第21話 図書館と未亡人
図書館に入った途端、水を得た魚の気持ちが、よくわかった。
落ち着く。この上なく、落ち着く。
馬車の中は、完全なる敵陣地だったが、ここは間違いなく、わたしの領域だ。
大きく息を吸い込んで深呼吸すると、古い本たちの持つ知識の香りが、胸いっぱいに広がる。
王立図書館。
この国で最も多くの書物が集められている場所。
壁一面の書架。遥かに見上げる吹き抜けの天井近くにまで、背表紙がびっしりと並ぶ。
いつ来ても、この景色は圧巻だった。
「罪作りですねぇ……」
思わず、ほうっと溜め息交じりの呟きが漏れた瞬間、後ろに騎士が控えていることを思い出し、慌てて口を噤む。
引き籠もりは独り言が多いのだ。気を付けねば。
どれほど長生きできたとしても、人生のすべての時間を読書に費やせたとしても、ここの蔵書全てを読み切ることはできないだろう。
この場所は、足を運ぶ度、わたしを魅了する。
ほんの少しの物音でも響きわたる静けさ。混雑はしていないが、どの棚の前にもいる、本の虫たち。
本の虫の皆様はすれ違い様、一様に、真っ黒づくめのわたしと、その後ろを歩く真っ黒な制服を着た二人の騎士を、ぎょっとしたように見やる。
目撃者、たっぷり。
この世にこれ以上、安全な場所はないように思えた。これで、今日のところは絶対に生き延びた。
うきうきと書棚の間を歩き始める。
ウェイン卿と女性騎士のオデイエ卿が、決して目を離さずにぴったりと同じ距離をとったまま、後を付いてくる。
相変わらず、二人とも非の打ちどころのない無表情だが、張り詰めた緊張感は、少し解けている。
それもこれも、グラミス伯爵夫人のお陰。人生があとどれほど残っているかはわからないが、この御恩は、一生忘れまい。
本当はもっと長居したかったが、今日のところは、『時と共に去りぬ』という長編物語と『旧市街・王都に眠る地下水道の歴史』の二冊を借りることにする。
『時と共に去りぬ』は、フランシーヌという一人の女性の激動の人生を描いた物語である。
もう何度も借りた本が、何度目であっても、感動で泣けるのだ。
何と言っても、二冊とも、題名が怪しくない。まあ、今更だとは思うが。
先ほど、俎上の鯉の気持ちを存分に味わい尽くした緊張疲れから、早く居心地の良い屋根裏部屋に帰りたくて仕方がなかった。
それに……ちらりと後ろの騎士に目をやる。
ウェイン卿とオデイエ卿のマントは、いつもの黒より、もっと深い黒に染まったままだ。すぐに乾くと言っていたが、あれでは体が冷えるだろう。
もう帰ります、と伝えて図書館を出ると、黒塗りの馬車の前で、シュロー・ラッド卿と女性が談笑していた。
女性は乳母車を押し、幼い子が二人、その脇に立っている。買い物帰りにたまたま通りかかったのだろうか。葉っぱ模様が描かれた園芸店の紙袋を細い腕に提げていた。
「セシリア!」
わたしの後ろにいたオデイエ卿が、思わず、といった風に上げた明るい声に反応して、セシリアと呼ばれた女性がこちらを向いた。
優し気な雰囲気の、線の細い綺麗な女性。ほっそりした体に上品な紺色のスリーブドレス。後ろで一つに纏めた薄茶の髪は腰のあたりまで伸び、毛先が上品なカールを描いている。
「ルイーズ! それに、ウェイン卿も。ご無沙汰しております」
柔らかく微笑むと、優美な仕草で頭を下げる。薄茶の髪がさらりと肩に流れる。顔だけでなく、声まで優しげ。
図書館から出てきたわたしたちに気付き、離れたところに馬を止めていたアルフレッド・キャリエール卿もセシリアに向かって穏やかな視線を向けつつ、こちらに戻ってくる。
「そう言えば、この辺りにお住まいでしたね。子ども達も、ずいぶん、大きくなって。お元気でしたか?」
ルイーズ・オデイエ卿が懐かしそうな声を出す。
ついさっきまで、獲物を狙う肉食獣のような光を宿していた琥珀色の瞳は、打って変わって柔らかい。
改めて観察すると、オデイエ卿も大変美しい女性だ。
すらりとした肢体に漆黒の騎士服を纏い、炎を連想させる艶やかな赤い髪が波打ちながら腰まで伸びている様は、物語の女主人公のようだった。
セシリアは砂糖菓子のような笑みをふわりと浮かべる。
「ええ、お陰様で。ロイが亡くなってから、ノワゼット公爵様にはずいぶん良くしていただいて。十分過ぎる暮らしをさせてもらっているわ。皆さんは、お変わりない?」
「ええ、わたし達も、お陰様で元気にしています」
ラッド卿もキャリエール卿もオデイエ卿も先程までの態度とは全く違う、穏やかな顔でセシリアを見ている。
ウェイン卿だけが一歩引いたところにいるが、それでもセシリアと子供達に向けられる視線は、僅かに和らいで見えた。
(……こんな顔もできるんだ……)
決して、わたしに向けられることはない。
勝手に小さな息が胸から溢れる。
セシリアの連れている子ども達と乳母車の中に視線を移す。
小さな丸い顔をした赤ちゃんは、一歳くらいだろう。乳母車の中ですやすやと寝息を立て、気持ち良さそうに眠っている顔は天使そのもの。絹の上掛けから覗く、もみじのような手がこの上なく愛らしい。
二歳くらいの女の子と四、五歳くらいと思われる男の子も活発そうで、柔らかそうなほっぺはふくふくと丸く膨らんでいて可愛らしい。眺めているだけで胸がほんわり温まり、きゅんきゅんするようである。
外套の裾をくいっと引っ張られた感触に視線を下げると、いつの間にか足元に移動した女の子が、わたしの顔を見上げていた。つぶらな瞳と小さな口は真ん丸に開かれ、頬はびっくりしたように紅潮している。
フードを深く被り、醜い顔を隠していても、こうして真下から覗かれると顔が見えてしまう。
昔から、大人には固まられるほど忌み嫌われるが、子どもにはそうでもない。こうして興味津々といった風情で顔を覗かれ、瞳を輝かせ、くっついてくれる。
きっと、幼なさ故に美醜の判断がつかず、この顔を見ても平気なのだろう。
腰を屈め、女の子と視線を合わせて挨拶する。
「こんにちは」
女の子は首を傾げて、なおもフードの中の顔を覗き込み、天使の笑みを浮かべる。
「こんにちは。あたし、えばっていうの」
「エバ、素敵なお名前ね。わたしはー」
自己紹介しようとしたところで、見るからに怪しげな黒ずくめなわたしの存在に、セシリアが気付いた。
「ごめんなさい。お仕事中ですわね」
セシリアから視線と言葉を向けられ、慌てて立ち上がる。
「いえ、どうぞ、わたくしにはお気遣いありませんように。ごゆっくりお話しなさってください。お可愛いらしいお子様達ですね。おいくつでいらっしゃいますか?」
「上から、五歳、三歳、一歳でございますの。夫のロイが先の戦争で亡くなった時、下の子はまだお腹におりましたので」
セシリアが少し寂しそうに微笑むと、騎士達も、しんみりと目を伏せた。
そういえば、ロイ、という名には心当たりがあった。
「……ロイ・カント卿の奥さまでいらっしゃいますか?」
「はい………」
セシリアは、儚げに頷いた。
ロイ・カント卿と言えば、ノワゼット公爵の直属の第二騎士団の副団長だった方だ。
四年前に始まり、二年かけてようやく終結したハイドランジアとの戦争で、終戦間近に帰らぬ人となられた。当時の新聞に大きく載っていたと思う。
ちなみに後任の副団長は、今、わたしの命を狙っている、こちらのレクター・ウェイン卿である。
「お悔やみ申し上げます。……お子さまがお小さいのに……」
言葉が見つけられずにいると、セシリアは、間髪入れずに明るく言った。
「お気遣いありがとうございます。あれから随分たちましたし、ノワゼット公爵が気遣ってくださって、十分な年金を受け取れるように手配してくださいました。
子ども達も、ロイに似て腕白なところもありますが、……今日も外を元気に走り回っていたので、どろんこでございましょう?ですから、何も不自由はしておりませんの」
「そうですか……」
その場にいた騎士たちは、目元を柔らかくしている。
セシリアの纏う穏やかな雰囲気のお陰で、先程までの不穏に殺気走った空気は、嘘のように消えていた。
「そういえば、よろしければ、皆さん、一度、家に遊びにきてはいただけませんか?ロイを見送っていただいたとき以来、久しぶりにお会いできたんだもの。子ども達も喜ぶし、みんなの近況も聞きたいわ」
「いいんですか? もちろん、ぜひ!」
「喜んで」
「今日はお会いできて良かった」
和気藹々とした空気が流れる。
自身とは関係のない話題に転じたところで、また、くいっと裾を引かれた。今度はエバと妹に引っ張られた五歳のお兄ちゃんまでいる。男の子もわたしの顔を目を見開いて、瞬きもせず、食い入るように見つめていた。
腰を屈めようとすると、オデイエ卿の声で遮られた。
「エバ! クリス!」
五歳の男の子は、クリスと言う名前らしい。
騎士達が、わたしが子供達に近付くのを警戒しているのを察し、少し下がる。
オデイエ卿は、エバとクリスの前にそっと跪いた。
「エバ、クリス、わたしはルイーズ。覚えてないだろうけど、二人がうんと小さい時に会ったことがあるのよ」
二人に話し掛けるオデイエ卿の声は耳に優しく響いた。
「ぱぱの、おともだち?」
エバは、ぱあっと顔を明るくした。
クリスの方は、オデイエ卿よりも黒ずくめの格好が珍しいのか、相変わらずわたしの顔を食い入るように見上げ、口を開けてふっくらした頬を赤くしている。
「そうよ」
オデイエ卿はエバの質問ににっこり頷いた。
「るいーずも、ぱぱにあえる?」
「え?」
「エバはね、あえるの。だから、さみしくないの」
困惑顔で、何と返すべきか躊躇う様子のオデイエ卿に、セシリアが慌てたように言う。
「あの、混乱させちゃってごめんなさい。子供達には、『パパの姿は見えないけど、ずっとこの家にいて、皆を見守ってるのよ』って普段から教えているものだから」
ああ、とオデイエ卿は微笑んで頷く。
「エバは、いいわね。パパは一緒にいるのね」
エバは瞳を輝かせ、得意気ににっこり笑った。
「うん! きょうは それで おかいものをしたの」
オデイエ卿が、まだ言葉の拙いエバの相手に苦戦を強いられている隣で、セシリアが、ウェイン卿に向けて話し掛けた。
「ウェイン卿も、ぜひ、一緒にいらしてね」
セシリアは、わたしの後方一歩下がったところに油断なく張り付きながら、全体を見守っていたウェイン卿にも優しく微笑みかけた。
「いえ、わたしは……」
「ロイは、ウェイン卿のことが好きだったもの。よく、家でレクターは、って話をしていたわ。ウェイン卿も来てくださったら、ロイもきっと喜ぶわ」
柔らかな笑みを浮かべる儚げなセシリアにこれほど誘われて、断れるものはいるまい。
「………せっか――」
ウェイン卿は、相変わらず、感情の読めない顔で、口を開きかけた。
「その際は、わたくしもご一緒させていただいても宜しいでしょうか?」
突然、横から物凄ーく、厚かましいことを堂々と言い出したのは、誰あろう、このわたしである。
ウェイン卿はじめ騎士達は、一様に、ぎょっとしてこちらを見やる。
セシリアも当惑の色を瞳に映し、口にこそ出さないが、その場にいる全員の顔に、
『オマエは誘ってない』
と書いてあった。
全くもって同感であったが、ここは怯まずに続ける。
よく考えずとも、騎士達とわたしの関係は、暗殺者とその標的という、もはやこれ以上、悪い方に転がりようもなく拗れているのだ。
今更、取り繕う必要もない。
「わたくし、どうしても、伺いたいのです! 一生に一度、騎士様のお宅なるものに、いつか伺ってみたいと、夢に見ておりました。この機会を逃すと、もう二度と、チャンスは巡ってこないかも知れません。どうか、どうか、お願いいたします!」
黒ずくめの上、顔もよく見えない、名も知らぬ怪しげなわたしの気迫に押されて、セシリアは、
「……はあ……あのう、そういうことでしたら、ぜひ、ご一緒に……」
と引き潮の如くではあるが、了承してくれた。
ここまで言われて、断れる人はなかなかいるまい。わたしは満足げに頷き、さらに言い募った。
「ありがとうございます! では、いつにいたしますか? 明日か、明後日では、急すぎますでしょうか? では、三日後はいかがでございますか?」
ウェイン卿、ラッド卿、オデイエ卿は、奇妙極まりない生物を目にしたように至極疑わしげな顔をしている。
キャリエール卿に至っては、可哀そうな生き物を見る目で、わたしを見ていた。
その視線は堪えた。
でも、めげない。
あまりに不穏なんだもの。
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