第23話 甘い香り
セシリアとの約束の日。
四人の黒い騎士は、約束の時間に正面エントランスに黒塗りの馬車を寄せ、待ってくれていた。
ずっと裏口を使っていたから、こうして屋敷の正面扉をくぐるのは、いつ以来だったか、もう思い出せないくらいだ。
絢爛豪華な細工が施された重厚な両開き扉に気後れしそうになるが、己を叱咤し、気を取り直す。
(自宅の玄関ごときに怯んでいては、今日という日を乗り越えられない……!)
わたしを始末しようとする騎士達から、隠れ暮らして逃げ切るつもりだったのは本当だ。
空気も読まず、「ご一緒させてください!」などと言い出したのには、理由がある。
頭がおかしくなったわけでも、『ウェイン卿と一緒にお出掛けできたら、もう死んでもいい!』などと、恋愛脳を炸裂させたわけではない。断じてない。
あの時、どうしても気になったのだ。
あれは、何だろう――
うっすら透けて見えたあの模様。
馬車寄せで待つ騎士たちの表情は硬く、わたしを見る目は相変わらず研ぎ澄まされた刃物の如く、鋭かった。
「怪しい動きをしたら即座に容赦なく斬り捨てるから」
と、どの顔にも、くっきりと書いてある。
固唾を呑んで、内心で、わかってます、と呟き、こっくりと深く頷く。
流石に、
しっかりピンで止めたけれど、何となく心許ない。
「おはようございます。ウェイン卿、オデイエ卿、ラッド卿、キャリエール卿。
先日は、わざわざお送りいただきまして、ありがとうございました。本日も、よろしくお願いいたします」
「おはようございます。伯爵令嬢。どうぞ、お乗りください」
強張った顔で挨拶すると、ウェイン卿が左手で馬車のドアを開けて、右手を差し出す。
その視線と声は、相変わらずブリザードみたいに冷ややか。
何か粗相どころか、冗談の一つでも口にしたら、すぐさま剣を抜かれそうである。
――神さま……! 今日という日を無事に乗り切ったら、今度こそ、隠れ暮らして逃げ切って見せます。ですから、どうか、今日だけは実行されませんように。
内心で祈り、息をするのもほどほどに遠慮し、馬車に乗り込んだ。
§
馬車を取り囲む騎士の配置は、前回とほぼ同じだった。
ちらり、とほんの一瞬、差し向かいに座るウェイン卿に目をやる。
全く感情の読み取れない涼し気な顔と隙無く漆黒の制服を着こなす様は、今日も嫌っていうほど素敵だった。
思わず見惚れて吐息を零してしまいそうになり、慌てて窓の外を見る。
いつまでもうじうじと吹っ切れない自分には、いい加減、嫌気が差す。
心底、うんざりした。
(ウェイン卿は、わたしが嫌い)
それどころか、死んでほしいと願っている。
(今だって、心の中ではわたしを消してしまう算段をつけているのよ)
どれほどそう言い聞かせても、ただ胸が張り裂けるばかりで、嫌うことも憎むこともできない。
(まったくもう……! 制御できない想いっていうのは、なんてやっかいなんだろう)
本当に、この持て余す気持ちを何とかしなければ。
今日こそ、全部、終わらせるのだ。
このままでは、胸が痛み過ぎて、血が流れ出してしまうから。
§
カント家は、日当たりの良い庭つきの一軒家だった。
絵本の挿絵にでも載っていそうな、可愛らしい白壁と赤い切妻屋根。子ども達が駆け回るのにちょうど良さそうな庭では、リンゴの木が可憐な白い花を咲かせていた。
部屋数も沢山ありそうな大きさで、一般庶民には手の届くはずのない豪邸だが、騎士団副団長のお屋敷としては、慎ましい、と言えるのではないだろうか。
本来なら、王国騎士団の副団長ともなれば、騎士爵以上の爵位と相応の屋敷が授与されるはずだ。
平民出身で人格者だったというロイ・カント卿は、貴族など向いていなから、と生前に固辞し、そのどちらも受け取らなかった、と新聞で読んだことがあった。
(その気持ち、痛い程わかる……!)
わたしだって、夢みたいな話、もしも、いつか自分で転生先を選べる事態に恵まれたなら、不自由極まる貴族令嬢だけは、二度と御免こうむりたい。
次は自由。何はなくとも、自由に生きたい。
そう言えば、後任のレクター・ウェイン卿も爵位を望まなかったとかで、騎士爵だ。アラン・ノワゼット公爵はおそらく実力主義なのだろう。
白亜の家を見上げて、ここで家族揃って暮らせたなら幸せだろうな、と思う。
ロイ・カント卿がまだ健在だった頃、ここは笑いが溢れ、絵に描いたような幸福が育まれていたに違いない。
けれど今はやはり、セシリア一人では手が回らないのだろう。
主人の不在を憂うかのように庭の白い柵は一か所倒れ、雑草もところどころ茂り、どこか寂しげに見えた。
「ようこそ! みんな、よく来てくれたわね」
ドアが開き、セシリアが先日と変わらぬ穏やかな笑顔を見せた。
クリスとエバは、母親の影に隠れて、もじもじと恥ずかしそうに俯いている。
セシリアは、美しい人だった。
穏やかで優しそうな瞳、柔らかく優雅な物腰。
オデイエ卿とキャリエール卿は、途端に表情が柔らかくなる。ラッド卿とウェイン卿は当然のように無表情だが、それでも雰囲気が柔和になったように思う。
わたしなど知る由もない、ロイ・カント卿を交えた深く温かい思い出があるのだろうことは、容易に想像できた。
挨拶だけは手短に済ませたものの、わたしの存在は、この場で完全に異物だった。
時折、四人の騎士それぞれからジロリと油断ならないものを見る目を向けられ、視線が突き刺さるように痛いが、気付かない振りをする。
気にしたら負け。と自分に言い聞かせる。
何度も言うが、わたしと騎士達の仲はこれ以上、悪くなりようがない。行き着くところまで突き抜けている。
エバとクリスは、絵本に出てくる魔法使いみたいな恰好をしたわたしの存在が気になるようで、ちらちらと様子を伺いながらこちらに近付こうとしているが、その度にキャリエール卿とオデイエ卿に引き止められていた。
子供は好き、というより、きゅんきゅんのメロンメロンなので、抱っこさせていただいたり、絵本を読ませていただけたりしたら、身に余る幸せだが、仕方ない。
新聞によると、わたしは悪い魔女で、黒魔術師で、一説によると幼な子にも酷いことをする不審者らしい。警戒されて然るべきだ。
先日会った時の、セシリアの様子も気になった。
夫に先立たれ、末の子は一人で出産し、一人きりで三人の子育て。想像を絶する大変さだろうに、周囲には気丈な笑顔を見せていた。
それから、セシリアの目を見た。その目が、
『助けて』
そう言っているように見えた。
わたしと同じ、孤独に耐えかねる人間の瞳。
わたしは十三歳まで、父の顔色を伺って生きていた。そのお陰か、なんとなく、本当に何となくだが、人の考えていることが少しわかる気がした。その殆どは、わたしに向けられる嫌悪であったり、蔑みであったりしたので、わたしは益々閉じこもることになったのだが。
それから、買い物袋の中のあれ。……心配になって、勇み足で約束を取り付けたものの……こうして、いざ来てみると、途端に自信がなくなってくる。
思い込みの激しい女の妄想だったのかもしれない。
コミュ障気味の引き籠りなわたしにとって、あの日の出来事は波乱万丈が過ぎた。
そのせいで、頭が混乱して幻想を抱いたのだ。
もうこれ、なんかきっとそんな気がしてきた。
あーあ、何で来ちゃったんだろう。馬鹿……わたしの馬鹿。
(こうなったら、帰る時間まで邪魔にならないように静かにしていよう)
和気藹々としたセシリア達の会話に入る隙も無く、嘆息を零しながら、あてどなく部屋を見回す。
壁も天井も白で纏められた室内は、セシリアらしいこだわりある繊細な細工の家具が置かれ、大判の白タイル張りの床には、今の今まで遊んでいたのだろう、子ども達の積み木や、クレヨン、画用紙、汽車のおもちゃなどが散らばっていた。画用紙に描かれた子ども達の絵が可愛らしくて、思わず口元が緩む。
「今日は、皆が来てくれるから、張り切ってクッキーを焼いたの。美味しく焼けていたらいいのだけど!」
「いい香りがすると思ったわ。懐かしい」
「昔、よく屯所に持って来てくれただろう?俺、セシリアの作るクッキー好きだったんだよ。サクサクなのに、ふわっと柔らかくてさ」
「そうだな。俺も好きだった」
オデイエ卿とキャリエール卿が嬉しそうに相槌を打ち、ラッド卿もそっと静かな微笑を浮かべている。
(……クッキーかぁ……)
先程から感じる、この香りの正体はクッキーの香りだったのか。確かに、家の中には甘く香ばしい香りが立ち込めていた。
クッキーなら、昔、まだ親切にしてくれる使用人が残っていた頃に、何度か屋根裏のキッチンもどきで一緒に焼いた。
(……楽しかったな……)
失敗して粉だらけになっても、使用人たちと一緒に笑い合って作ったことを、昨日のことのように思い出せる。
思えば、本当に良くしてもらったと思う。皆、元気にしているだろうか。
(幸せに、暮らしてくれているといい)
懐かしさがこみ上げて、息を吸い込む。
小麦粉とバターと卵とお砂糖とバニラの焼ける、何とも言えない香ばしい甘い香り……
それから、ほんの少しだけ、何だかやけに甘ったるい、胸につかえるような香り。
わたしの知る、他にクッキーに入れそうなものの香りを当てはめてみる。
シナモン、ジンジャー、チーズ、アーモンド、くるみ、クランベリー、レーズン、オレンジピール、チョコレート、レモン、蜂蜜、リキュール、ローズマリー……どの香りとも違う……何だったろう。
(……知らないハーブ?)
だけど、記憶の底のどこかで知っているような気もする。
(……これは、いつの香りだった?)
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