第13話 それはわたしと貴方が言った

 ――という話を、聞いてしまった。



 ブランシュが無事に回復したと聞き、安堵のため息を漏らした夜。



 ここ、ローゼンダールの王都には、春の暖気に誘われた嵐がやって来て、吠え猛っていた。


 屋根裏の窓ガラスには横殴りの雨が叩きつけられ、バチバチと不穏な音を立てる。


 頭上に雷が落ちたと錯覚するほど大きな地響きが轟き、思わず耳を塞ぎ、身をすくませた。



 わたしは、この屋根裏部屋が好きだ。


 ここは、間違いなくわたしの城であり、世界で最も寛げる場所だった。




 だけど、嵐の夜だけは別だった。


 暴風雨に晒されて、天窓は今にも屋根ごと吹き飛ばされてしまいそうに、ガタガタといやな音を立てる。

 天窓から覗く真っ黒な空の中に雷光が走ると、稲妻が自分に向かって、真っ直ぐに落ちてくる気がする。雷はだめだ。ただもう、恐ろしくてたまらない。


 嵐が来たなら、避難する場所はここに決まっている。幼い頃からの習慣。


 ――部屋の隅に置かれた、木製のどっしりしたクローゼット。


 大きなクローゼットの中に入り、内側から扉をぴったりと閉じる。身体を猫のように丸くして柔らかな毛布にくるまると、ほっと嘆息が零れる。まるで、何か大きくて力強いものに、優しく守られているよう。


 どれだけ暴風雨が吹き荒れていても、クローゼットの中は静かだ。外の世界と遮断されているみたい。ここだけは安全、って気がする。


 ようやく心の平穏を得て、うとうとと幸せな夢へと船を漕ぎ出しかけた、その時――


『……り、……もっとも…しいのは、あの、リリアーナ…もうと…しょう』


 自分の名前がどこからか呼ばれた気がして、耳を澄ませた。


 クローゼットが置かれた壁の裏には、書斎の暖炉から延びた煙道が走っている。


 屋根裏には暖炉も暖房もないが、この煙道のお陰で、雪降り積もる冬季でもほんのり温かい。


 煙道を通って音が伝わっているのだ、と気付くのに、それほど時間はかからなかった。


 屋敷の他の部屋の者たちが寝静まっていたこともあり、ノワゼット公爵とウェイン卿が書斎で交わす会話は、殊の外、はっきりと聞き取れた。



――『承知しました。ドブネズミは始末しておきます』



 ウェイン卿が公爵に応えた後、退室したと思われる音を聞いてから、そっとクローゼットの扉を開いた。


 息を詰めたまま、部屋のドアに鍵がかかっているのを確認すると、意図していないのに、大きな嘆息が漏れる。


 初めて聞くウェイン卿の声は、夢で想像していた、どんな声とも違っていた。


 温かみの欠片もない、氷のように冷たい声は、わたしへの嫌悪で満ちていた。


 ぞわりと肌が粟立ち、身体が小さく震え出す。

 の力が抜けて立っていられなくなり、ベッドの縁にぺたんと腰を下ろした。

 部屋の空気がやけに肌寒く感じて、二の腕を抱き締めた。


 ――間違いなく、このわたしを始末する、と言っていた。


 自分が誰にも必要とされない人間だとはわかっていたが、それでも、実際に死を望まれるのは、さすがに胸に堪えた。


 二年前、糸が絡まった鴉を助けている場面を目にした。

 一目惚れだった。

 あれから、二年、ずっとずっと、大好きだった。


 決して、叶わない恋だと知っていた。


 きっと、嫌がられるから。


 きっと、気味が悪いと思われるから。


 生涯、胸に仕舞っておくつもりだった。


 ただ、想うだけで、束の間、胸の奥に花が咲いたように心が浮き立ち、世界が金色に輝き出したようだった。


 ウェイン卿から好意を向けられたい、などと身の程知らずなことは、夢にも思っていない。

 そこそこ、嫌われているだろう、とは思っていた。



(……でも、死を望まれるほど嫌われているなんて、想像もしていなかった)



 苦しかった。胸が、内側から刃物で切り裂かれたみたいに、ずきずきと痛んで、息もできない。


 「………うっ………」


 喉の奥から、勝手に嗚咽が漏れたかと思うと、じわじわと涙が溢れ、やがて、とめどなく流れ出す。


 声を押し殺して、ただ、はらはらと涙を頬に伝わせながら、考える。


 わたしがブランシュに毒を飲ませるなんて、そんな馬鹿なことがあるわけがない。


 でも、……と思う。

 そんな風に疑いの気持ちを抱かせてしまったのも、これまで、疑われても仕方がない生き方をしてきたせいだ。


 こうなったのは、自業自得というものだろう。


 先程と変わらず、雷鳴は轟き、暴風が窓を鳴らしているのに、不思議ともう、そんなことはどうでも良かった。


「だけど……」


 誰の耳にも聞こえない、小さな声で、そっと呟く。


「わたしは貴方が、大好きでしたよ」


 ドアの向こうに、剣を握るウェイン卿が、感情を映さぬ冷ややかな目で、今にも佇んでいるような気がした。


 怖いのか、悲しいのか、自分でももう、よくわからない。


 先程、盗み聞いた会話の中に、他の容疑者の名は、一つも上がっていなかった。

 ノワゼット公爵とウェイン卿は、このわたしこそが毒を盛った犯人だと、確信していた。



 ――……ならば、もう、やるべきことは、ひとつのように思われた。



 一睡もできぬまま、夜を明かした。


 嵐が過ぎ去った後、そっと部屋を出て、誰にも見られていないことを確認しながら、庭園へと向かう。


 まだ夜明け前の空気は肌寒く、夜に紛れる漆黒の外套の襟をぎゅっと合わせ、フードを深く被る。


 それから、昨夜、降り注いだ激しい雨に全て洗い流されたかに見える、じっとりとぬかるんだ地面に、何か痕跡が残されてはいないかと、じっと目を凝らした。



 §



 グラミス伯爵は、屋敷に戻る馬車の中で、物憂げなため息をついた。


 最近、屋敷に戻りたくない。

 気が進まない。

 屋敷に帰ろうとすると、胸に錘を乗せられたかのように、気持ちが重くなる。

 原因はわかっている。

 あの、ポールという青年だ。

 美しい顔と、情熱的な瞳、若く逞しい体を持っている。


 妻が一月ほど前にどこからか連れて来て、付き添い人として側に置きたい、と言い出した時は、流石に仰天した。


「し、しかし、コーネリア、彼は、若い男じゃないか」


 思わず、そう口走ったが、コーネリアはさもおかしそうに、真っ赤なルージュをひいた唇の隙間から白い歯を覗かせ、魅惑的に笑った。


「あらそうよ、あなた。だけど、わたくし、どうしても彼がいいんです。

 彼がいなくちゃ、どうしても困るんですもの。

 なんにも、やましいことなんかありはしないわ。

 ただ、側におきたいだけ。ねえ、いいでしょう?」


 美しいコーネリアに甘えた声で頼まれて、つい、ああ……いいとも、と答えてしまった。

 しかし、絶対に反対するべきだった、と今になって激しく後悔している。

 コーネリアがポールを見つめる、あのうっとりと愛情あふれる目つき……。

 ポールの方も顔を輝かせながら、コーネリアを見つめ返している。

 あれは、とても見ていられるものではなかった。


 二十年も前に妻を亡くし、たったひとりの息子もハイドランジアとの戦争で三年前に亡くした。身内は年老いた叔母だけで、あとは遠縁の者も含めて、皆、早世してしまった。寂しくなかったと言えば、嘘になるだろう。

 そんな時、友人が励まそうと誘ってくれ、観に行った舞台。主演女優だったコーネリアに出会った。

 一目惚れだった。

 彼女のように情熱的な女性を見たことがなかった。

 家同士が決めた結婚で結ばれた、亡くなった妻のことも、もちろん深く愛していた。

 息子を産んでくれた後、すぐに亡くなってしまった彼女とは、友人のような、静かな信頼関係で結ばれていた。

 コーネリアの豊かに波打つ白金色の髪、白磁器のように白く輝く肌、アメシストのように妖艶に光る瞳。それから、胸を震わせる情熱的な声。

 もうすぐ六十になるわたしよりも二十四も年下だったが、わたしは彼女にすっかりのぼせ上ってしまった。

 そして、驚いたことに、彼女はわたしの気持ちに応えてくれた。

 プロポーズを了承してもらった時の天にも昇るような気持ちは、今でも忘れられない。

 古くからの友人たちは、わたしを心配して、コーネリアが男好きだとかいう悪評を色々教えてくれたが、そんなもの、気にも留めなかった。

 ……しかし。

 ……今だって、コーネリアへの気持ちは変わらない。

 だが、腹の底から沸々と、疑惑が湧き上がってくるのを抑えられなかった。

 あのとき、友人たちの方が真実を言っていたとしたら―――


 彼女が欲しかったのは伯爵夫人という称号だけで、もしかしたら、本心ではわたしが早くあの世へ行くのを望んでいるのかもしれない……。


 考えている間に馬車は屋敷に着き、重い足取りでタラップを降りた。

 ため息をつきながら玄関ホールに入ると、出迎えの使用人たちがいない。

 ああ、そうか、使用人たちには今日、サーカスを観に行かせるために、数時間、暇をやったんだったな、と思い出す。

 彼らだって、たまには休息や楽しみも必要だろうから――

 

「あなた!!」


 そこまで考えたところで、コーネリアから鋭く呼ばれる声がして、はっと顔を上げる。

 廊下を急いだ様子で駆けてくるコーネリアの姿が見えた。

 今日は体の線にぴったり沿った白いドレスを着ていて、その姿は見惚れるほどに美しかった。

 先ほどまでの嫌な感情を忘れ、幸福感が湧き上がる。

 

「コーネリア、今、帰ったよ」


「あなた……、あなた、大変なの!屋敷に、泥棒が入ったみたいで……」


 コーネリアの顔は真っ青で、髪は乱れ、取り乱していた。

 わたしと共に帰宅した騎士達に、緊張が走る。


「なんだって!? 大丈夫か!? 君と叔母上に怪我は?」


「大丈夫、叔母様もヒリンドン夫人もわたくしも何ともないわ……でも、でも、ないの。わたくしの大切な『セレーネの涙』が、消えてしまったのよ。」


 コーネリアの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。安心させるように、その肩を抱く。

 騎士達の方に視線を送ると、全員が鋭い眼付きで頷き、動き出した。


 『セレーネの涙』、コーネリアの舞台を観て感動した、さる大国の王族がコーネリアに贈ったもので、大粒の傷のない真珠が連なった首飾りだ。

 コーネリアが何よりも大切にしていて、あの首飾りをつけたコーネリアは女神のように美しかった。

 この世に二つとないと言われていて、その価値は推して知るべし。


 わたしには、疑惑があった。

 コーネリアのお気に入りのポールとかいう男、調べさせたら、いかがわしい連中に多額の負債を抱えていることがわかった。

 『セレーネの涙』があれば、すべて返済してもお釣りがくるだろう。


 まあ、誰が盗ったか、調べればすぐにわかることだ。

 王宮第三騎士団団長のハミルトン公爵の引退した父親はわたしの古い友人だ。

 彼にも頼もう。

 あんな若造が、王宮騎士団の手練れの騎士を相手に、しらを切り通せる筈がない。

 『セレーネの涙』もすぐに見つかるだろう。



 ――だが、その思惑は外れることになった。


 『セレーネの涙』盗難事件は新聞に書き立てられ、しばらく世間を騒がせた。

 さまざまな憶測が囁かれたが、真相は明らかにならず、迷宮入りの様相が、濃くなるばかりだった。

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