第20話 噂 (レクター・ウェイン視点)
コーネリア夫人はしばらく沈黙した後、そろそろと話し出した。
「……どうして、貴女にわかったのかしら? わたくし……」
その声は、やけに湿り気を帯びて響く。
「……そうですね。その方と付添人の方、とてもよく似ていらっしゃるように、お見受けしました。
髪の色や瞳の色、立ち姿の雰囲気などが……、親子というものは、やはり似るものなのだな、と感心致しました」
その声音は、気のせいか、寂しげに耳に響いた。
伯爵家の馬車の前に御者と共に立つ、ポールという青年を見た。
白金色の髪に紫色の瞳、佇まいの雰囲気が、何故、気付かなかったのと思うほど、そう思って見るとコーネリア夫人とよく似ている。
馬車の中から、コーネリア夫人の声の狼狽えたような声が響く。
「それで……貴女は、どう思われて? こんなに、こんなに大変なことになって、もう、取り返しがつかなくなってしまいました」
「……わたくしは、そうは思いません。
伯爵様は、その方とご結婚されるとき、周りの方に反対されたにも関わらず、まったく気に留めなかったそうですね。
きっと、その方を深く愛していらっしゃるに違いありません。
正直にお話しされれば、何もかも、うまくゆくように思います」
リリアーナの声音は、ずっと穏やかなままだ。
コーネリア夫人の絞り出すような声が漏れ聞こえる。
「……身持ちの悪い、その上、子どもを捨てるような女でもですか?」
「そうでしょうか? わたくしは、何があってもお子さんを守ろうとなさった、愛情深い、心根の優しい方だと思いました」
そのとき、突然雨が上がり、キャリエールが修理人を連れて戻ってきた。
「ああ、これなら、車輪を変えればすぐですね。すぐに取り掛かります」
修理人がてきぱきと車輪を取り付ける間、馬車の中からコーネリア夫人の湿った声が聞こえる。
「……あの子がああなったのは、わたくしのせいなのです。……あの子の父親は、下級貴族の放蕩息子で、女と博打に目がない、今にして思えば、どうしようもなく軽薄な男でした。あの頃は若く、世間知らずで、色んな遊びを知り、甘い言葉を囁くあの子の父親にのぼせ上って、……結婚しようという言葉をすっかり信じ切っていました。
……それでも、隠れて産める修道院と養子先だけは手配してくれましたから、まだマシな方だったのかも知れませんわね。
あの子の父親が大金持ちの娘を孕ませて結婚したと知ったのは、山間の小さな修道院に臨月の身を隠している時でした。
そこで、あの子を産んで……、抱き絞めてやれたのは一度だけで、あの子は赤ん坊を欲しがっている東部の牧場主がいると言うので、そこに養子にやりました。
幸せに暮らしているとばかり、思っていましたが、陰で馬車馬のようにこき使われていたことをあの子が逃げ出したと聞いてから知ったような有様で……酷い母親でございましょう?
人を雇って探し回って、ようやく見つけた時には、あの子は父親そっくりに、博打で大きな借財を抱えていました。……血は争えないのかも知れませんわね。
それでも、……それでもわたくしには、あの子を一目見た瞬間、我が子だとわかりました。苦労させた分、これからは、何があっても守ってやろうと。
女の浅知恵で……逆に窮地に陥ってしまいましたが……。愚かにお思いになりますでしょうね?」
「いいえ、ちっとも。それに、息子さんはお父さまにそっくりとおっしゃいましたが、わたくしはそうは思いません。冷たい雨が降りだした時、夫人と一緒にこちらに避難されるかと思っておりましたが、御者の方を気遣われて雨の中に残られました。むしろ、思い遣り深いお優しい方だと思いました。お母様に、似ていらっしゃるのではありませんか?」
グラミス伯爵夫人はぐすぐすと啜り上げ、小さな声で言う。
「夫は……善良で、春の日差しのような人です。これまで、わたくしの周りは敵ばかりで、ずっと心の休まる暇はありませんでした。
……それが、あの人と結婚してから、ようやく安らぎを得られました。生涯、身も心も尽くして、添い遂げるつもりでした。それなのに……こんな、裏切るような真似をして、あの人の顔に泥を塗ってしまいました。……ですから、今日はもう、屋敷を出て行くつもりで……ですが、本当に、許してもらえると思われますか……?」
「はい。わたくしは、そう思います。
……それから、お二人の老婦人は、うすうす真相に気づかれているのではないかと思います。
その時はそれでも、後になってどうもおかしかったと思うものでしょう。
それでも、何となくご事情を察して、夫人をかばわれているのではないでしょうか。
そのような優しい居場所を手放してしまわれるのは、あまりに勿体ないことではありませんか?」
息を呑むような音とそれに続く沈黙の後、コーネリア夫人の声が聞こえた。
最初に聞いた印象とは違う、穏やかな声でそっと囁く。
「わたくし、貴女にお礼申し上げますわ。伯爵令嬢。
……そうよね、本当に、この世に悪意のある噂話ほど、信用できない、大袈裟なものってないもの。
しかも、言っている方は、『今日のデザートは何にしようかしら?』くらいの軽い気持ちで口にしているのに、言われている方はそれを否定する術も、反論する術もないまま、そのうちに噂話はどんどん広まって、黒い大きなうねりとなって追い詰められて、もうどうやっても逃れようがなくなってしまうのですものね」
「……そうですね。伯爵夫人は新聞で知っていたよりもずっと素敵な方でした」
「……わたくし、貴女とここでお会いできたこと、神様に感謝いたしますわ。伯爵令嬢」
修理が終わり、頬を拭う伯爵夫人が馬車から降りるのを手を取って手伝った。
「わたくしも、お会いできて光栄でした。伯爵夫人」
開かれたドアの隙間から、フードの下で、そっと微笑むリリアーナの口元が見えた。
「悪いけれど、やっぱり屋敷に戻ってちょうだい」
御者に伝えるコーネリア夫人の声に、キャリエールとオデイエが顔を見合わせて軽く肩を竦めている。
ポールという青年が、キャリエールに頭を下げ礼を言って、こちらに向かって頭を下げた後、御者とほっとしたように笑みを交わしていた。
コーネリア夫人と入れ替わりで馬車に乗り込む時、同じ話を聞いていただろうラッドが、何か言いたそうな目をしてこちらを見ていた。
馬車に乗り込み、リリアーナの姿をしげしげと見る。
ほっそりとした体つき、フードからのぞき見える顔は、ごく普通の娘に見える。
「お待たせしました。これから、図書館へ参りますので」
「……いえ、今日はこのままお戻りください」
「………は?」
「いえ、皆様、雨に当たられて、お寒いでしょう?」
その声音は、本当に気遣っているように聞こえた。
――変な女だな。
こんなことで、油断などしない。
誰のことも、信じてはならない。
人は誰しも、嘘と虚飾に満ちた生き物なのだ。
善人ぶっていても、我が身可愛さで平気で裏切り、切り捨てる。
しかし……。
流石にこれは、間違えたか、とも思う。
変わった女だし、これが演技だとしても、頭はそれなりに切れそうだ。
もし毒を盛るにしても、もっと上手くやるだろう。少なくとも、自分も毒を飲まされたフリくらいはしてみせたに違いない。
面倒だが、一旦、計画は白紙に戻さざるを得ないか――
「いいえ、問題ありません」
唐突に湧き上がってきた、胸をざわつかせる苛立ちのような感情を抑え、そう言ったのと同時に、ラッドが軽い鞭の音を響かせ、馬車を図書館に向けて走らせた。
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