途端、心臓を掴まれたような胸苦しさを覚えた。


(俺が、右手を掴んだせいで、気を取られて避けきれなかったんじゃないか……?)


 そう考えると、余計に胸が痛む。


(……早く手当てしなければ、跡が残ってしまうかもしれない)


 気が逸り、その華奢でありながら柔らかな体を抱きあげ、部屋まで運ぼうと手を伸ばしたところで、


 ――ぱちり、とリリアーナが目を開けた。



 §



 目を覚ますと、ウェイン卿の赤い瞳が目の前にあり、びっくり仰天して跳ね起きた。

 頭を触ると帽子まで脱げかけていた。大慌てで被りなおす。とんだ醜態をさらしてしまった。


 ――まさか、眠りこけてしまうとは……!


「「申し訳ありません!」」


 焦って謝ると、その声がウェイン卿の声と完全に重なった。


 ……ん? なんで、ウェイン卿が謝るんだろう……?


「伯爵邸に着きました。歩けますか?」


 ウェイン卿が、シートの前に片膝を立てて跪き、手をそっと差し出しながら言う。


 その赤い瞳がいつものように冷たくなくて、左胸がどきりと鳴った。急いで馬車を駆ったせいか、なんだか顔が上気して赤いようにも見える。


「はい、もちろんです。ありがとうございます」


 開いたドアに目をやると、よく見知った伯爵邸のエントランス階段が目に入り、ほっと息をつく。


 ――理由は分からないが、生きて帰って来られたということは、今日のところは、このドブネズミに猶予を与えてくれたようである。


 急いで差し出してもらった手をとって立ち上がり、シートに敷いていたハンカチを持って、馬車のタラップを降りた。


 エントランスをくぐり、「ありがとうございました。それでは、失礼いたします」と挨拶すべく、振り返った瞬間――


「令嬢の手当てを頼む」


 ウェイン卿が、たまたま玄関ホールで掃除をしていた二人のメイドに向かって言った。



「「…………」」


 ……………は?


 ――えっ………?


 いやいやいや、おかしいでしょ? わたし、リリアーナですよ?

 悪名高い魔女、毒使い、毒婦、黒魔術師、可愛い小動物虐待容疑者、その他色々。

 しかも、今日は汚れまみれというおまけつき。

 誰が手当てなんかするっていうんですか!? ブランシュじゃないんだから!

 ほら、見て、可哀そうなメイドは二人とも、鳩が豆鉄砲食らったような顔して、どうしたら良いかわからずに固まってるじゃないですか? 気の毒に……!

 いくら何でも、空気読めなさすぎですよ! もうっ!!


 と、瞬きをする間に、心の中で突っ込んだ。


 いやこれ、逃避している場合ではない、と思い直す。



 今、何を置いてもすべきことは、一刻も早く、このいたたまれない空間から逃れることだ。


「わたくしは大丈夫です。本日はお送りいただき、ありがとうございました。お心遣いに感謝いたし――」


「リリアーナ様!いったい、どうされたんですか!?」


 頬を引き攣らせ言い繕っていると、階上から聞き覚えのある声が響いた。


「アリスタ……」


 アリスタが両手に山盛りのシーツを抱えながら、階段を急ぎ足で駆け降りてくる。


「令嬢の手当てを頼む」


 ウェイン卿が、固まっている二人のメイドを訝し気に見やってから、アリスタに向けて言った。


「はい! わかりました! どうしたんですか? その腕! 血が出てるじゃないですか! 早く、お部屋に行きましょう。あっ、あとこれ、お願い!」


 アリスタは持っていたシーツをメイドの一人に放り投げると、わたしの腕をとって、階段の方へ急がせた。


 最後にウェイン卿にもう一度礼を述べてから、思った。


(……アリスタ、なんて心が広くて、優しくて、気の回るいい子なんだろう……!)


 このいたたまれない場から救い出してくれたアリスタに、泣きたいくらい、感謝した。



 階段を上りながら、そっと後ろを振り返ると、訝し気に眉根を寄せたウェイン卿が扉に向かって踵を返すのが目に入る。



 ――さようなら。貴方が無事で、良かったです。



 ――もう二度と、貴方の前には現れませんが、どうぞ、お元気で。




 心の中で呟いて、去り行く背中を見送った。




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