第17話 涙はどこに消えた?

「……どうもありがとう、レディ・リリアーナ。では、かいつまんで説明させていただきますわね。

 事件は、夫であるグラミス伯爵の六十歳の誕生日を翌週に控えた、日曜日の昼下がりに起きました。

 ああ、その前に、わたくしたちのことをご存じかしら?

 あまりゴシップ誌をお読みにならないなら、ご存じないかもしれないわね。

 わたくしの夫は、前の奥さまを早くに亡くして、長い間独り身でしたが、昨年、わたくしと再婚いたしましたの。

 夫とわたくし、歳は二十以上も離れておりますのよ。

 わたくしは、舞台女優でしたの。

 これでも、そこそこ売れておりました。あら、ご存じかしら?」


「はい。コーネリア夫人の舞台は観る者を魅了し、どの舞台も大成功を収めた。という記事を拝見したことがございます。

 世界でも類を見ないほど大粒の傷のない真珠を連ねられたという『セレーネの涙』も舞台をご覧になって感銘を受けた、さる王族の方が、コーネリア夫人に贈られたものだとか……」


 コーネリア夫人は、嫣然とした表情を浮かべ、甲高い笑い声をあげる。

 口許に添えられた、赤い薔薇の花弁を思わせる長い爪もまた、夫人の妖艶な美しさを完璧なものにしている。


「あら、ありがとう。だけど、わたくしも若い頃はいろいろと浮名を流しました。二十歳そこそこの恐れを知らない頃には、色恋にかまけて、舞台を放り出してしまったこともありましたわ。

 あの時は、ある大富豪にどうしてもと頼まれて、一緒に世界中を旅しておりましたの。懐かしいわ……」


 コーネリア・グラミス伯爵夫人は少し俯くと、昔を懐かしむように紫水晶の瞳を細めた。


「まあ、そんな感じで、遊びたい遊びは遊び尽くして、舞台女優としてもそこそこの成功を収めておりましたところに、グラミス伯爵がどうしても結婚してくれと申し込んで来たんですの。

 わたくし、ここらで貴族と結婚してみるのも悪くないと思いましたので、受け入れました」


 夫人は少し俯いて、わたしのスカートのあたりに視線を置いたまま、これ見よがしに大きく息をついた。


「……だけど、貴族の生活って、ほんとにつまらないんですのね。

 わたくし、しばらくすると飽きてしまいました。

 ほら、そこの彼、ポールと言いますのよ。可愛い顔をしているでしょう? あの子も、わたくしが拾ってきたんです」


 伯爵夫人はポールという青年について語りながら、うっとりと、愛しくて仕方がないという風な視線を馬車の外に送った。


 つられて目をやると、馬車の外では雨が降り注ぎ、あたりを色濃く染め上げていた。


 御者の隣に気遣わしげに立つポールという白金色の髪の青年の茶色い服も、外にいるオデイエ卿の黒いマントも、雨に濡れて濃く色を変えている。

 あれでは、体が冷えてしまわないだろうか?


「世間は随分、わたくしのことを悪し様にいいますけれど、いかがわしい場所をうろつきまわっているだの、得体の知れない若い男を側にはべらしているなどとね。

 知ったことじゃないわ。わたくしは、わたくしの好きに生きたいだけだもの。

 ねえ、伯爵令嬢も随分、ご自由にされてらっしゃるようだもの。わたくしの気持ち、わかってくださるのではなくて?」


 黙ったまま、軽く頷いて先を促す。


「まあ、わたくし自身の説明はこのくらいにして、『セレーネの涙』の話に戻しますわね。

 あの日は、使用人たちが広場に来ているサーカスに行きたいというので、数時間ばかり暇をやっていました。

 話し相手もいなくて退屈になったわたくしは、夫の誕生会に着るつもりのドレスの試着をしてみようと思い立ったのです。

 仕立てたばかりの白絹のドレスに、大粒真珠の『セレーネの涙』を合わせて付けみたのですけれど、自分で姿見を見るだけでは、どうにもしっくりこなくて、誰かに見てもらいたくなりましたの。

 普段だったら、ポールに見てもらうんですけれど。

 ……生憎、その日は、ポールもサーカスに行っていたものですから。

 そこで、夫の伯母で、九十歳になるレディ・グラミスとその付添人でもあるヒリンドン婦人が、お部屋でお茶を嗜んでいらっしゃるところにお邪魔しました。


 ――伯母さま、ヒリンドン夫人ごきげんよう。わたくし、来週の伯爵の誕生日会で着るつもりのドレスの試着をしていたんですけれど、ちょっと様子を見ていただけないかしら?

 首飾りはやっぱり、この『セレーネの涙』が似合うと思いませんこと?


 ――あら、コーネリア、ごきげんよう。あなた、今日もとっても華やかなね。いいじゃないの、貴女に良く似合っていますよ。


 ――ええ、本当に。そうしてらっしゃると、まるで女神様みたいにお綺麗ですよ。伯爵さまもお喜びになりますでしょうね。


 お二人とも、とても感じのいい、魅力的な老婦人ですのよ。

 伯母とヒリンドン夫人はお二人とも、雪白の髪をひっつめて、しゃんと背筋を伸ばして上品にお茶を飲みながら、何があってもにこにこ微笑んでいるような人達ですの。あんなふうに年を取りたいものですわ。……あら、話が脱線してしまったわね。

 それから、わたくしは言いました。


 ――それじゃあ、やっぱりこれにします。あら、美味しそうなお茶だこと。とてもいい香りね。わたくしもご一緒させていただけない? なんだか喉が乾いちゃって。この部屋ったら、やけに暑いんですもの。汗をかいてしまったわ。


 春先とは言え、気温はまだ低いでしょう? 伯母ったら、まだ、暖炉に火を焚いていたんです。


 ――もちろん、そこに座って、お茶を召し上がりなさい。


 二人からそう言ってもらったものですから、わたくしも一緒にお茶をいただくことになりました。

 だけど、暑くて汗をかいていたので、首飾りを汚してしまってはいけないと思いましたし、あの首飾り、とても重くて肩が凝るものですから。


 ――じゃあ、お茶を頂戴しますね。ああ、この首飾りは重すぎるのが難点ね。ちょっと外して……ああ、楽になったわ。大事なものだから、ちょっとこちらに仕舞わせてくださいね。


 そう言って、わたくしは、暖炉の上の箱の中に『セレーネの涙』を確かに仕舞いました。


 その様子を伯母とヒリンドン夫人も確かに見ていました。

 そうして、ひとしきり歓談してから、わたくしは自分の部屋に戻りました。


 ところがまあ、なんてことかしら、わたくしったら、『セレーネの涙』を伯母の部屋の箱に入れたきり、すっかり忘れていたのです。

 ほどなくして気付いたわたくしは、慌てて伯母の部屋に戻りました。


 ――あらあら、あなたったら、これじゃあ、どっちが年寄りだかわかりませんよ。


 なんて伯母たちに笑われながら、箱を開けました。

 ところが、……ところが、なんてことかしら。

 絶対にそこにあるはずの『セレーネの涙』は、忽然と消えていたんです。


 コーネリア夫人は、そこで一度話を切り、片手で額を押さえると、その麗しい顔に苦悩の色を浮かべた。




 

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