第25話 変わり者の魔女(レクター・ウェイン視点)

 

「………………」


 唖然とした、何とも言えない微妙な空気が流れる中、レクター・ウェインは、咄嗟に手を伸ばし掴んだリリアーナの右腕を見やり、浅い溜め息をついた。



 ―――どうするかな、これ。



 取り押さえたリリアーナの右腕は空中に停止し、左手の方はセシリアの持つ大皿をむんずと掴んでいる。


 リリアーナが唐突に立ち上がり、両手を伸ばすのを見て、反射的に腕を掴んだ。


 特に、凶器のようなものは持っていない。


 ただ皿を掴みたかっただけなのだろうと察せられたので力は緩めたが、念の為離してはいない。


 驚くほど細く、力を込めたら簡単に折れそうな華奢な腕は、しかし、振り払う素振りも見せなかった。


 どういうつもりだ……? とその横顔に目をやると、唇は引き結ばれ厚いベールで目元が隠されてはいるが、視線は真っ直ぐセシリアに向けられている。


 ラッドは眉を顰めてはいるが、立ち上がる素振りはなく、成り行きを見定めるつもりらしい。オデイエはぎょっとしたようにリリアーナを見つめ、キャリエールは憐れむような目をしていた。


(キャリエールの言う通り、この女は頭がおかしいのか?)


 子ども達も目を見開き、不安げにこちらを見つめていた。

 しかし、何と言っても最も当惑しているのは、いきなり皿を掴まれたセシリアだ。


「あの、その……、すぐに、配り終えますので」


「いえ! どうしても、今、一枚いただきたいのです。どうか、お願いいたします!」


「いえ……あの……、ほんとうに、」


 セシリアの困惑ぶりを見兼ねたキャリエールが、助け舟を出した。


「令嬢、すぐに配ってくれますから、一旦、座りましょう? ね?」


 冷ややかな瞳に反し、口調は子供に諭し言い聞かせるようだったが、リアーナはふるふると首を横に振った。


「あの……わたくしに先に一枚食べさせてくだされば、あとはもう、空気のように静かにじっとしております。これ以降は、決してご迷惑をおかけいたしません。ですから、お願い致します」


 最後の方は自信なさげな、消え入りそうな声だった。


 セシリアは困惑に目をいっぱいに見開き、訳がわからない、と言った様子だ。


「あの、どうして……? そんな……?」


「わたくし、本当にとてつもなく、たまらなく、空腹なんです。お願い致します! セシリア様!」


 懇願するリリアーナに奪われまいと、セシリアは皿を引いているようだが、リリアーナの方も決して離すまいと力を込め、掴んだ左手は血の気が失せ、白くなっている。


 セシリアの狼狽ぶりは見ていて気の毒になるほどだった。その目は見開かれ、うっすらと涙まで浮かんでいる。


「どうされたんですか? 貴女は、一体、どうして……?」


 オデイエが、これ見よがしな溜め息をついた。


「令嬢、もういい加減にしてください。迷惑です。何なんですか? 呼ばれてもないのに無理やりみたいに付いてきて、こんな騒ぎまで起こして」


 オデイエにじろりと睨まれ、リリアーナが怯んだことが掴んだ右腕越しに伝わったが、なおもベールで覆われた頭を横に振る。


「あの……セシリア様。こちらのお宅、新しくて、とても綺麗なお宅ですね。お掃除も、とても丁寧にされているようにお見受けします」


(……やはり、頭がおかしいんだな)


 憐みに似た感情が湧く。

 この状況で家を褒め始める理由が、全く思い当たらない。


「はあ……どうも……」


 セシリアは訝し気に眉を寄せる。リリアーナはさらに口を開いた。



「でも、ネズミがいるのですか?」



 その瞬間、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。


 どこから――? と思う間もなく、ぞっとするような嫌な声が、耳に響く。



「…………なぜ?」

 


 それが、セシリアの口から発せられたと理解するまで、少し時間が必要だった。



 続いて、獣の咆哮のような唸り声。



 大皿は、思い切りテーブルに叩き落とされた。


 おそらくその衝撃で、リリアーナの左手も離れる。


 皿とクッキーはテーブルにぶつかり、弾けるように砕け散った。



「どうしてよ……!? どうしてっ!? どうしてっ!? どうしてっ!? どうしてっっ!?」


 見やると、セシリアの両目からは滂沱の涙が溢れ出ていた。


 聞こえてくる耳をつんざく獣のような金切り声はセシリアの口の動きと合っているのに、いつもと違い過ぎるそれは俄かには信じ難い。


 目が離せず、ただその顔を凝視した。


「どうしてっ!?――っロイは帰ってこないのに、あんた達だけ!? あんた達が死ねば良かった!」


 ビュンっと頭の横を皿が飛び、後ろの壁に当たって、激しい音を立てて砕け散る。


 セシリアが、テーブルの上の物を掴んで、めちゃくちゃに投げつけ始めた。


 リリアーナの手を離し、最低限の動きで飛んでくる皿やらスプーンやらを避けながら、思考を巡らせる。


(……かなり興奮しているな……)


 無理に押さえつけると暴れ、怪我をさせるかもしれない。

 ロイ・カントには恩がある。それは避けたい。


 セシリアとの間には大きなテーブルがある。乗り越えるのは容易だが、そこまでするほどのこともないだろう。


 叫び尽くし、暴れ尽くし、落ち着き始めたところで無難に取り押さえ事情を聞こう。



 目の端に、同じように考えたと思われるラッドが子ども達を抱きかかえ保護しているのが見えた。

 オデイエとキャリエールは、飛んでくるものを反射的に避けながら驚愕の表情を浮かべ、セシリアを凝視している。


 この二人にはショックが大きいだろう。ロイともセシリアとも親しかったからな――。


「あんた達のせいで! あんた達が呪われてるから! ロイは死んだ!! 人殺し!! 悪魔!! 死ね!! 死ね!! 皆、皆、死んじゃえ――!!」


 視界の中心では、セシリアが呪いの言葉を吐きながら、テーブルの上のものをめちゃくちゃに投げ、暴れ続けていた。


 頭が痛いな――と舌打ちしたい気分になる。


 また、面倒事だ。仕事ばかり増える。

 これも報告書が必要だろうか。要らないか、いや、一応書けって言われそうな気がする。


 だから、来たくなかったのだ。

 セシリアの目、一見、好意的に見えたが、そんな筈がないことは分かっていた。


 リリアーナが来るなどと言い出さなければ、絶対に断っていたのに。

 やはり今日はラッドに任せて、溜まりまくっている書類仕事でもしておくべきだった。


 そこまで考えたところで、セシリアの手が熱湯の入ったポットを掴み、振りかぶった。


 熱い紅茶を振りまきながら、ポットが隣のリリアーナの顔の辺りをめがけて飛んでいる。


(流石に避けるだろうが、片付けが大変だな……誰がするんだ? 後で何人か手配するか?)


 嘆息を落としながら、念の為ちらりと左を見やり、仰天した。



 まったく、避けようとしている素振りがない。


 呆然と固まって、ポットの射程内に立ち尽くしている。



 ――これほど鈍くさい人間が、この世にいるのか!?



 ポットが一瞬前までリリアーナの頭があったところを通過して、ガチャンと大きな音を立てて床で砕けた。



 抱き留めて床に伏せさせた体は見た目通り華奢で、ふわりと軽く、柔らかく弱々しい。


 この体にあのポットが激突して、熱湯をかぶっていたら、医者は必須である。

 報告書も簡単なものでは済まなかっただろう。


 伏せた姿勢のまま、リリアーナの背に回した腕を抜き、このくらい自力で避けろ、と腹立たしい気分で顔を上げると、驚きに見開かれた瞳と目が合った。



 ――目が、合った?



 伏せさせた拍子に、ベールのついた帽子がふっ飛んだんだな、と気付いたのは、ずっとずっと後のことである。



 し掛かるような体勢で、リリアーナの顔を間近に見た途端、後頭部を鈍器で殴られたように世界が真っ白に染まった。


 飛び上がるように体を離し起き上がり、まずは頭に何も当たっていないことを確認した。



 その後は、とにかく、動転した。



 自分でも何故そうなったか理解不能だが、この時は、動転しまくった。


 今のは不可抗力で! とか、ポットが飛んでくるのが見えたので! とかいう言い訳めいた間抜けな台詞が、次々と頭を掠めては消えたが、幸いにも口からは出なかった。


 その間もリリアーナの顔から目が離せなかったが、リリアーナは手をついて体を起こしながら、その吸い込まれそうな瞳を何度か瞬くと俺から視線を外した。


 テーブルの下から少し頭を出し、セシリアの方を向く。


 しまった、手を差し出して、助け起こすべきだった、と思うのに、体はどういう訳か動かない。



 穴が開くほど凝視しても、横を向いた輪郭の中に一つの瑕疵かしも見付けられずにいると、長い睫毛に縁取られた瞳が驚きに見開かれた。


 視線を辿ると、セシリアがクッキーを両掌いっぱいに掴み取っている。


「やめて!」


 立ち上がろうとするリリアーナがセシリアに向けて叫ぶ声が響いた途端、ようやく事態の重さを理解した。


 テーブルを乗り越え、クッキーを口に押し込む両手を後ろ手に捉えた瞬間、セシリアの喉がゴクリと動いた。







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