第14話 声

 一仕事終えて汗をかいたので、湯浴みして清潔なドレスに着替えたところで、アリスタが朝食を運んできてくれた。


 不思議なことに、一晩泣くと心はほんの少し軽くなった。

 涙には自浄作用があるというのは本当らしい。

 これほど泣いたのは、父が亡くなった知らせを受けた十三歳の時以来だ。


 瞼は泣き腫れて見れたものではないが、幸か不幸か、わたしは人に顔を見せないから、何の問題もない。



 はい、一晩中考えました。


 始末、の件。


 しかし昨夜、ウェイン卿は部屋にまでやって来なかった。恐る恐る廊下を覗いても、待ち伏せもなければ見張られもしていない。


 ――つまり。


 伯爵邸の中で決行するつもりはない……?


 毒殺される可能性は捨てきれない。しかし、『騎士』という職業の人は下手な小細工を打つよりも剣にものを言わせるに違いない。

 考えてみよう。屋敷の中で抜剣……悲鳴、怒号、血の海、使用人集まってくる、後片付けと言い訳に追われる……。

 人の多い屋敷内ではまずい。狙われるのはきっと、外出中だ。


 むむ、と考える。


 わたし、人に会わないよう隠れ暮らすことには慣れている。むしろ得意。


 公爵とブランシュの食事に毒が入っていたのは確か。但し、二人とも命に別状はなかった。


 公爵も騎士も、多忙な人達。

 今のところ記憶に新しく、激怒していることだろう。しかし、時間が経つうち、段々と頭が冷めてくるに違いない。


 なんとしてもウェイン卿と会わないように避け続けていれば、そのうち面倒になってくれるのでは……?


 うん、たぶん、きっとそう。


 ほんの少し、前向きな気持ちになる。




「――そんなわけで、こうなったら、もう娘を身売りするしかない、って言ってたうちの一家を不憫に思った家主のヴィオレさんが、あたしの身元保証人になってくれたんです。それで、あたしみたいなのが、このお屋敷で雇ってもらえることになって」


「まあ、それじゃ、わたしもヴィオレさんには感謝しなくちゃね。お陰で、こうしてアリスタと会えたんだもの」


 微笑んで見上げると、アリスタは、ぽっと顔を赤らめる。


 アリスタと話すようになってから、これまで孤独を噛みしめるだけだった食事の時間は楽しみな時間へと変わった。


「もうベリーの季節なのね」


 今朝のメニューはアスパラガスのスープと黒パンのスライス。

 それに、アリスタが付けてくれてのだろう、瑞々しいラズベリーとブラックカラントが添えられたヨーグルト。爽やかな甘酸っぱさが、一晩泣いた身体に優しく染みる。


「お庭にたくさん実ってますよ! お昼は苺にします!」


 ふわふわとした髪を二つにくくり、可愛らしいそばかすの散った幼さの残る利発な顔を見上げて、ありがとう、と笑う。


(……こんな風に、人と他愛のない会話を交わすなんて、一体いつぶりかしら?)


 今では、アリスタはかけがえのない大切な存在だ。全力で大事にしよう。


 食後も少しだけ二人で話してから、アリスタが出て行ったところで、先日、王立図書館で借りた本の返却期限が、今日までだったことを思い出した。



 正直、命を狙われている状況で外出するのは気が進まない。


 しかし、窓から見える台風一過の青空は、陰で不穏な企みが進行しているとはとても思えないほど、明るく公正な光で地上を照らしている。


 こんな素晴らしく晴れた真昼間に、暗殺などという真っ暗な謀り事を実行する?

 暗殺者はもっと薄暗く人目につかない時間と機会を選ぶはず。


 出会わないように気を付けて、本を返したらすぐに戻ってくる。


(うん、大丈夫そうな気がする)


 フード付きの黒い外套をすっぽりと着こんで顔を隠し、分厚く重い本を袋に入れ落とさないようにしっかり両腕に抱える。

 廊下に人がいないのを確認しながら、こっそりと裏口へ向かった。


 裏口の片開きドアをそっと静かに開けた瞬間、目に飛び込んで来たのは黒く大きな影。


「…………!」


 跳ね上がる心臓を押さえ、ぎょっと顔を上げた。


 そこには、第二騎士団の馬車と、レクター・ウェイン卿をはじめとした四人の騎士が立っていた。


 いつも公爵が使っている四頭立ての絢爛豪華なものでなく、二頭立て黒塗りの箱馬車。

 それでも日頃、よく目にするものとは違う立派なものだ。

 ドアの下部分にさりげなく銀細工で施されているのは、第二騎士団の鷹の紋章。

 馬車は、裏口から裏門へと続く道を完全に塞いでいる。


(正面玄関じゃなく、裏口から出入りしているって知っていたの……?)


 ……いきなりピンチである。


 動揺を悟られないように、すっと背筋を伸ばす。ひっそりとした裏口に立派な黒塗りの馬車が停まっている様は、あまりにちぐはぐで、おかしみさえ感じた。


「おはようございます。伯爵令嬢。お出掛けですか?」


 ウェイン卿の台詞と表情だってちぐはぐ。あたたかいはずの挨拶の言葉は、氷の音を響かせる。


 二度目に聞くその声は、昨夜と違って、はっきりと耳に響いた。


 背筋を凍てつかせるような、冷たい、感情のない声。


 もともと、こういう話し方なの……?


 ううん、ちがう。

 きっと、わたし以外の誰かには、夢の中で思い描いたように優しく語りかけるのだ。


 ――『ドブネズミは、始末しておきます』


 昨夜、聞いてしまった冷たい声が頭の中に響き、胸が鼓動を早めた。


「時節柄、物騒なこともありますので、どこへ行かれるのにも必ず共をするように、との公爵からの指示です。お送りいたします」


 心臓はバクバクと音を立てたが、狼狽が顔に出ないように、知っていることを気取られないように、唇を噛み締め、ドレスの裾をつまんで、しずしずと礼をする。


「おはようございます。ご親切なお申し出、恐れ入ります。

 しかしながら、通いなれた図書館へ参るだけですので、皆様にお時間をとっていただくほどのことではございません。

 徒歩で参りますので、どうぞ、お気になさらないでください」


 本を左腕だけで抱き、右手でスカートをつまむと、左手だけでは大きな本の包みを支えきれず、するりとすべり落ちた。


 ウェイン卿がさっと手を差し出し、本をすくい上げる。拍子に、本が袋から少しはみだし、題名が顔を出す。


『自然界における毒とその歴史』


 我ながら、果てしなく怪しい。取り囲む四人の騎士達が、さっと目配せし合う。

 冷たい汗が、背筋をすっとなぞる。


「ええっと、あのう……、忘れ物を思い出しましたので、取りに戻ってまいります」


「では、こちらの女性騎士をお連れください」


 踵を返そうとしたわたしの前に立ちはだかり、行く手を阻んだのは、燃えるような赤毛の女性騎士・オディエ卿である。


 口元だけは微笑しているが、その琥珀色の瞳は、やはりちっとも笑っていない。


「……いえ、……あの、やっぱり、結構です……」


「そうですか。では、こちらに」


 笑わないウェイン卿が左手で馬車のドアを開き、右手で馬車の中を指した。


 前も右も左も後ろも、目が笑っていない騎士に阻まれている。もはや、逃れる術はない。


「………はい。では、お言葉に甘えさせていただきます」


 

 覚悟を決め、威圧感に押し込まれるように、あの世行きの馬車に乗り込んだ。

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