第26話 残される者
「セシリア!」
「セシリア! どうした!?」
クッキーを飲み込みほどなくして、セシリアの様子は尋常でなくなった。
目は虚ろに見開かれ、青ざめた顔には汗がだらだらと流れだし、はあはあ、と苦しげに息をつく。
ウェイン卿によって後ろ手に掴まれていた手が離されると、セシリアはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
そこからの騎士達の連携した素早い動きは、目を見張るものがあった。
「セシリア、クッキーには、何が入ってた?」
ラッド卿が肩を掴んで問うが、セシリアは何も答えない。
苦しそうに顔を歪めながら、唇をひき結ぶ。
優し気だったはずの
ただ、耳が痛くなるほどの子ども達の泣き声だけが、部屋に響く。
(……しまった、どうしよう。気付いてたのに。誰にも、食べさせないつもりだったのに)
恐らく、わたしもまたひどく青ざめ、ただ呆然と立ち竦んでいる。
セシリアの様子を見る限り、クッキーにはやはり、毒が入っていた。
まずすべきは、毒の種類を特定することだ。
あの香り……、記憶通りなら、あれで間違いないと思う。
でも、できれば、確認しておきたかった。
セシリアを取り囲む騎士達を横目に、周りを見渡すと、目当ての物が目に入った。
キッチンの端に置かれたごみ箱に手を伸ばす。白いタイル張りの床に関係ない物を退けながら、目当てのものを探る。
卵の殻、空になった小麦粉の袋、違う。バターの包み紙、砂糖の空袋、違う。それから――、ああ、やはり――、
ごみ箱の、いちばん底。
黄色と黒で縁どられたラベルが貼られた、空っぽの瓶が……二つ。
ラベルに描かれているのは、目をぐるぐる回したネズミと
両手に取り上げた瞬間、
「……
オデイエ卿が、震える声で呟いた。
『ネズミ駆除薬』
通常、毒には異臭や苦みがあるが、殺鼠剤はネズミに食べさせるのを目的としている為、蕩けるような甘味を覚えるよう調合されている。
殺鼠剤を誤食した場合の、応急処置……
考えている間に、ラッド卿の手がにゅっと伸びてきたかと思うと、わたしの手から瓶をそっと受け取った。
「解毒剤がいるだろう。王立病院まで馬で行って、医者を呼んでくる」
ラッド卿の言葉に、ウェイン卿が頷く。
「頼む。オデイエは、子ども達を頼む。ここは危ない。」
「わかったわ。クリスは付いて来て」
オデイエ卿は返事をするなり、エバとトラヴィスをひょいっと抱え上げた。
そのまま、瓶を持って風のように出て行ったラッド卿の後を追うように、戸口へ向かう。
ウェイン卿と共に残ったキャリエール卿が、セシリアを見つめ、口を開いた。
「セシリア。すぐに、ラッドが医者を呼んで来るから――」
「……どうしてよ?」
セシリアが、ぽつりと口を開いた。
もう、一時の激情は去ったようだが、眦は相変わらず、きりりと吊り上がっていた。
「あんた達には……誰もいないじゃない。あんた達なんか、帰ってこなければ、良かったのに……」
その言葉の意味を理解するのに、数秒の時を要した。
気付いた途端、胸が潰れそうに苦しくなる。
こんなことを言われたら、誰だって傷付くに決まっている――、
怒るか、狼狽えるか、悲しむか、――ウェイン卿が傷付くのは、こんな風になっても、やっぱり、嫌だった。
泣きそうな気持ちで、そっとその顔を見やったが、ウェイン卿は押し黙ったまま、セシリアをただじっと見ているだけだった。
赤い瞳の奥はどこまでも無色で、怒りも狼狽も悲しみの色も見えない。
隣にいるキャリエール卿の薄茶の瞳も、特に何の感情も抱いてはいなかった。
わたしは幼い頃、父の顔色を伺い続けていた。
お陰で人の感情を読むのは得意な方だと自負しているが、この人達の感情だけは、さっぱり測りかねた。
(……まるで、心まで凍っているみたい)
「どうして、……ロイを死なせたのよ? あんた達だったら、別に死んだって、」
「あの!」
セシリアをただ黙らせたくて、大きな声を出した。
セシリアは、いたの? とでも言いたげにわたしに視線を送り、憎々し気に、口を開く。
「……部外者のくせに……あんたが、余計な邪魔するから……」
セシリアは今、正気ではない。
悲しみが深すぎて、自暴自棄になっている。
本心でもない言葉をこれ以上、口にさせたくなかった。
「あ、あのう……、できれば、吐いてしまわれた方が、良いかと思います。……ですが、無理に吐かせてはいけません。気管に入ってしまいますから」
先日読んだ毒物の本の受け売りを、そのまんま言う。
二人の騎士は眉根を寄せ、無言で頷いた。
「セシリア、吐けるか?」
セシリアは、相当、顔色が悪かった。
真っ青な顔。額に玉を結ぶ脂汗。紫色の唇。震える指先。
人の体は、生きようとする。
毒物が体内に入って来たなら、追い返そうとする筈だ。
セシリアは、今、猛烈な吐き気に襲われていると思われた。
しかし、強い意思の力で、その唇は引き結ばれていた。
キャリエール卿とウェイン卿がその様子を見て、眉を顰めたまま、視線を交わす。
「あの……牛乳を飲むのも良いと本にありました。胃に油膜が出来て、毒の吸収が遅れるそうです」
キャリエール卿が頷き、素早く冷蔵庫を探る。
取り出された瓶には、僅かに牛乳が残っていた。
「セシリア、飲んでくれ」
キャリエール卿が差し出した瓶からも、セシリアの顔は背けられた。
「あの……、セシリア様には、まだやるべきことがおありでしょう?」
セシリアはぼんやりと虚ろな視線を、わたしに向けた。
「……さっきから、ごちゃごちゃ
わたしに向かって、セシリアは呟いた。
ひとまず、注意を引けたので、よしとする。
「す…すみません。あの……お子様たちは? クリスとエバとトラヴィスは、どうされるおつもりですか?」
「子ども……そんなの、わたしがいなくても……ううん、連れて行こうとしたのに、あんたが、邪魔なんかするから……」
わたしをじっと見つめるセシリアの瞳は絶望でいっぱいで、声が届いているかも怪しかった。
もう、心は死んでしまったのだろうか?
ロイ・カント卿のところに、行ってしまったの――?
さきほど目にしたものを、ふと思い出した。
立ち上がって、長椅子まで急ぐ。
床に散らばった画用紙の一枚を探して手に取り、セシリアの元へ戻ると、その目の前に広げた。
「本当に、お子様たちを、置いて行かれてもよろしいのですか?」
画用紙を見たセシリアの瞳が揺らいだ。
「クリスとエバとトラヴィス……、とても健やかに、すくすくと成長されていますね。セシリア様が愛情をたっぷり注がれたからだと、一目見てわかりました。お子様たちは、セシリア様をまだ必要とされています。どうかお願い致します。セシリア様」
画用紙いっぱいに描かれている、笑顔の女性の顔と、たどたどしい大きな文字。
『おかあさん、だいすき』
セシリアの瞳に、すうっと光が差したように見えた。
その絵をしばらくじっと見つめていたセシリアは、やがて、震える手をそろそろと牛乳瓶に伸ばした。
セシリアが激しく嘔吐し始めた。
「あの……、背中をさすらせていただいても、構いませんか?」
この場にいる女性は、セシリアの他、わたしだけだった。
こういう状況下で問題視されるとは思えないが、やはり、男性では体に触れにくかろう。
セシリアは潤んだ瞳をこちらに向け、ほんの微かに、こくりと頷いた。
騎士達が止めに入るかと思ったが、そうされそうな素振りもない。
ほっとした気持ちで、セシリアの横に座り、背中をさすった。
吐き終わったら、牛乳を飲み、また吐く。その繰り返し。
瓶にわずかに残っていた牛乳は、すぐに空っぽになる。
「近所の家から、もっと貰ってくる」
キャリエール卿が誰に言うともなく言い、戸口に向かう。
「ああ、頼む」
応えた声につられて、視線を上げると、ウェイン卿が、じっとこっちを見ていた。 気のせいか、白皙の顔が上気して見える。
(……あれ? 完全無欠な無表情のウェイン卿が、いつもと違う?)
極めてほんの一瞬、そんな思いが頭を掠めたが、苦しむセシリアを隣にして、それどころではなかったわたしは、たいして気に留めなかった。
帽子が外れていることに、全く気が付いていなかったのだ。
まったくもう、迂闊にもほどがある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます